第七話 狂うための稽古
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
今日から1日1話です。
楽しんでもらえるよう頑張りたいと思います。
10/22 推理(連載) 日間9位 にランクインしました!
皆様の応援本当にありがとうございます!!
一七一六年十一月〜一七二〇年冬 ヴェネツィア
一七一六年の秋、サンタンジェロ劇場は大騒ぎになった。
ヴィヴァルディ師の新作の上演が、共和国の検閲で差し止められたのだ。台本のどこかが風紀に障ると、お役人が判断したらしい。初日を目前に控えた劇場では、歌い手が泣き、道具方が怒鳴り、赤毛の司祭が廊下を行ったり来たりしながら、早口のヴェネツィア言葉で誰彼構わず罵っていた。
「台詞の一つや二つで、何が風紀だ。わしの音楽の方がよほど風紀を乱しておるわ」
写し直しの声部を届けに来たマッダレーナは、師の怒鳴り声に首をすくめ、楽屋の隅に紙の束を置いた。十五歳になっていた。背が伸び、父の工房では低音だけでなく、中声部の写しも任されるようになっていた。
ヴィヴァルディ師は、彼女に気づいて足を止めた。
「ペッリの娘か。お前の写す低音は、読みやすい」
「ありがとうございます」
「褒めとらん。事実を言っただけだ。インクを惜しむな、もっと太く書け。わしの目は、もう若くない」
師はそう言い捨てて、また廊下を歩きはじめた。それから振り返り、なぜか少し笑った。
「低音を太く書く娘は、信用できる」
ベッタは、その年の秋から、若いカストラートと連れ立って歩くようになっていた。
ナポリから来た十八歳の歌い手で、天使のような顔と、天使のような声を持っていた。稽古場の隅で、二人が額を寄せて笑い合っているのを、マッダレーナは何度も見た。ベッタは相変わらず誰でも坊やと呼んだが、その若いカストラートだけは、名前で呼んだ。ジローラモは、何も言わなかった。
工房での彼は、以前と変わらず速く、美しく写した。冗談も言った。けれど夜、皆が帰ったあとに階下から歌声が上がってくることは、もうなかった。
その冬の、ある稽古の日のことだった。
マッダレーナが楽屋に声部を届けに行くと、廊下の奥から、物の壊れる音と、叫び声が聞こえてきた。
人だかりができていた。その真ん中で、ジローラモが床に膝をつき、両手で紙を引き裂いていた。写譜師の命である総譜の写しを、ためらいもなく、細かく、細かく。
「燃えている」
彼は叫んでいた。目は見開かれ、誰の顔も見ていなかった。
「燃えているのはオルランドだ。オルランド? いや、オルランドは死んだ。あの恩知らずの女が殺したんだ」
二年前の《狂えるオルランド》の、狂気の始まりの台詞だった。周りの者たちがざわめいた。
ジローラモは裂いた紙を宙に撒き、床を転げ回り、それから急に立ち上がって、誰もいない壁に向かって深々とお辞儀をした。
「さあ奥様、オルランドの狂気を踊りましょう。弾いてくれ、何をしている。ラ、ラ、ララ」
彼は踊り出した。手足をばらばらに動かし、片足で跳ね、くるくると回った。笑う者がいた。眉をひそめる者がいた。歌い手の一人は十字を切った。人垣をかき分けて、ベッタが現れた。
栗色の髪を振り乱し、ジローラモの前に立つと、彼女は彼の両手を取った。
「坊や。坊や、しっかりして」
ジローラモは踊るのをやめ、ベッタを見た。それから、子どものように、彼女の胸に顔を埋めて泣き出した。
ベッタは彼の頭を抱き、背中をさすった。その目に涙が浮かんでいるのを、マッダレーナは見た。周りの者たちは、哀れな写譜師が恋に狂ったのだと囁き合いながら、少しずつ散っていった。
ジローラモは、ベッタの腕の中で、まだ泣いていた。マッダレーナは、その場を動けなかった。
彼が叫んでいた台詞は、どれもオペラの台本のものだった。狂気の始まりの台詞。フォリアの踊りの台詞。それに、ところどころに、同じ年の不評だった《偽りの狂気のオルランド》の台詞が混じっていた。
「ふりをしなければ」と、彼は床を転げる合間に、一度だけ小さく呟いた。
狂ったふりをする騎士。それは、あのオペラの筋書き、そのものだった。
その夜、マッダレーナは眠れなかった。
父と自分の住む三階の部屋から、そっと階段を下りた。仕事場の扉の隙間から、蝋燭の光が漏れていた。
扉を細く開けた。ジローラモが、写譜台に向かっていた。
昼間、楽屋の床で裂いたはずの総譜を、新しい紙に、一から写し直していた。背筋を伸ばし、ペンを一定の速さで動かし、インク壺の縁で余分なインクを落とす。符頭を置き、符尾を引く。その手つきには、乱れ一つなかった。
彼の左手の脇には、一冊の小さな台本が開かれていた。《偽りの狂気のオルランド》。二年前に、彼自身が写した台本だった。ジローラモは、ペンを止めずに言った。
「入っておいで、マッダレーナ。寒いだろう」
彼女は、扉の陰から出た。
「狂ったんじゃ、なかったの」
ジローラモは、ようやくペンを置いた。蝋燭の光が、彼の痩せた頬の影を深くしていた。昼間の、見開かれた目はどこにもなかった。穏やかで、少し疲れた、いつもの目だった。
「狂うのにも、稽古が要るんだよ」
彼は台本を指でなぞった。オルランドが狂ったふりを始める場面の、短い傍白の行。
「この台本を、ちゃんと読んだかい。騎士のブランディマルテが言うんだ。病んだふりをすることは、卑怯じゃない、って。L'inganno stesso virtù diviene——欺きそのものが、美徳になる」
「ベッタを、騙したの」
「騙してないよ」
ジローラモは、静かに言った。
「僕が泣いたのは、本当だ。燃えていると叫んだのも、本当だ。ただ、それを人前でやる勇気が、ふりをしなければ出なかっただけだ」
マッダレーナは、何も言えなかった。
「彼女は、僕の手を握ってくれた」
ジローラモは、自分の両手を見下ろした。
「三年ぶりに」
蝋燭の炎が、小さく揺れた。窓の外で、運河の水が石段を打つ音がした。
「君は、誰にも言わないだろう」
「どうして、そう思うの」
「君は低音の人だからだ。低音は、上で何が起きても、黙って地面を支える」
ジローラモはまたペンを取り、写し直しの続きに戻った。マッダレーナは扉を閉め、階段を上った。
自分の部屋に戻り、寝台に横たわってから、彼女は暗闇の中で、指を一本ずつ折った。
彼の声の秘密。一つ。
彼の名前の秘密。二つ。
彼の狂気の秘密。三つ。
三つ目を折ったとき、指先が冷たかった。
ふりをしているうちに、人は本当にそれになってしまうのではないか。ふと、そう思った。
その冬から、ジローラモはときどき、工房の帰りにベッタの下宿を訪ねるようになった。
訪ねるといっても、中へは入らない。玄関の石段の下に立ち、窓に向かって、ベッタが顔を出すのを待つだけだった。ベッタが顔を出すと、窓越しに二言三言、言葉を交わす。体の具合はどうか。ちゃんと食べているか。昨日の楽屋のことは、もう気にしなくていい。ベッタは窓辺に頬杖をつき、坊やはほんとに心配性ね、と笑った。
マッダレーナは、使いの帰りに、その姿を何度か遠くから見た。
ある冬の晩、彼は石段の下で、夜明けまで立っていた。窓は、一度も開かなかった。翌朝の写譜台で、彼は誰よりも速く写した。
石段の下に立つジローラモの背中は、楽屋で床を転げ回っていた男とも、夜の工房で冷静に写譜をしていた男とも、違って見えた。ただの、恋をしている若い男の背中だった。
ベッタの窓の上の階に、ナポリのカストラートの部屋があることを、マッダレーナは知っていた。ジローラモも、知っていたはずだった。
ある晩、窓辺のベッタが、ふと上の階を見上げて笑った。ジローラモは、その視線を追わなかった。ただ、石段の下で、ベッタの横顔を見上げ続けていた。
帰り道、ジローラモは、運河沿いの欄干にもたれて、しばらく水を見ていた。それから、マッダレーナが後ろにいるのに気づいて、振り返った。
「見てたのかい」
「たまたま」
「そうか」
彼は、それ以上何も言わなかった。けれど、歩き出す前に、一度だけ、自分の胸を指でとんとんと叩いた。
「ここは、ふりじゃないからね」
マッダレーナは、その指の先を見ていた。
胸の、心臓のあたり。そこだけは、ふりではない。それなら、ほかの場所は、全部ふりなのだろうか。笑う顔も、転げ回る手足も、昼間の掠れ声も。
訊きたかった。けれど、訊けば、彼はまた笑ってみせるだろう。それが、ふりなのか、そうでないのか、自分には見分けがつかないだろう。
彼女は、黙って、彼の半歩後ろを歩いた。
その冬の終わり、マッダレーナは、父に、新作の初日に納める低音の声部を、最初から最後まで一人で任された。
父は、写譜台の脇に立って、彼女のペン先を見ていた。
「刻みは、数えろ」
父は言った。
「歌い手は数えない。弾く者も、腕で覚えて、いちいち数えはしない。だから、写す者が数える。一つ落とせば、小節が崩れる。一つ足しても、崩れる」
マッダレーナは、ソの刻みを一つずつ数えながら写した。八つ。八つ。八つ。単調な数の列が、紙の上に、黒く並んでいった。
その晩、写し終えた声部を束ねていると、ジローラモが、薄い帳面を一冊、彼女の写譜台に置いていった。子どものころ、彼女が字を覚えた手習いの帳面だった。巻末に、二十の文字が五段四列に刷られている。
「覚えてるかい。僕がここへ来たころ、君とこれで遊んだろう。君は、まだ十だった」
覚えていた。写譜台を指で叩く。三つ叩いて、間を置いて、一つ。三段目の一列目、I。叩き返すと、工房の向こうとこちらで、声を出さずに短い話ができた。親方に聞かれたくないことは、皆そうやって叩いた。
ジローラモは、写譜台の縁を、指で軽く叩いた。
一つ。間を置いて、二つ。
B だった。
指は、そこで止まった。続きを叩かないまま、彼は笑って、自分の台へ戻っていった。マッダレーナは、帳面を閉じた。B の続きを、彼女は知っていた。知っていて、叩き返さなかった。
一七二〇年の冬、町には一冊の小さな本が出回った。
『当世風劇場』。作者の名はない。けれど誰もが、貴族で作曲家のマルチェッロ氏の筆だと知っていた。当世のオペラに関わる者たち、作曲家、台本作家、歌い手、興行主を、片っ端から皮肉った本だった。表紙には、司祭の帽子をかぶってヴァイオリンを弾く小さな天使の絵が描かれていた。それが誰を指しているのか、分からない者はいなかった。
本の中で、名歌手はダ・カーポで最初の部分に戻ると、アリア全体を自己流に変えてしまう、と揶揄されていた。作曲家は、黙ってそれに従うしかない、と。
ジローラモはその本を工房に持ち込み、声を上げて笑った。
「名を奪う男は、いつか自分の名で裁かれる」
彼は表紙の天使の絵を、ペンの尻で叩いた。
その目の奥に、マッダレーナは、あの日の楽屋で見たのと同じ光を見た気がした。ふりではない光を。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




