第二十話 水の下
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
二〇二六年十二月十七日 東京・三鷹/中野
十七日の朝、奏は久我からの電話で目を覚ました。
「早瀬さん。父の手帳の、あの一行を覚えていますか」
前置きのない、いつもの話し方だった。
「防火水槽の蓋に、動かした跡がある、という」
奏は、ベッドの上で体を起こした。
覚えていた。調布の六畳間で読んだ、几帳面な楷書の一行。裏庭の防火水槽、蓋に動かした跡。雪の上に擦れ。誰が、いつ。
「昨夜、ずっと考えていました。燃えたはずの写本は、火の前に持ち出された。持ち出した人間は、それをどこかに隠したはずです。燃え跡の家の中ではない。自分の家でもない。警察が調べに来るかもしれないから」
「家のすぐ外の、誰も覗かない場所」
「はい。父は、そこに気づいていた。気づいていて、確かめさせてもらえなかった。今日、それを確かめます」
奏は、枕元の楽譜の写しに目をやった。歌詞の二行目が、朝の光の中で黒く浮かんでいた。
Resta a me sol la cenere e il canto.
私に残るのは、ただ灰と歌ばかり。
あの冬の焼け跡に残ったのが灰だけなら、歌はどこへ行ったのだろう。
鳴海邸の焼け跡に着いたのは、十時過ぎだった。
冬の晴れた日で、空気は乾いて冷たかった。焼け跡の草は霜で白く縁取られ、踏むと小さな音を立てた。日向が、作業着に長靴姿で、先に来て待っていた。所轄の警官が二人、生垣の外で見張りに立っている。
裏庭の隅の防火水槽は、一辺が二メートルほどの、コンクリートの四角い箱だった。地面から腰の高さほど立ち上がり、上を厚い鉄板の蓋が覆っている。蓋の縁は錆びて、苔がこびりついていた。
「あの晩、うちらはこの水、使わんかったんよ」
日向が、蓋の縁を手袋の指でなぞった。
「消火栓が近くにあったからな。これは、昔の名残や。戦前に、この辺りの家が自分らで作らされたやつ。もう誰も使てへん」
「中は」
「雨水が溜まっとるはずや。ずっと放ったらかしやから、底は泥やろな」
三人がかりで、鉄板の蓋をずらした。重い、軋むような音がした。
中は、暗かった。黒い水面が、冬の空を映して鈍く光っている。水は、縁から五十センチほど下まで溜まっていた。腐った落ち葉の匂いが、冷たい空気に混じって上がってきた。
日向が、長い鉄の鉤のついた竿で、水の中を探りはじめた。底の泥をかき、竿を引き上げ、またかく。何度目かで、竿の先が何かに引っかかった。
「なんか、ある」
日向が、慎重に竿を引き上げた。
泥にまみれた、四角い包みだった。厚い油紙で何重にもくるまれ、紐で十文字に縛られている。油紙の表面は黒く変色し、ところどころに泥がこびりついていた。
日向が包みを地面に下ろし、ビニールシートの上に置いた。久我が手袋をはめ、紐をほどいた。
油紙を、一枚ずつ剥がしていく。外側の何枚かは水を吸ってぼろぼろになっていたが、内側に行くにつれて、紙は乾いていた。
最後の一枚の下から、古い紙の束が現れた。奏は、息を呑んだ。
黄ばんだ五線紙。茶色く褪せたインク。手書きの音符が、びっしりと並んでいる。表紙はなかった。いちばん上の頁の隅に、イタリア語で、ATTO TERZO、と書かれていた。
第三幕。
「鳴海さんの、写本」
奏は、声に出した。
十五年前に燃えたはずの、ヴェネツィアの古い写本。その第三幕の、残りの部分だった。火事の夜、白洲が鳴海から預かって帰った一葉の、その続きの。
久我が慎重に頁を繰るのを、奏は息を詰めて見ていた。束の中ほどで、見覚えのある頁が現れた。歌の段と、低音の段。低音には、ソの刻みが延々と続いている。
最初の音は、ソだった。一葉の裏面の右端に書かれていた、あの小さな印と同じ高さの。
「続きです」
奏の声が、自分でも驚くほど大きくなった。
「白洲さんの一葉の、続きの低音です。刻みが、まだこんなに」
久我は、紙の束をそっとめくった。束のあいだに、別の紙が何枚か挟まっていた。
一枚は、罫線の入った便箋だった。万年筆の、達筆な字で、何かが書きつけてある。
「鳴海さんの字です」
奏は言った。合宿の掲示板に貼られていた予定表の字と、同じだった。
便箋には、楽譜の数字を書き写したらしい列と、イタリア語の単語がいくつか、走り書きされていた。IO。MADDALENA。BASSO。奏が三日前に解いたのと、同じ単語だった。便箋の端には、五段四列の文字の表が、鉛筆で小さく書き写されていた。エレナが見せてくれた手習いの帳面の表と、同じ並びだった。
便箋の余白には、イタリア語の一行が、ほかの字より大きく書かれていた。
Sol la fiera crudel gelosia fa Orlando impazzir.
奏は、声に出さずに訳した。ただ、残酷で猛々しい嫉妬だけが、オルランドを狂わせる。鳴海自身の言葉なのか、どこかの古い台本から写した一行なのか、それも分からなかった。
鳴海は、あの冬に、この暗号の途中まで読んでいたのだ。便箋の最後の行だけが、日本語だった。
——ARSIを千尋に歌わせるな。あの男が壊れる。
奏は、その一行を、何度も読んだ。
あの男。
誰のことなのか、便箋のどこにも書かれていなかった。
「もう一つ、あります」
久我が、紙の束のいちばん下から、小さなものを取り出した。
透明なビニールの袋だった。口がジッパーで閉じられるようになっている。中に、プラスチックのカードが一枚、入っていた。首から下げる紐の通し穴がついた、名札のようなもの。
カードの表に、写真と名前が印刷されていた。写真は色褪せていたが、顔は分かった。今より十五歳若い、痩せた男。
鳴海声楽研究所 事務局 柘植圭吾。
誰も、口を開かなかった。
霜の溶けかけた草の上を、冷たい風が渡っていった。
「柘植さんの、職員証」
日向が、低く言った。
「十五年前の、やな」
生垣の外から覗き込んでいた所轄の若い警官が、ぽつりと言った。
「あの晩、窓から屋根伝いに逃げた人ですよね。その前に、写本をここに沈めて、職員証も一緒に落としたってことですか」
久我は、ジッパーの袋を、日の光にかざした。袋は、泥水の中にあったにしては、驚くほど透明だった。
「父は、この蓋が動かされたことに、気づいていた」
久我は、袋を下ろした。
「気づいていて、確かめなかった。いや、確かめさせてもらえなかったのかもしれない。事故で片づけろと、上から言われて」
奏は、久我の横顔を見た。表情は、いつもと変わらなかった。けれど、袋を持つ手に、わずかに力が入っているのが分かった。
「久我さん。お父さんは、正しかったんです」
久我は、何も答えなかった。ただ、小さく、一度だけ頷いた。
包みを鑑識の車に載せたあと、奏は、焼け跡の生垣の縁に腰を下ろした。
久我が、少し離れたところで、所轄の警官と何か話していた。日向は、防火水槽の縁にしゃがみこんで、まだ水面を覗き込んでいた。
奏は、焼け跡の土台の石を見つめた。
あの冬、ここに家があった。一階の客間で、自分は眠っていた。二階の書斎で、鳴海と千尋が死んだ。隣の事務室から、柘植が窓伝いに逃げた。二階の客間から、葛城が階段を駆け下りてきて、煙の中で自分を抱え上げた。
そして、誰かが写本を抱えて、この裏庭へ出て、防火水槽の重い蓋をずらした。
雪が降っていた、と、久我の父の手帳には書いてあった。雪の上に擦れ。
奏は、目を閉じて、その夜の裏庭を思い描こうとした。燃え上がる二階の窓。雪の積もった庭。蓋をずらす重い音。誰かの、荒い息遣い。
何も、見えなかった。
あの夜、自分は、一階の客間で眠っていたのだ。目を覚ましたときには、煙の中で、誰かの腕の中にいた。
日向が、水槽の縁から立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
「冷えるで。車、暖めとくわ」
「ありがとうございます」
日向は、奏の隣に立ち、焼け跡を見渡した。
「十五年、あの水の底におったんやなあ。あの楽譜」
「はい」
「燃えんで、よかったな」
日向は、ぽつりと言った。
「火は、何でも燃やすけどな。水の底までは、届かへんのや」
日向は、防火水槽の縁に腰を下ろし、濡れた手袋を絞った。
「ずっと、この水の底で、誰にも見つけられんと待っとったんやな。冬は凍って、夏は藻が生えて。そのあいだ、うちらは、上の焼け跡ばっかり見とった」
日向は、空を見上げた。
「燃え方を読むのが、うちの仕事や。けど、燃えへんかったもんのことは、誰も読まへん」
奏は、水槽の黒い水面を覗き込んだ。冬の空が、そこに、もう一枚の空のように映っていた。
あの夜、誰かがこの包みを、ここへ沈めた。燃やさずに。燃やせば、無かったことにできたのに。
焼け跡を出て、奏はホールへ向かった。
楽屋に入る前、奏は事務室に寄った。
「安西さん。十五日と十六日、私の楽屋に、誰か入りましたか」
「廊下に警察の人が立ってましたから、記録があるはずですよ」
奏は、楽屋に入った者の記録があることを、久我に短く知らせた。
返事は、すぐに来た。
——管理官が、楓さんの線を正式に洗うことにしました。傷の向きと、十四日未明の外出。柘植さんの姿が消えた時刻に、重なっています。自作自演の可能性も含めて。
奏は、病室の楓を思い浮かべた。楓は、フォリアを歌うとき、シの前に、下から短くすくい上げる前打音を入れる癖がある。稽古場で、何度も聴いた。誰も真似をしない、楓だけの飾りだった。
夕方、奏はホールの楽屋で、稽古が始まるのを待っていた。チェンバロの蓋は、急ごしらえの修理で、継ぎ目に白い木工用の接着剤の跡が残っていた。
楽屋の扉が開いて、葛城が入ってきた。入るなり、隅にいた杏奈に小さな水筒を一つ手渡し、それから、まっすぐ奏のほうへ来た。
「奏さん。聞いたよ。水槽から、写本が出てきたって」
葛城は、奏の隣の椅子に腰を下ろした。
「三浦さんが、楽屋口で電話していたのが聞こえたんだ。柘植さんの、昔の職員証も一緒だったって」
「はい」
葛城は、膝の上で指を組んだ。それから、両手で顔を覆った。
「十五年前、僕は二階にいたのに、何も気づかなかった」
指の隙間から、くぐもった声が漏れた。
「隣の部屋で、あの人が写本を持ち出して、火を点けていたのに。千尋が、書斎にいたのに。僕は、煙に気づいて、一階へ逃げることしかできなかった」
「葛城さんは、私を助けてくれました」
奏は、葛城の腕にそっと手を置いた。
「それで、十分です」
葛城は、顔から手を下ろした。目が、赤かった。
「ありがとう」
それから、葛城は鞄から小さな水筒を取り出し、奏の前に置いた。
「蜂蜜と生姜。千尋の配合なんだ。鳴海先生の門下では、稽古の前に、皆これを飲んでた」
楽屋の隅で、杏奈が同じ水筒の蓋を持ち上げて、奏に小さく笑ってみせた。
さっき、葛城がその水筒を差し出したとき、杏奈は、受け取る手を一瞬だけ引っ込めた。それから、何でもないように受け取った。いま、奏に向けた笑顔は明るかった。けれど奏は、杏奈の指先が、蓋の縁を白くなるほど握っているのに気づいた。杏奈は、そのあと一度も、葛城のほうを見なかった。
奏は礼を言って水筒を受け取り、口をつけずに、鞄にしまった。
その夜、奏は自宅で、鑑識に回す前に久我が撮らせてくれた、写本の写真を見ていた。
水の下から出てきた第三幕。その最後の頁の、余白の隅に、鉛筆で一行、日本語の書き込みがあった。昼間は気づかなかったものだった。拡大してみると、震えるような細い字で、こう書かれていた。
——二十日、オルランドを終わらせる。
鉛筆の字は、鳴海のものではなかった。右下がりに崩れた、癖の強い字だった。保険会社に出された損害の目録の署名の字に、よく似ていた。古い書き込みにしては、鉛筆の線が、妙に黒々としていた。
柘植の字だ、と奏は思った。
公演まで、あと三日。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




