第五話 父の事件
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
10/23 小規模修正を行いました。
二〇二六年十二月四日〜五日 東京・三鷹
久我慎一郎が父の字を見たのは、三年ぶりだった。
十二月四日の夜、捜査本部の置かれた三鷹署の小会議室で、三浦が段ボール箱を一つ、机の上に置いた。蓋に貼られた白い付箋に、事件名と年月日が書かれている。平成二十三年十二月、三鷹市井の頭、鳴海宗一郎方火災。
「警部補。被害者の経歴を洗ったら、これが出てきました。白洲さん、十五年前のこの火事の関係者です。鳴海って人の助手をしてたらしくて」
「火事は、うちの扱いか」
「はい。当時の三鷹署で、事故として処理されてます。担当は……」
三浦は言いかけて、口をつぐんだ。箱の中の一番上のファイルの表紙に、担当者の欄があった。そこに書かれた名前を、三浦は読み上げなかった。
久我正臣。
久我は箱からファイルを取り出し、表紙を開いた。几帳面な楷書が、罫線の上にきっちり並んでいる。数字の七の横棒を、必ず二重に引く癖。父はそれを、刑事は書き間違いの余地を残しちゃいかん、と言っていた。
父がこの火事を最後に退職したことを、久我は知っていた。理由は、聞かなかった。聞く前に、父は病気になり、三年前に死んだ。父は、無口な刑事だった。
家で事件の話をしたことは、一度もない。夜遅くに帰ってきて、台所で冷めた夕飯を黙って食べ、六畳間の座卓で黒い手帳を開く。その背中を、子どものころの久我は、襖の隙間からよく見ていた。何を書いているのかと訊くと、父は顔を上げずに、聞き逃したことを書いている、と答えた。
十回聞いて、一回だけ違うところに何かがある。それを書いておくんだ。
大人になって同じ仕事に就いてから、久我はその言葉を何度も思い出した。思い出しながら、父の手帳を開いてみたいと思ったことは、一度もなかった。開けば、父が最後に何を聞き逃したのかを、知ってしまうような気がしたからだ。
その最後の事件が、いま、机の上にある。
「警部補、あの、自分が読みましょうか」
「いい。読む」
ファイルには、火災の概要と、関係者の聴取記録が綴じられていた。
平成二十三年十二月十日、午後十一時ごろ出火。木造二階建ての住宅の二階、主人の書斎付近から燃え広がり、ほぼ全焼。死者二名。家主の鳴海宗一郎、六十八歳。客の朝霧千尋、三十四歳、ソプラノ歌手。二人とも二階の書斎で発見。出火原因は、書斎の暖炉の不始末と推定。その夜、家にいたのは、ほかに三人だった。
鳴海の弟子、葛城遼、当時二十八歳。二階の客間にいたが、煙に気づいて階下へ逃げ、一階で眠っていた講習生を救出。
鳴海の事務方、柘植圭吾、当時三十七歳。二階の事務室にいたが、窓から屋根伝いに脱出。「十時ごろ、誰かが盆を持って二階へ上がっていった。千尋が自分で取りに降りてきたのか、葛城くんだったか……飲んでたもんでね、覚えちゃいませんよ」と供述。
講習生、早瀬奏、当時十七歳。一階の客間で就寝中、葛城に救出される。
助手の白洲恭介、当時四十三歳は、その夜九時に鳴海邸を出て、自宅へ帰っていた。
久我は、早瀬奏の名前のところで、手を止めた。
ひと月前、目白の坂の上で、彼女は第一発見者として現れた。昨日の朝も。そしてあの冬、彼女は別の事件の生存者として、父の調書の中にいた。
「偶然、ですかね」
三浦が言った。
「偶然だろう。古楽の世界は狭い」
そう言いながら、久我は自分の言葉に、半分しか納得していなかった。
調書の最後の頁に、父の手で一行だけ、本文とは別に書き添えられていた。
——少女の証言、要再聴取。
その下に、何も続いていなかった。再聴取が行われた記録はなかった。
翌五日の午前、捜査会議が開かれた。
白洲恭介の死因は、後頭部の打撲による脳挫傷。暖炉の煉瓦の角に打ちつけた傷と、それとは別の、鈍器で殴られた傷が一つ。凶器は見つかっていない。死亡推定時刻は、十二月二日の午後九時から十一時のあいだ。
暖炉で燃やされた紙は、少なくとも五十枚以上。灰の中から、五線と音符の断片が見つかっている。何の楽譜だったのかは、まだ分からない。
床に落ちていた鉛の小片は、鑑識が調べている。
そして、灰に残された三文字。
「三文字の中身と、現場の総譜の細部。この二つは、引き続き伏せる」
捜査一課の管理官が、最初に釘を刺した。
「昼のネットに、灰に文字、とだけ漏れた。近所の誰かが、鑑識の様子を見ていたらしい。だが、中身は出ていない。関係者の誰が、どちらを知っているか。それ自体が、材料になる。開いていた頁のことだけは、第一発見者が、被害者の知人に電話で話してしまったそうだがな」
「被害者の右手の指先から、灰が検出されています。被害者本人が書いたものと見て、ほぼ間違いありません」
鑑識の係長が報告した。
「で、S、O、L。何の意味だ」
管理官が、ホワイトボードの三文字を指で叩いた。若い刑事の一人が手を挙げた。
「現場のチェンバロの譜面台に、楽譜が開いていました。被害者が指揮する予定だったオペラの楽譜です。開いていた頁のアリアの歌詞の冒頭が、Sol da te。調べたところ、イタリア語で、ただあなたからだけ、私の甘い恋人よ、という意味だそうです」
会議室が、少しざわめいた。
「恋の歌か」
「はい。被害者は最期に、恋しい相手の名前の代わりに、この歌の冒頭を書こうとしたんじゃないかと」
「恋しい相手の心当たりは」
別の刑事が、手帳をめくった。
「被害者の携帯の通話記録です。被害者の携帯は現場から見つかっていませんが、通信会社から記録を取りました。この一か月、深夜に頻繁に電話をかけている相手が一人います。十一時過ぎ、長いときは一時間近く」
「誰だ」
「氷室冴子。オペラの出演者で、ソプラノ歌手です。被害者の亡くなった夜も、夜八時半まで被害者の家にいたと、本人が認めています。それと、携帯本体の中身ですが、クラウドの保存領域は通信会社に開示を請求しています。時間がかかるそうです」
久我は、ボールペンを持つ手を止めた。
氷室冴子。ひと月前、夫を殺された女。目白の書斎で、嘆きの歌を最後まで崩れずに歌い切った人。
「氷室冴子は、先月の目白の事件の被害者の妻です」
管理官が言った。
「久我。君の担当だったな」
「はい」
「どう思う」
久我は少し考えてから、答えた。
「先月の事件で、彼女は嘘をついていませんでした。今回も、自分から被害者の家にいたと話しています」
「それは先月の話だ」
管理官は、それ以上何も言わなかった。言わなくても、意味は分かった。
会議のあと、久我は一人で会議室に残り、ホワイトボードの三文字を見ていた。
S、O、L。
この三文字を知っている人間は、いまのところ、警察の中の十数人と、第一発見者の早瀬奏だけだ。関係者の誰かが、どこかでこの三文字を口にすれば、それはそのまま、灰を自分の目で見たという告白になる。
あるいは、早瀬奏から聞いた、という告白に。
久我は、マーカーのキャップを閉めた。第一発見者を疑うのは、この仕事の基本だ。父なら、そう言っただろう。そして、同じ口で、こうも言っただろう。疑うことと、決めつけることは違う。
会議室を出ると、廊下で三浦が追いついてきた。
「警部補。氷室冴子さんの聴取、自分が行きましょうか」
「いや。私が行く」
「でも、警部補は」
「先月、彼女に事件のことを説明したのは私だ。今度も、私が説明する」
三浦は唇を結んで頷いた。
その日の夕方、久我は三鷹署の前の歩道で、早瀬奏と会った。彼女のほうから電話をかけてきて、少しだけ話せませんか、と言ったのだった。チェロケースは背負っていなかった。黒いコートの襟を立て、白い息を吐いていた。
「早瀬さん。十五年前の鳴海邸の火事に、あなたはいましたね」
久我は前置きなしに訊いた。奏は少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「はい。十七歳でした。葛城さんに助けていただきました」
「火事の夜のことを、覚えていますか」
「ほとんど、何も。煙の匂いと、抱えてもらった腕と……それから、誰かが歌っていたような気がします」
「歌っていた」
「ええ。ずっとそう思っていたんですけど、誰に言っても、そんなはずはないと言われて」
久我は、父の調書の一行を思い出した。少女の証言、要再聴取。
「当時、警察の人に話を聞かれましたか」
「たぶん。病院で、年配の刑事さんに。とても優しい方でした。七の字を、二回線を引いて書く人で」
久我は、何も言わなかった。言えなかった。
奏は久我の顔を見て、何かを察したように、言葉を切った。
「……久我さん?」
「その刑事は、私の父です」
冬の夕暮れの風が、二人のあいだを吹き抜けていった。署の前の銀杏が、最後の葉を一枚、歩道に落とした。
「それから、もう一つ、お伝えしなければならないことがあります」
久我は、手帳を閉じた。
「灰の文字の件で、氷室冴子さんに話を聞くことになりました」
奏の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「冴子さんが? どうして」
「白洲さんは、亡くなる前の一か月、深夜に冴子さんへ何度も電話をかけていました。そして灰の文字は、恋の歌の冒頭と同じでした」
「Sol da te」
奏は、譜面台に開かれていた頁を思い出していた。
「でも、それは……」
「分かっています。私も、そうは思っていません」
「SOL は、恋の歌の書き出しとは、限らないと思います」
奏は、少し迷ってから言った。言ってから、その先を言葉にできなかった。まだ、自分の中でも形になっていなかった。
久我は、手帳に一行だけ書きつけた。恋の歌の書き出しなら、冴子。だが三文字は、読み方次第で、別の顔を指すかもしれない。
久我は、奏の目をまっすぐに見た。
「それでも、疑います。仕事なので」
奏と別れたあと、久我は、署の前の歩道に立っていた。
奏の後ろ姿が、駅へ向かう人の流れの中に消えていくのを、見えなくなるまで見送った。それから、ポケットの中の手帳を握りしめた。
父が病院で話を聞いた十七歳の少女は、大人になって、刑事の息子の前に、二度も第一発見者として現れた。偶然だと、三浦には言った。古楽の世界は狭い、と。
けれど、と久我は思った。
十回聞いて、一回だけ違うところに何かがある。
この事件で、その一回は、まだどこにも見えていなかった。見えていないことが、かえって久我を落ち着かなくさせた。全部が同じに聞こえるときほど、どこかで何かを聞き逃している。父の声で、そう聞こえた。
署の玄関の自動扉が開き、三浦が顔を出した。
「警部補、管理官がお呼びです。氷室さんの聴取の段取りを」
「今行く」
久我は、署の中へ戻りかけて、三浦に言った。
「三浦。関係者の聴取の記録は、一言一句、全部残せ。誰が、いつ、何を口にしたか。灰のことに触れた人間がいたら、時刻も書け」
「了解です。……それ、早瀬さんもですか」
「全員だ」
「了解です。……そういえば、今日話を聞いた副指揮者の人、約束の十五分前に来てました。家の時計が、全部十五分進めてあるんだそうです。奥さんの方針で、遅刻しないようにって」
「それも書いておけ」
三浦は、笑いながら手帳を開いた。
久我は手帳をポケットにしまい、明かりの灯った署の中へ戻っていった。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




