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第十九話 司祭は来られない

 低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。

 けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。

 三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。

 十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。

 そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。

 S、O、L。

 これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。

 どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。

 数え間違えれば、また誰かが燃える。

一七三五年冬〜一七三九年春 ヴェネツィア/二〇二六年十二月十六日 東京・三鷹


 あの夜、マッダレーナは、振り返らないまま答えた。

 「低音の刻みを。写し間違いが多いから」

 背後で、ジローラモの息遣いだけがしていた。蝋燭の芯が、ぱちりと爆ぜた。

 「そうか」

 いつもの、掠れた低い声だった。床板が軋み、足音が遠ざかって、扉が閉まった。

 マッダレーナは、そのまま朝まで動けなかった。彼は、見たのだろうか。机の上の楽譜を。刻みの数を。

 朝になって、楽譜を一枚ずつ確かめた。どの頁も、昨夜のままだった。刻みの数も、インクのかすれも、何一つ変わっていない。触れる必要がなかったのか。それとも、触れたくなかったのか。彼の声は、もう、彼女にも読めなくなっていた。

 最後の小節は、空白のまま残った。


 それから、二年が過ぎた。

 ジローラモは、表向きは何も変わらなかった。昼は写譜をし、劇場に声部を届け、夜は一人で残って、蝋燭の下で何かを書いていた。

 変わったのは、ヴィヴァルディ師のほうだった。客の好みはナポリから来た新しい作曲家たちの甘い歌に移り、赤毛の司祭の激しい音楽は、古いと言われはじめていた。それでも師は、自分で歌い手を集め、自分で台本を選び、フェッラーラやマントヴァにまで興行を打ちに出かけていった。

 一七三七年の冬、劇場の使い走りが工房に駆け込んできた。フェッラーラの枢機卿ルッフォが、師の入市を禁じたという。ミサを行わない司祭であること。歌い手のジロー嬢と親しくしていること。職人たちが、ひそひそと囁き合った。ジローの娘と、ねえ。姉さんも一緒に住んでるっていうじゃないか。いや、師は胸の病で、一人じゃ歩けないんだ。どうだかね。

 マッダレーナは、ペン先を強く押しつけて写譜を続けた。

 十年あまり前、楽屋の鏡の前でべえと舌を出したアンナの顔を思い出していた。歌い手だって、女は女よ。ずっと、いろんなことを言われる。

 ジローラモだけが、声を立てて笑っていた。

 「名を偽った男が、罰を受けている。他人の旋律に自分の名前をつけて、喝采を浴びた男がね」

 「師は、何も偽っていない」

 マッダレーナは、ペンを置いた。

 「トランクの歌の出所を、覚えていなかっただけ。あなたの名前が、どこにも書かれていなかったから」

 ジローラモの顔から、表情というものがすべて消えた。それから、マッダレーナの知らない顔が浮かび上がってきた。

 「書かせなかったのは、誰だ。写す側の名前は、どこにも書かれないと、君の父親は言った。じゃあ、書かれなかった名前は、どこへ行く。灰になるのか」

 彼は、インクの染みの消えない、長い指を見下ろした。

 「僕の名前は、燃えている。他人の唇の上で」

 それは、彼自身が二十四年前に書いた歌の、最初の一行だった。

 翌日には、彼はもう穏やかな顔で写譜台に向かっていた。若い弟子が師の噂を蒸し返すと、ペン先をインク壺に浸しながら言った。

 「人はね、信じたいことを信じるんだよ。本当のことなんて、誰も知りたくないのさ」


 一七三九年の春、師の興行は、決定的に崩れた。

 フェッラーラで師の代わりに上演されたオペラは、チェンバロ弾きがレチタティーヴォを勝手に変えて罵声を浴び、次の《ファルナーチェ》は上演を拒まれた。ヴェネツィアに戻った師は、舞台画家のマウロと、誰が楽師に金を払うかで書状をやりあい、その写しの仕事が工房に回ってきた。

 師の字は、行の終わりが右下へ流れ、ところどころペン先が紙を引っかいていた。手が、震えていたのだ。師はもう六十を過ぎていた。その震えを写しながら、マッダレーナは、十五歳のときに楽屋で言われた言葉を思い出していた。低音を太く書く娘は、信用できる。

 その春のある日、師が、パオリーナの肩を借りて工房の階段を上がってきた。入口の椅子にどさりと腰を下ろし、息を切らしたまま言った。

 「ペッリの娘はいるか」

 マッダレーナは、写譜台から立ち上がった。

 「マウロとの書状の写しを、よくやってくれた。お前の字は、相変わらず太い」

 「ありがとうございます」

 「褒めとらん」

 師は、二十三年前と同じことを言い、それから少し笑った。その笑い方が、ひどく疲れて見えた。

 「わしは、来年、ヴェネツィアを出る」

 工房の空気が、止まった。

 「この町は、もうわしの音楽を聴かん。ウィーンには、わしの音楽を好いてくださる方がいる。最後に、そちらへ行く」

 階段を下りていく師の背中を、ジローラモが写譜台から見ていた。その目には、もう、ふりも演技もなかった。炭の芯のような、暗く熱い光だけがあった。


 その夜、マッダレーナは、紙の在庫を確かめに工房の地下へ下りた。蝋燭を掲げて、階段の最後の段に足を下ろしたとき、何かにつまずいた。

 栓をした陶器の瓶が、何十本も、紙の束の陰に隠すように並んでいた。栓の隙間から、鼻を刺す匂いが漏れていた。

 油だった。

 階段の上で、扉の閉まる音がした。振り返ると、上の暗がりに、人影が一つ立っていた。

 「ランプの油だよ。冬は、長いからね」

 ジローラモの、穏やかで優しい、昔の声だった。

 階段を上がりながら、蝋燭の炎が震えているのに気づいた。自分の手が、震えているのだった。すれ違うとき、彼は一歩脇へ寄って、礼儀正しく道を空けた。

 「足元に気をつけて。三段目が、少し傷んでいる」

 「知ってる。父の代から」

 部屋に戻り、扉に背中を押しつけた。嘘なのか、本当なのか。どちらでもいい、と思った。どちらにしても、自分はまた、何も訊かないのだ。

 寝台の下の箱から ARSI の低音の束を取り出し、最後の頁を開いた。空白の小節の手前に、四年前にペンを止めたまま、一文ぶんの空いた五線が残っていた。何を刻めばいいのか、ずっと分からなかった。いまは、分かっていた。

 マッダレーナは、ペン先をインク壺に浸した。ソ、ソ、ソ。五つ。七つ。指が、地下の瓶の匂いを覚えていた。

 夜が明ける前に、彼女は最後の一文を刻み終えた。誰が、とは書かない、短い一文だった。

 名前の小節だけを、空けたまま。

 空白の小節が、蝋燭の光の中で、白く浮かんでいた。


 二〇二六年十二月十六日の夜、三鷹署の小会議室に、火災調査官の日向早苗が大判の封筒を抱えて入ってきた。

 「久我さん、まだおったんや。ちょうどええわ」

 会議室の蛍光灯が一本、ちりちりと瞬いていた。廊下の向こうで当直の電話が二度鳴り、やんだ。日向の紺の作業着からは、かすかに焦げた木の匂いがした。焼け跡の匂いは、何日経っても、布の目から抜けない。

 机に広げられたのは、十二月三日、白洲恭介のスタジオの暖炉を撮った写真の引き伸ばしだった。灰の上に残った三文字。もう何度も見た写真だった。

 「字ィやない。こっちや」

 日向は赤鉛筆の尻で、遺体のあった位置の脇を指した。灰の表面が、浅く、楕円に二つ、沈んでいる。

 「膝の跡が二つ。誰かが、灰の字を見下ろしとったんや」

 久我は、黙って写真を引き寄せた。

 「火が消えてからや。燃えとる最中に膝なんかついたら、ズボンごと焼けてまう。灰が冷えて締まりかけたとこに、体重がかかっとる」

 「いつですか」

 「通報の前。鑑識が入ってからの足跡とは、沈み方がちゃうねん」

 日向は、定規を写真に当てた。

 「それと、この幅。膝頭の間隔も、沈みの深さも、小柄な人のもんやあらへん。大きい男や。相当、目方のある」

 久我の指が、写真の縁で止まった。

 「犯人ですか」

 「そこまでは言われへん。分かっとるのは、誰かがここに膝ついて、あの三文字をじっと見とった、いうことだけや。読もうとしたんか、消そうか迷うたんか。それは、膝の主に訊くしかあらへん」

 日向は、封筒からもう一枚抜き出した。くぼみの縁を、真上から寄って撮ったものだった。細かい灰の粒が、縁に沿って、砂のように盛り上がっている。

 「ほら、ここ。片っぽだけ、前が深いやろ。右の膝に重みが寄っとる。まっすぐ座っとられへんかったんやな。足が悪いんか、腰が抜けとったんか」

 「なぜ、いまになって分かったんですか」

 「七日にうちが入ったときには、炉の前の灰は、もう鑑識さんが掻き寄せたあとやった。残っとるのは、三日の朝のこの写真だけや。字ィのほうばっかり撮っとるさかい、膝は端っこにしか写ってへん」

 日向は、少し口を尖らせた。

 「ゆうべ、写真を一枚ずつ並べ直しとって、引っかかったんよ。うちの悪い癖や。いっぺん引っかかったら、寝られへんようになる」

 久我は、引き伸ばしを蛍光灯の下に傾けた。灰の表面に、浅い影が二つ、寄り添うように落ちた。誰かが、ここで、しばらく動けずにいた。三文字の前で。

 「心当たり、あるんか」

 久我は答えなかった。頭の隅に、酒に濁った赤ら顔が一つ、浮かんで消えた。

 柘植圭吾は、十四日の未明から、どこにもいない。多摩川の河原に、畳まれた衣服だけを残して。十五年前、燃える家の、書斎の隣の部屋にいて、叫び声は聞こえなかったと話した男だった。あの男なら、膝をつくだろうか。灰の上の、誰かの最後の字を前にして。

 「この写真を、一枚お借りできますか」

 「ええよ。焼き増ししてきたから、封筒ごと置いとくわ」

 日向は、作業着のポケットに赤鉛筆を差し込み、戸口で振り返った。

 「久我さんも、たまには寝や。目ェの下、真っ黒やで。ほな」

 ドアが閉まると、会議室は、急に広くなった。蛍光灯の瞬く音だけが残った。久我は、もう一度、写真を引き寄せた。

 灰の上の二つのくぼみに、誰かの重みが、まだ残っていた。


 今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。

 もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。

 次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。

 それでは、次の小節でお待ちしています。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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