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第八話 ダ・カーポ

 低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。

 けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。

 三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。

 十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。

 そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。

 S、O、L。

 これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。

 どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。

 数え間違えれば、また誰かが燃える。

二〇二六年十二月七日〜八日 東京・吉祥寺/三鷹/中野


 日向早苗は、白洲恭介のスタジオの暖炉の前に、胡坐をかいて座っていた。

 四十一歳、東京消防庁の火災調査官。紺の作業着の袖をまくり、ラテックスの手袋をはめた指で、炉床の灰をひとつまみずつ、白いトレーに移している。肩までの髪を後ろでひとつに束ね、首にタオルを巻いていた。

 「久我さん。これな、ちょっと変やで」

 振り返らずに言った。大阪の言葉だった。

 久我は暖炉の脇に立ち、顎で先を促した。その後ろに、奏が立っていた。楽譜のことで意見を聞きたいと、久我に呼ばれたのだった。

 「燃えた紙の量は、ざっと六十枚。五線紙や。せやけど、燃え方が新しすぎる」

 「新しすぎる」

 「古い紙はな、繊維が脆うなっとるから、火がつくと端から粉みたいに崩れていくんよ。これは違う。縮れ方がきれいすぎるし、灰が白い。表面に艶のある塗工紙の燃え方や。いまどきのコピー用紙か、印刷用の紙やね」

 日向はトレーの灰を、ピンセットの先で裏返した。

 「それと、ここ。トナーの焼け跡が残っとる。インクやない。コピー機で刷ったもんや」

 奏は息を呑んだ。

 「燃やされたのは、古い楽譜じゃなくて、コピーだった……」

 「たぶんな。誰かが、古い楽譜を燃やしたつもりで、写しを燃やした。それか、燃やさせるために、誰かが写しを置いとった」

 日向はようやく振り返り、奏を見た。それから、少し首を傾げた。

 「あんた、どっかで会うたことあるか」

 「いえ、たぶん」

 「そうか。気のせいやな」

 日向は、トレーの灰に目を戻し、続けた。

 「それとな、久我さん。この暖炉、最後に薪を燃やしたのは、たぶん何日も前や。炉床の奥の灰は、古い薪の灰で、固まっとる。その上に、紙の灰だけが、ふわっと載っとる。誰かが、冷えた暖炉に紙だけ放り込んで、火を点けたんや」

 「薪もなしに」

 「紙だけでも、六十枚あったら、しばらくはよう燃える。ほんで、燃え尽きたら、すぐ冷える。朝には、もう冷たかったやろ」

 日向は奏のほうを見た。奏は頷いた。暖炉は冷えきっていた。焦げ臭い匂いだけが、部屋に残っていた。

 「急いどったんやろな」

 日向は、立ち上がって膝を払った。

 「薪をくべて、じっくり燃やす暇がなかった。紙を放り込んで、マッチを擦って、すぐ出ていった。燃え残りがあっても、確かめもせんと」

 「確かめなかった」

 久我が、繰り返した。

 「あるいは、確かめに戻ってきたか、やな」

 日向は手袋を外し、作業着のポケットに押し込んだ。

 「どっちにしても、うちが言えるのは、燃え方のことだけや。誰が燃やしたかは、そっちの仕事やで、久我さん」

 久我は、短く頷いた。


 午後、奏は久我と三浦、それに日向とともに、旧鳴海記念ホールの事務室を訪ねた。

 事務スタッフの安西まどかは、二十四歳。ホールの運営会社に入って二年目で、ネイルを薄いピンクに塗っている。

 「葛城さんのことですか? えっと、二日の夜ですよね。あたし、九時ちょっと前まで受付の締めの作業してて、そこから事務室で残業してたんです。練習室って、事務室の廊下の突き当たりなんですよ」

 安西は事務室の扉を開けて、廊下の奥を指さした。重たそうな防音扉が見えた。

 「九時くらいから、ずっと歌声が聞こえてて。伴奏の録音を流しながら歌ってたみたい。ほら、オーケストラの音も聞こえたんで。第一幕のアリア、何回も繰り返してました。十時ちょっと前に音が止んで、葛城さんが出てきて、お疲れさまって」

 「顔を見たんですか」

 久我が訊いた。

 「出てきたときは、見ました。汗かいてて、タオル首にかけてて。めっちゃ集中してたんだなって」

 「途中で、扉が開いたことは」

 「なかったと思います。あの扉、開けると音漏れがすごいんで、分かるんですよ」

 「その動画、見せてもらえますか」

 奏が言うと、安西はすぐにスマートフォンを出した。

 「これです。九時二十分くらい。あたし、葛城さんのファンなんで、つい。扉の前で、十五秒だけ」

 画面には、防音扉と、その上の「練習室」というプレートが映っていた。扉越しのくぐもった音が、スピーカーから流れ出した。

 カウンターテナーの声だった。第一幕のオルランドのアリア。声が細かく旋律を飾っていく。上へ跳ね、下へ転がり、また跳ねる。一音一音が、真珠を連ねたように粒立っていた。

 「神がかってたんですよ、ほんとに」

 安西が、うっとりと言った。奏は、息を詰めて聴いていた。

 美しかった。奏は、声だけを追っていた。一つの迷いもない。一つの揺れもない。

 久我の後ろから画面を覗き込んでいた日向が、ぼそりと言った。

 「あんたら音楽の人は、上手いって言うんやろ。うちには、上手すぎて、生きとる人間の息に聞こえへんわ」

 「葛城さんは、ああいう人なんです。何度でも、同じ高さまで仕上げてくる」

 奏は、自分でも驚くほど早く言い返していた。

 「ありがとうございます」

 奏はスマートフォンを安西に返した。久我は、動画を三浦の端末に送ってもらうよう頼んだ。

 事務室を出たあと、奏は、練習室の防音扉の前に立ってみた。

 厚い扉だった。表面に灰色のフェルトが貼られ、取っ手は銀色のレバー式。扉の上に、練習室というプレートがある。安西の動画に映っていたのと、同じ扉だった。

 三浦が、扉を少しだけ開けて、中を見せてくれた。

 六畳ほどの、窓のない部屋だった。壁も天井も吸音材で覆われ、古いアップライトのピアノが一台、壁際に置かれている。床にはスピーカーが一つ。その横に、譜面台が一本。部屋の奥の壁に、もう一つ、鉄の扉があった。塗装の剥げた、古い扉。閂が、内側から差し込まれていた。

 「戦前の建物の名残らしいですよ。昔は、ここが楽器の搬入口に繋がる通路だったって」

 三浦が言った。

 「今は、練習室に改装して、外への扉は閂で閉じっぱなし。外からは開けられません」

 奏は、部屋の真ん中に立ってみた。吸音材が、自分の息の音まで吸い取っていくようだった。ここで一人、一時間、同じアリアを繰り返し歌う。葛城さんらしい、と奏は思った。完璧になるまで、何度でも。


 柘植圭吾の聴取は、その日の夕方、彼の事務所で行われた。奏は同席しなかった。夜になって、久我から電話があった。

 「柘植さんは、二日の夜、事務所で一人で飲んでいたと繰り返すだけです。裏づけはありません。事務所のビルには防犯カメラがありますが、録画機の調子が先月から悪く、管理会社は映像を取り出せないと言っています。それと、桜の刻み跡の件」

 「はい」

 「桜の刻み跡を削ったことは、本人は否定しました。ただ」

 久我は少し言葉を切った。

 「十五年前の火事の夜、柘植さんは二階の事務室にいました。窓から屋根伝いに逃げた。そのとき、鳴海さんと千尋さんがいた書斎は、事務室の隣でした」

 「隣……」

 「父の調書では、柘植さんは、書斎から叫び声は聞こえなかったと話しています。煙に気づいたときには、廊下はもう火の海だったと」

 奏は、電話を握る手に力が入るのを感じた。

 「柘植さんは、千尋さんのことを」

 「千尋さんに執着していたと、当時の関係者の何人かが話しています。それも、父の調書にありました」

 電話を切ったあと、奏は、窓の外の暗い空を見ていた。


 翌八日、稽古のあとで、杏奈が奏を呼び止めた。

 楽屋の隅の、衣装の掛かったラックの陰だった。杏奈は周りを見回してから、小さな声で言った。

 「奏さん。少しだけ、いいですか」

 「うん。どうしたの」

 「柘植さんのことなんです」

 杏奈は、指先を握りしめていた。

 「あの人、あのころから、叔母のことをずっとつけ回していたんです。叔母は、気味が悪いって、母に何度も話していたそうです。それで、叔母が亡くなったあと、今度は私を……」

 杏奈の声が、途中で消えた。

 「事務所に入ったのは、私が二十歳のときです。叔母の姪だからって、柘植さんのほうから声をかけてきて。最初は、優しかったんです。でも、だんだん。私が誰と会うかとか、どこに行くかとか、全部知ってて。湊くんとのことも」

 「楓くんとのこと、柘植さんは」

 「知ってます。絶対に許さないって。お前は千尋と同じ過ちを繰り返すつもりか、って」

 杏奈は、ハンカチを握りしめた。

 「葛城さんも、私を見るとき、私じゃない誰かを見てるような気がするんです。叔母と同じ舞台に立っていた人だから、仕方ないのかもしれないけど。でも、葛城さんは優しいから、怖くはないんです。柘植さんは」

 そこで、言葉が止まった。

 廊下の向こうから、柘植の大きな笑い声が聞こえてきたのだ。杏奈は顔を伏せ、奏の陰に身を隠すようにした。

 奏は杏奈の背中に手を置いた。細い背中が、小刻みに震えていた。

 その夜、奏は自宅で、もう一度楽譜の写しを広げた。ソの刻みの数を、小節ごとに書き出した数字の列。八より少ないものばかり。数字の列は、まだ何も語らなかった。

 公演まで、あと十二日。頭の中の声は、日にちと刻みを、同じ調子で数えていた。

 奏は、写しの束を最後の一枚までめくった。裏面の最後の段。右端の、次の頁の最初の音を示す小さな印。その印は、ソの位置に書かれていた。

 低音の刻みは、この紙の外へ、まだ続いている。白洲さんの暖炉で燃えたのがコピーだったのなら、と奏は思った。続きの頁の本物は、いま、どこにあるのだろう。

 そして、誰がそれを持っているのだろう。


 今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。

 もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。

 次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。

 それでは、次の小節でお待ちしています。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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