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第四話 ベッタのトランク

 低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。

 けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。

 三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。

 十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。

 そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。

 S、O、L。

 これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。

 どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。

 数え間違えれば、また誰かが燃える。


今日も1日3話アップします。

よろしくお願いします。


10/22 一字加入

10/23 小規模修正を行いました。

一七一三年十一月〜一七一四年十二月 ヴェネツィア


 十二歳のマッダレーナ・ペッリにとって、世界の半分は低音でできていた。

 父ジャコモの写譜工房は、サンタンジェロ劇場から運河を二本隔てた路地の奥にあった。一階は荷の受け口、二階が仕事場、三階が住まいと、紙と膠とインクの倉庫。窓際に写譜台が四つ並び、冬でも窓を細く開けておくのは、インクの乾きを早めるためだ。劇場から届く総譜の束を、父と三人の写譜師が手分けして、歌い手ごと、楽器ごとの声部に写し分けていく。

 マッダレーナの仕事は、そのうちの低音だった。

 チェロとコントラバスとチェンバロの左手が弾く、いちばん下の一段。誰も見向きもしない声部だから、子どもに任せても障りがない。父はそう考えたのだろう。けれどマッダレーナは、その一段が好きだった。歌い手がどれほど高く舞い上がっても、低音はいつも地面にいる。地面がなければ、誰も立っていられない。

 夜、皆が帰ったあと、彼女は倉庫の隅に隠してある古いチェロを抱え、写したばかりの低音を弾いてみた。女がチェロを弾くことは、慈善院の娘たちでなければ、あまり褒められたことではなかった。だから音は小さく、弓は浅く。それでも、自分の書いた音が実際に鳴る瞬間は、何にも代えがたかった。

 「オルランドは、四十回を超えたそうだ」

 ある晩、父が夕食のパンをちぎりながら言った。父の口から長い言葉が出るのは、珍しいことだった。

 その秋、サンタンジェロ劇場で上演された《狂えるオルランド》は、ヴェネツィアじゅうの評判になっていた。台本はフェッラーラの法律家ブラッチョーリ。作曲者として台本に名が載っているのは、ボローニャから来た若いリストーリという男だった。けれど劇場に出入りする者は皆、知っていた。劇場を切り盛りしている赤毛の司祭、ヴィヴァルディ師が、あちこちに手を入れていることを。

 「誰が書いたのか、もう誰にも分からん」

 父は肩をすくめた。

 「分からんでいいんだ。写す側は、写すだけだ」

 その写譜を、工房でいちばん速く、いちばん美しくこなすのが、ジローラモ・ヴェントゥーラだった。

 二十三歳の若い写譜師で、二年前に父のもとへ来た。痩せて背が高く、いつも少し猫背で、掠れた低い声で冗談ばかり言っている。字は、まるで印刷のように整っていた。速さは父の倍。間違いは、ほとんどしない。

 「マッダレーナ、ここ。三拍目の付点が逃げてる」

 彼は彼女の写した低音を覗き込み、ペンの尻で一か所を叩いた。

 「付点はね、音符にくっついていないと、ただの染みになる。染みは誰も数えない。数えられないものは、無かったことになる」

 「無かったことに」

 「そう。だから大事なものは、ちゃんと音符にくっつけておくんだ」

 ジローラモは笑って、自分の写譜台へ戻っていった。


 劇場の稽古場に、写し終えた声部を届けに行くのも、マッダレーナの仕事だった。そこで初めて、ベッタ・ロッシを見た。

 十九歳の歌い手で、脇役ながら二幕で一曲を任されていた。豊かな栗色の髪を無造作に束ね、大きな口で笑う。稽古の合間に、写譜を届けに来た子どもの頭を撫で、坊やありがと、と言った。マッダレーナは女の子なのに、ベッタは誰でも坊やと呼んだ。

 その日、ジローラモも稽古場にいた。声部の直しを持ってきたのだという。彼は壁際に立ち、紙の束を抱えたまま、ベッタが歌うのを見ていた。

 マッダレーナは、彼の顔を見て、何か見てはいけないものを見た気がした。

 帰り道、運河沿いの石畳を歩きながら、ジローラモは珍しく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

 「歌い手はね、自分の歌を持ち歩くんだよ」

 「持ち歩く?」

 「トランクにね。どの劇場で、どのオペラに出ても、いちばん得意な歌を一つ、自分の荷物に入れておく。作曲家が書いた歌が気に入らなければ、それと差し替えてしまう。足りなければ、差し込んでしまう。客は歌い手を聴きに来るんだから、歌い手の一番いい歌を聴かせなきゃいけない」

 「そんなこと、していいの」

 「みんなやってる。ヴィヴァルディ師だって、文句を言いながら許してる」

 ジローラモは足を止め、運河の暗い水面を見下ろした。

 「ベッタは、まだ自分のトランクの歌を持っていない」

 マッダレーナは、彼の言いたいことが分かった気がした。分かった気がしたが、黙っていた。

 別れ際、ジローラモは一度だけ、ベッタの下宿の窓を見上げた。


 その冬のある夜、マッダレーナは、倉庫で古いチェロを抱えていた。

 皆が帰ったはずの工房の階下から、歌声が上がってきた。

 男とも女ともつかない、高く澄んだ声だった。少しだけ掠れていて、その掠れが、かえって声を脆く、美しく聞かせる。マッダレーナはチェロを置き、そっと階段を下りた。

 蝋燭一本の明かりの中に、ジローラモがいた。写譜台の前に立ち、目を閉じて、一枚の紙を胸の前に掲げて歌っていた。昼間の掠れ声の男と同じ人とは、とても思えなかった。歌詞は四行だった。

 Arde il mio nome sull'altrui labbra,

 Resta a me sol la cenere e il canto;

 Se chiedi chi scrisse queste note,

 Interroga il basso, e non il pianto.

 私の名は、他人の唇の上で燃える。私に残るのは、ただ灰と歌ばかり。この音符を誰が書いたかと問うなら、低音に問え、嘆きにではなく。

 歌い終えて目を開けたジローラモは、階段の途中に立つ少女に気づいた。驚いた顔をして、それから、困ったように笑った。

 「聴いてたのか」

 「その声、どうして昼間は出さないの」

 「出したら、写譜師じゃいられなくなる」

 ジローラモは紙を写譜台に置いた。

 「僕の声はね、劇場では使い物にならないんだ。声だけは出るが、体が持たない。三幕を歌い通す力がない。だから写すほうに回った。写す側は、写すだけだ。君の親父さんの口癖どおりにね」

 「それは、誰の歌」

 「ベッタの」

 彼は、言ってしまってから、少し赤くなった。

 「彼女のトランクに入れてもらう歌だ。まだ渡していないけど」

 胸の奥が、小さく、ちくりとした。どこが痛いのか、なぜ痛いのか、十二歳のマッダレーナには分からなかった。分からないまま、彼女は、痛んだ場所から目を逸らすように、写譜台のほうを見た。

 マッダレーナは近づいて、紙を覗き込んだ。歌の旋律の下に、低音が書かれている。同じ音を速く叩き続ける、激しい刻み。けれど歌の旋律は、刻みとは裏腹に、ゆっくりと、哀しく、上へ上へと昇っていく。

 「怒っているのに、泣いてるみたい」

 「そうだよ」

 ジローラモは、驚いたように少女を見た。

 「君は、低音から聴くのかい。たいていの人は、歌しか聴かないのに」

 それから彼は、歌詞の四行を、指でなぞった。行の頭の文字を、一つずつ。

 「この歌の頭には、僕の心が縦に埋めてある。誰も気づかないだろうけどね」


 翌一七一四年の秋、サンタンジェロ劇場は、ヴィヴァルディ師の新作《偽りの狂気のオルランド》を出した。客の入りは振るわなかった。師は差し替えのアリアの楽譜の上に、殴り書きで「これが気に入られないなら、もう音楽は書かない」と記した。その紙を写したのは、マッダレーナの父だった。

 同じ年の暮れ、劇場は前年の《狂えるオルランド》を、もう一度舞台に掛けた。リストーリの音楽の一部は、ヴィヴァルディ師の手で新しく書き直された。歌い手が替わり、アリアが替わり、総譜には大勢の写譜師の手が入った。工房には、どこまでが誰の音楽なのか分からない紙の束が、山のように届いた。

 総譜のどこにも、作曲者の名前は書かれていなかった。

 その年の暮れの稽古場は、戦場のようだった。

 ヴィヴァルディ師は、ヴァイオリンを抱えたまま稽古場を歩き回り、楽師に怒鳴り、歌い手に怒鳴り、ときには台本作家のブラッチョーリにまで怒鳴った。速すぎる、遅すぎる、そこは息をするな、そこで泣くな。それから、急にからからと笑って、よし、今のでいい、と言う。誰もが振り回されながら、誰もが師の手の中で、少しずつ音楽になっていった。

 ボローニャから来た若いリストーリは、稽古場の隅で、自分の書いた旋律が師の手で書き換えられていくのを、困ったような顔で眺めていた。

 「あれは、僕のアリアだったんですけどね」

 届け物に来たマッダレーナに、リストーリは苦笑しながら言った。

 「師が手を入れると、師のアリアになる。悔しいけど、よくなるんです。だから文句も言えない」

 マッダレーナは、その言葉を、工房に帰ってからジローラモに伝えた。

 ジローラモは、ペンを止めずに、ふうん、と言った。それから、しばらくして、ぽつりと付け加えた。

 「よくなるなら、名前はどうでもいいのかな」

 答えを求めている声ではなかった。

 第三幕の、ある場面の終わりに、ベッタが一曲を差し込んだ。台本には載っていない歌。四行の詩と、怒りの刻みの低音。

 初日の夜、マッダレーナは天井桟敷の隅から、その歌を聴いた。ベッタの声は、ジローラモの声ほど澄んではいなかった。けれど客席はしんと静まり、歌い終えると、拍手が長く続いた。

 桟敷の反対の隅に、ジローラモが立っていた。

 彼は拍手をしていなかった。両手を胸の前で握りしめ、唇だけを動かしていた。マッダレーナには、その唇が何と言っているのかが分かった。

 僕の歌だ。

 けれど、どこにも、彼の名前は書かれていなかった。

 ジローラモの目は、舞台のベッタだけを見ていた。桟敷の反対の隅に、自分がいることにも、気づいていなかった。

 それでいい、とマッダレーナは思った。思ったのに、帰り道の運河は、いつもより暗く見えた。


 今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。

 もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。

 次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。

 それでは、次の小節でお待ちしています。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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