第二十一話 空けた小節
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
二〇二六年十二月十七日夜〜十八日 東京・中野/三鷹
十七日の夜、奏は床に座り、譜面台に二つの楽譜を並べた。
白洲の一葉の写しと、水の下から出てきた頁の写真。一葉の裏面の右端の印から、写真の最初のソへ。ずっと別々の場所にあった低音が、譜面台の上で、一本につながった。
奏はチェロを抱え、ソの刻みを最後まで弾いた。
エレナとは、画面を繋いだままにしてあった。ヴェネツィアは昼の十二時を過ぎていた。画面の向こうで、エレナが窓を背にして、紙と鉛筆を構えていた。
「始めてくださいませ、早瀬さま」
奏は、弓を弦に下ろした。
一小節ずつ。腕で数える。レの刻みは八つ。ドの刻みも八つ。それは数えない。ソの刻みだけを。五つ。七つ。四つ。七つ。八つ。
数えるのはソの音だけだと、奏はもう知っていた。十日あまり前、灰の三文字を音の名前だと気づいたときから。けれど今夜、最後の数十小節を弾きながら、奏はあらためて思った。白洲は、あの夜、暖炉の前に倒れて、薄れていく意識の中で、この楽譜のことを考えていたのだ。犯人の名前ではなく。自分を殴った者の名前ではなく、ソの刻みだけを数えろ、と。
なぜだろう。
犯人の名前を書けば、すぐに済んだはずなのに。
奏は、その問いを胸の奥にしまい、弓を動かし続けた。頭の中で数える声と、弓とが、一つになっていた。
数字を読み上げる。エレナが、それを二つずつ組にし、五段四列の表に当てはめていく。画面の向こうで、鉛筆の走る音が聞こえた。
IO MADDALENA SCRISSI IL BASSO.
ここまでは、もう読めていた。
その先。
E、G、L、I。EGLI。彼は。
S、C、R、I、S、S、E。SCRISSE。書いた。
S、O、L、O。SOLO。
奏は、弓を止めかけた。ソロ。ただ、だけ。灰の三文字と同じ綴りで始まる、言葉。
IL CANTO E LE PAROLE.
「彼は、歌と言葉だけを書いた」
エレナが、ゆっくりと訳した。奏は、次の組へ弓を進めた。
IL RESTO NON E SUO.
「残りは、彼のものではない」
奏は、弓を持つ手に力を込めた。刻みは、もう楽譜の最後の近くまで来ていた。
IL FUOCO.
「火は」
LO SCRIVERA.
「……それを書くだろう」
エレナの鉛筆が、止まった。奏も、弓を止めた。残ったのは、弧を二本引いた小節が一つと、最後の一小節だった。
五線の上に、何もない。音符も、休符も。ただ、小節線だけが引かれている。
奏は、その空白の上に、弓をかざしたまま動けなかった。
「火は、それを書くだろう」
エレナが、もう一度、囁くように読んだ。
「主語が、ございません。誰が書くのか。火が、何を書くのか。この最後の小節に、名前が入るはずだったのです」
「でも、入っていない」
「ええ。わざと、空けてあるのです」
画面の向こうで、エレナは鉛筆を置き、両手で口元を覆っていた。
「早瀬さま。この方は、三百年前に、誰かが火を点けることを、知っていたのですね。そして、その人の名前を、最後まで書かなかった」
奏は、楽譜の最後の空白を見つめた。
IO MADDALENA SCRISSI IL BASSO. EGLI SCRISSE SOLO IL CANTO E LE PAROLE. IL RESTO NON E SUO. IL FUOCO LO SCRIVERA.
私マッダレーナが、低音を書いた。彼は、歌と言葉だけを書いた。残りは彼のものではない。火が、それを書くだろう。
その一行を口の中で繰り返したとき、奏は、ふと、安西の動画を思い出した。扉越しの、完璧な歌。あの歌の底でも、チェロが小さく鳴っていなかったか。歌だけを聴いていたから、気にも留めなかった。あれは、誰の低音だったのだろう。
そして、空白。
名前を刻まないこと。
それは、赦しなのだろうか。それとも、もっと別の何かなのだろうか。
奏は、一葉の写しを、もう一度手に取った。裏面の最後の段。次の頁の最初の音を示す、小さな印。その後ろの余白に、昨日見つけた、鉛筆の全音符。
ソ。
奏は、水の下から出てきた頁の写真を、その隣に並べた。続きの最初の音も、ソだった。
鉛筆の全音符は、まるで、あの小さな印を読める誰かが、継ぎ目に置いた署名のように見えた。
低音を読める誰か。
奏は、写真の中の、泥水の中にあったにしては妙に透明だった、職員証の袋を思い出した。それから、写本の最後の頁の、右下がりに崩れた鉛筆の字を。
鉛筆。
「エレナさん」
「はい」
「全音符を一つ書くのに、字の癖は出るでしょうか」
エレナは、少し考えた。
「丸の閉じ方に、出ることがあります。右から閉じる方と、左から閉じる方。わたくしどもは、それで写譜師を見分けることもございます。ただ、たった一つでは、とても」
奏は、全音符の丸を、指先でなぞった。鉛筆の線は、丸の右上で、少しだけ重なっていた。
通話を終える前に、エレナが、ふと思い出したように言った。
「早瀬さま。研究所の古い寄贈目録に、一つ、気になる記録がございました」
「記録?」
「十九世紀の初めに、カンナレージョのある家から、写譜の束がまとめて寄贈された記録でございます。寄贈者の名前は書かれておりません。ただ、束の包みの表に、こう書いてあった、と目録に記されております」
エレナは、手元の紙を読み上げた。
「Al basso——低音の人へ」
奏は、息を止めた。
「その束は、いまも研究所に」
「いいえ。残念ながら、二十世紀の初めに、目録から消えております。売られたのか、どこかへ貸し出されたまま戻らなかったのか。その後の行方は、分かりません」
エレナは、紙を置いた。
「でも、もしかしたら、その束の中の一冊が、どこかを巡り巡って、早瀬さまのお国の、鳴海さまという方の書斎に辿り着いたのかもしれません。そう思うと、わたくし、胸がどきどきいたします」
画面の向こうで、エレナは両手を胸に当てた。
「低音の人へ。三百年前の方が、そう書いて、誰かに託した。そして、三百年経って、本当に低音の方の手に渡った。マンマ・ミーア。こんなことが、あるのですね」
奏は、膝の上のチェロに、そっと手を置いた。
低音の人へ。
白洲は、この楽譜の一葉を、奏のチェロケースに入れた。早瀬くん、これは低音の仕事だ、と書き添えて。
三百年前の誰かと、白洲は、同じことをしたのだ。
十八日の朝、捜査本部は柘植圭吾の逮捕状を請求した。
十五年前の鳴海邸放火と殺人、十二月二日の白洲恭介殺害、十二月九日の楓湊への傷害。容疑は三つ。水槽から見つかった職員証、焼けたはずの弱音器の目録への署名、千尋の手紙が示す動機、楓の証言、稽古場での振る舞い。そして、多摩川の衣服のあいだに挟まれていた、狂ったふりは卑怯ではないという台本の頁。
十五年前の放火を容疑に入れるかどうかで、会議は一度だけ荒れた、と久我はあとで短く言った。
「十五年前は事故だ。今回の犯人は柘植だ。二つをつなげる必要はない」
管理官は、そう言ったという。十五年前、三鷹署の係長として、あの火事の捜査を止めた人だった。
「つなげたのは、柘植さんではありません。父の手帳です」
久我は、それだけ返した。結局、十五年前の分も、柘植の容疑として書類に載った。
逮捕状は、昼過ぎに出た。
柘植の行方は、まだ分からなかった。多摩川の捜索は続いていたが、遺体は上がっていない。駅や道路の防犯カメラにも、柘植らしい人物は映っていなかった。
奏は、三鷹署の小会議室で、久我からそのことを聞いた。
「一つだけ、分かったことがあります」
久我は、手帳を開いた。
「十四日の一時五十分、柘植さんらしい客を、井の頭公園の西口で降ろしたタクシーが見つかりました。運転手の話では、ひどく酔っていて、降りるまで、ホールで千尋が歌ってる、と繰り返していたそうです」
ホールで、千尋が歌っている。奏は、膝の上で手を握った。
「ホールの周りは、昨日、もう一度調べさせました。何も出ていません。柘植さんの車は多摩川の土手で見つかっていますが、新宿の駐車場からいつ出たのかも、分からない。管理官は、逃げる前に一度寄っただけだと言っています」
久我は、手帳の頁をめくった。
「柘植さんを呼び出した電話は、プリペイドの携帯からでした。買われたのは、十二日の夜、目白の駅前の店です」
目白。冴子の家の、坂の下だった。
「それから、父の手帳にあった、十五年前の夜の、坂の白いコートの女。冴子さんは、あの合宿に、差し入れで何度か顔を出していたそうです。管理官は、そこも訊くと言っています」
「あと、井の頭池の泥の中から、白洲さんの家の火かき棒と、白洲さんの携帯が出ました。携帯は水に浸かって、中は読めない。預けていた写真の開示を、通信会社に頼んでいます。白洲さんの家の玄関に倒れていた自転車は、白洲さん自身のものでした」
「暗号のことは、まだ報告書には書けません」
久我は言った。
「三百年前の女性が書いた言葉は、証拠にはならない。白洲さんが、なぜ犯人の名前を書かなかったのかも、まだ分からない」
久我は、手帳を閉じた。
「刑事は、名前を書く仕事です」
三鷹署を出ると、外はもう夕暮れだった。
奏は、駅へ向かう道を、一人で歩いた。商店街の街灯が、一つ、また一つと灯りはじめていた。クリスマスの飾りつけをした店の前を、家族連れが笑いながら通り過ぎていった。
公演まで、あと二日。
柘植は、まだ見つかっていない。
奏は、楽譜の写しの入った鞄を、胸の前で抱えた。
刑事は、名前を書く仕事です。久我は、そう言った。
では、低音を弾く者は、何をする仕事なのだろう。
名前を刻む者でも、名前を刻まない者でもなく。ただ、刻まれた数のとおりに、弾く者。
三百年前のマッダレーナが刻んだ数を、自分は今夜、最後まで弾いた。彼女が刻まなかった最後の小節の前で、弓を止めた。それで、よかったのだろうか。
商店街の外れの、小さな教会の前を通りかかった。中から、子どもたちの聖歌の練習が聞こえてきた。たどたどしい、けれどまっすぐな声。
教会の扉が、少しだけ開いていた。
奥の祭壇の前で、十人ほどの子どもたちが、小さなオルガンのまわりに並んで歌っていた。クリスマスの聖歌だった。オルガンを弾いているのは、白髪の小柄な女性だった。右手で旋律を弾きながら、左手と足で、低音をゆっくりと置いていく。
子どもたちの声は、ときどき音程が揺れた。けれど、そのたびに、オルガンの低音が、下からそっと支えた。揺れた声が、低音の上に戻ってくる。何度も、何度も。
奏は、足を止めて、しばらくその低音を聴いていた。
歌が終わると、オルガンの女性が振り返り、戸口の奏に気づいて、にっこりと笑った。
奏は、小さく頭を下げ、扉の前を離れた。
その夜、奏の携帯に、杏奈から電話がかかってきた。
声が、震えていた。
「奏さん。郵便受けに、封筒が入ってたんです。切手も消印もなくて。誰かが、直接」
杏奈の家の前の張り込みは、逮捕状が出た昼過ぎに、柘植の捜索へ回されたと聞いていた。
「中身は」
「紙が一枚と、チケットが一枚。二十日の、私たちの公演のチケットです。座席は、一階の最後列の、いちばん端」
杏奈は、息を吸った。
「紙には、イタリア語が四行、手書きで。Arde il mio nome、って」
奏は、ベッドから立ち上がった。
ARSI の四行。あの歌の歌詞が、杏奈の郵便受けに。
「杏奈さん、いまどこ」
「家です。湊くんから電話があって。それと、葛城さんも、いまこっちに向かってくれてるって。……でも、私、奏さんに来てほしい」
「警察には」
「まだ……」
「すぐに、久我さんに電話する。杏奈さんは、鍵をかけて、警察の人が着くまで、誰が来ても開けないで」
電話を切って、奏はすぐに久我の番号を押した。
柘植は、まだどこかにいる。
ARSI を知っていて、杏奈の家を知っていて、二十日の公演の、最後列の席を用意して。
狂ったふりをしながら、まだ何かを待っている。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




