第六話 ソの音
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
10/22 推理(連載) 日間11位 にランクインしました!
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二〇二六年十二月六日 東京・三鷹
氷室冴子は、取調室ではなく、三鷹署の応接室で話を聞かれた。それが久我の、せめてもの配慮だった。
奏は署の一階のロビーで、長椅子に座って待っていた。誰に頼まれたわけでもない。ただ、冴子が出てきたときに、誰かがそこにいたほうがいいと思った。
一時間半後、冴子は応接室から出てきた。グレーのコートを腕にかけ、背筋をまっすぐ伸ばしている。奏を見つけると、少しだけ目を見開き、それから微笑んだ。
「あなた、待っていてくれたの」
「すみません、勝手に」
「いいのよ。嬉しいわ」
二人は署を出て、駅へ向かう歩道を並んで歩いた。冬の陽は低く、街路樹の影が長く伸びていた。
「白洲さんとはね、恋人なんかじゃなかったのよ」
冴子は、前を向いたまま言った。
「刑事さんたちには、何度もそう言ったわ。でも、夜中に一時間も電話をしていたら、そう思われても仕方ないかしらね」
「何のお話を」
「千尋さんのこと」
奏は足を止めかけた。
「朝霧千尋さん。十五年前の火事で亡くなった、杏奈ちゃんの叔母さん。私、若いころ、彼女と同じ先生についていたの。妹弟子だったのよ」
冴子は、駅前の横断歩道の手前で立ち止まった。信号は赤だった。
「白洲さんは、千尋さんの古い手紙を何通か、私に預けていたの。自分が持っていると、つらくて読めないからって。それを、ひと月前から少しずつ、電話で読み上げてほしいと頼まれていたのよ。どうしても確かめたいことがある、って」
「確かめたいこと」
「何なのかは、最後まで教えてくれなかったわ。二日の夜に家へ伺ったのは、手紙を全部お返しするためだったの。白洲さんは受け取らなかった。もう少し持っていてくれ、二十日が終わるまでって」
信号が青に変わった。冴子は歩き出し、奏はその横に並んだ。
「手紙は、まだ冴子さんが」
「ええ。警察には、まだ見せていないわ。白洲さんの遺志を確かめてから、と思って。……あの人、本当に千尋さんのことが好きだったのよ。あれから、ずっと」
午後から、旧鳴海記念ホールで稽古が再開された。
公演を予定どおり行うかどうかは、まだ決まっていない。けれど、歌い手たちの声を休ませすぎるわけにはいかない。代わりの指揮者が決まるまで、チェンバロの副指揮者が稽古を見ることになった。葛城がそれを提案し、誰も反対しなかった。
「白洲さんなら、稽古を止めるなと言うと思うんだ」
葛城は、楽屋口に集まった皆の前で、静かに言った。
「二十日に、あの人の《オルランド》を、あの人の思ったとおりに鳴らしたい。それが、僕らにできる唯一の弔いだと思う」
杏奈が小さく頷いた。楓は、その杏奈の横顔を見ていた。
いちばん先に稽古場に来ていたのは、その副指揮者だった。皆が揃うと、彼は腕時計を見て首を傾げ、それから頭を掻いて笑った。
「あれ、まだ十分前か。うちは女房が家の時計を全部十五分進めてるんですよ。腕時計まで家の時計に合わせちゃうもんで、いつも早く着いちゃう」
楓が吹き出し、杏奈もつられて笑った。白洲が死んでから、稽古場で初めて聞いた笑い声だった。
休憩時間、奏は楽屋口の外に出た。冬の雑木林の匂いがした。ホールの裏手、楽屋口のすぐ脇に、大きな桜の老木が一本立っている。幹は黒く、ねじれ、ところどころに苔がついていた。
その幹の、ちょうど胸の高さに、古い刻み跡があった。
C・K。
刃物で彫られた二つの文字が、木の成長に引き伸ばされ、輪郭がぼやけている。十年以上は経っているように見えた。
「それはね、俺の名前ですよ」
背後から声がして、奏は振り返った。
柘植だった。煙草をくわえ、灰色のスーツの上着を肩にかけている。昼間だというのに、目の縁が赤く、息に酒の匂いが混じっていた。
「C は千尋。K は圭吾。十五年前に、千尋が彫ったんです。俺と千尋の名前をね」
「柘植さん」
楽屋口のほうから、杏奈が出てきた。柘植の言葉が聞こえていたのか、顔が強張っている。その後ろに、楓がいた。
「何ですか、お嬢さん。叔母さんの話をしちゃいけませんか」
柘植は煙を吐き、杏奈を上から下まで眺めた。
「お前、本当に千尋に似てきたな。声も、顔も」
杏奈の肩が、小さく震えた。楓が一歩前に出た。
「やめてくださいよ、そういうの」
「若いのは黙ってろ」
柘植は煙草を地面に落とし、靴の先で踏みにじった。
「千尋はな、俺のことが好きだったんだ。鳴海の爺さんが邪魔さえしなきゃ、な」
そう言い捨てて、柘植はホールの中へ戻っていった。
残された三人のあいだに、気まずい沈黙が落ちた。杏奈がハンカチで目元を押さえた。楓は、その肩に手を置いた。
しばらくして、楓がポケットから爪切りを出した。付いている、ごく短い刃を起こした。
「杏奈さん。上書きしましょうよ、あんな話」
「湊くん、駄目だよ、木に」
「ちっちゃくでいいですから」
楓は、C・K の刻み跡から少し離れた、幹の低いところに、小さく二文字を彫った。A・M。杏奈と、湊。
杏奈は、泣きながら少しだけ笑った。
奏は、その二人を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。そして同時に、楽屋口の窓の向こうに、人影が一つ立っているのに気づいた。逆光で、誰なのかは分からなかった。人影はすぐに窓から離れた。
稽古の後半、奏は、葛城と杏奈の二重唱の伴奏をした。第三幕の、オルランドがアンジェリカに許しを与える場面の前に置かれた、短い掛け合いだった。
葛城の声は、低い音域でも、少しも濁らなかった。話すときの声は驚くほど低いのに、歌いはじめると、それが嘘のように澄んだ高さへ昇っていく。その切り替わりの一瞬に、奏はいつも、背中がすっと冷えるような感覚を覚えた。人の喉の中に、二つの別の楽器が入っているような。
杏奈の声は、葛城の声に寄り添うように、少しだけ遅れて重なった。叔母に似ていると、誰もが言う声。けれど奏は、千尋の歌を聴いたことがない。あの冬の合宿でも、千尋の稽古は二階の書斎で行われていて、一階の講習生たちには聞こえなかった。二重唱が終わると、副指揮者が手を叩いた。
「よし。葛城さん、最後のカデンツァ、今のでいきましょう」
「今のは、たまたまだよ。本番では、また変わると思う」
葛城は、笑って首を振った。
「ダ・カーポのたびに同じ飾りを歌うのは、歌い手の恥だ。昔、鳴海先生にそう叱られてばかりだった。君の飾りは、全部誰かのものだって。戻ってくるたびに、少しずつ違う道を通る。それが生きている歌なんだと思う」
杏奈が、隣で小さく頷いた。
「叔母も、同じことを言ってたって、母から聞きました」
「千尋は、鳴海先生のいちばんの生徒だったからね」
葛城は、そう言って、杏奈の肩を軽く叩いた。その手つきは、兄が妹にするように、ごく自然だった。
楓が、少し離れた袖の暗がりから、その二人を見ていた。奏は楓と目が合い、楓は慌てて目を逸らした。
その夜、奏は自宅の床に座り、白洲が残した楽譜の一葉を、もう一度譜面台に立てた。
ソ、ソ、ソ、ソ。刻みは、やはりところどころで八つにならない。九つの小節があり、七つの小節があり、六つの小節もある。
公演まで、あと十四日。数えるのは、もう癖になっていた。日にちも、刻みも、階段の段も。
奏は鉛筆を取り、刻みの数を、小節ごとに楽譜の写しへ書き込んでいった。そうしているうちに、あることに気づいた。
低音の刻みは、ソの音だけではなかった。ところどころで、レやドの刻みに変わる。けれど、レやドの刻みは、どれもきちんと八つだった。数が狂っているのは、ソの音の刻みだけだ。
ソだけが。
奏は鉛筆を止めた。
暖炉の灰に書かれた、三つの文字。S、O、L。
ソル。
イタリア語で、ソの音は、sol と書く。
奏は携帯電話を取り、久我の番号を呼び出した。夜の十時を過ぎていた。呼び出し音が三回鳴って、久我が出た。
「久我です」
「早瀬です。こんな時間にすみません。灰の三文字のことで」
奏は、白洲が残した楽譜の一葉のことを、初めて話した。チェロケースに入っていたこと。ソの刻みだけが狂っていること。sol が、音の名前でもあること。話しているうちに、自分の考えが、ひどく突飛なものに思えてきた。
「恋の歌の書き出しじゃなくて、音の名前なんじゃないかと思うんです。ソだけを見ろ、と」
電話の向こうで、久我の息遣いだけが聞こえた。笑われるだろうか、と奏は思った。
「では」
久我は、笑わなかった。
「ソだけを、数えてください」
「……信じてくれるんですか」
「あなたは、先月、低音で名前を読みました」
久我の声は、いつもどおり平らだった。
「明日の朝、その楽譜を預からせてください。原本は鑑識に回します。あなたには、写しで続けてもらう。冴子さんの件は、私がもう一度、上に掛け合います」
電話を切ったあと、奏は、湯呑みの茶が冷めるまで、楽譜の前に座っていた。
ソの刻みが、譜面台の上で、黒い雨のように並んでいた。
奏は、チェロをケースから出し、弓を張らずに、指でいちばん低い弦の隣の、ソの弦を弾いた。
開放弦のソが、部屋の空気を、低く、ゆっくりと震わせた。弦の振動が、楽器の胴を伝って、膝に、胸に、届いてくる。
ソは、地面の音だ。
大学に入ったばかりのころ、氷室先生にそう言われたことがあった。通奏低音のゼミのあと、楽器を片づけている奏のところへ来て、先生は、ソの弦を指で弾いてみせた。
チェロのソは、歌い手の足の裏にある音だよ、早瀬くん。歌い手は、それを踏んで立つ。踏まれていることを、恨んではいけない。踏まれなければ、誰も高いところへは行けないんだから。
あのとき、奏は笑って聞いていた。冗談だと思っていた。
いま、譜面台の上に並ぶソの刻みを見ていると、その言葉が、少し違う重さで胸に落ちてきた。
踏まれている音。誰にも見上げられない音。
その音を、誰かが、怒りながら、こんなにもたくさん叩き続けている。
翌朝、ホールから電話があった。
楽屋口の桜の幹の、A・M の刻み跡が、刃物でめちゃくちゃに削り取られている、という。
すぐ上の C・K には、傷ひとつついていなかった。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
明日からは1日1話です。
その分、いつも以上に面白いものを書いていきたいと思います。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




