第三話 チェロケースの一葉
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
※10/23 小規模修正を行いました。
二〇二六年十二月三日 東京・三鷹/中野
午後二時、旧鳴海記念ホールの楽屋口に、公演の関係者が集められた。
ホールは井の頭公園の西の外れ、雑木林に囲まれた緩い坂の途中にある。戦前に声楽家の鳴海家が建てた木造の小ホールで、客席は二百ほど。漆喰の壁と、飴色に磨かれた床板と、天井の高い梁。響きがいいからと、古楽の演奏家たちに長く愛されてきた。ホールの隣には、十五年前に焼け落ちた鳴海邸の跡地が、低い生垣に囲まれて残っている。
奏が楽屋の廊下に入ると、誰かがパイプ椅子を一脚、彼女のために引いてくれた。
葛城遼だった。
今回のオルランド役。四十三歳のカウンターテナーで、ヨーロッパの歌劇場でも主役を張る人だ。背が高く、細身の体に黒いタートルネックを着て、長めの前髪を後ろへ流している。声を張っていないときの彼の話し声は、驚くほど低く、穏やかだった。
「座って、奏さん。立っていなくていい」
奏が腰を下ろすと、葛城はその前にしゃがみこみ、彼女の手を両手で包んだ。冷えきった指に、温かさがじわりと染みてきた。
「十五年前も、君はこうして震えていたね」
奏は顔を上げた。
十五年前の冬。十七歳の奏は、鳴海宗一郎の夏期講習の延長で、冬の稽古合宿に参加していた。その夜、鳴海邸が燃えた。一階の客間で眠っていた奏を、煙の中から抱え出してくれたのが、当時二十八歳の葛城だった。奏はその夜のことを、ほとんど覚えていない。覚えているのは、煙の匂いと、自分を抱えた腕の確かさと、誰かの歌声だけだ。
その歌声を、奏は、あの冬からずっと探してきた。チェロを捨てずに音大へ進んだのも、古楽を選んだのも、低音を選んだのも、あの声の足元にいたかったからだと、誰にも言ったことはない。夜ごと、カウンターテナーの録音を聴き比べた。どの声も、あの夜の声ではなかった。舞台の上の葛城の声は、何度も聴いた。けれど、完璧に磨かれたその声が、煙の中で聞いた少し掠れた声と同じなのかどうか、奏には分からなかった。分からないまま、彼の腕の確かさだけを、ただ一つ確かなものとして、胸の奥にしまってきた。
退院した春、奏は、初めて一人で葛城の演奏会に行った。いちばん安い、最後列の席だった。お礼を言おうと思って、楽屋口の前まで行き、行列を見て、引き返した。半券は、今も楽譜ケースの内ポケットに入っている。あれが何という気持ちだったのか、十七歳の奏には、名前をつけられなかった。
「すみません。またご迷惑を」
「迷惑なんかじゃないよ」
葛城は首を振った。
廊下の向こうで、ホールの事務スタッフの安西まどかが携帯の画面を誰かに見せていた。昼のネットのニュースに、暖炉の灰に文字のようなものが残されていた、と一行だけ出ているらしい。指で書いたんだって。字だったの、記号だったの。噂は、まだ形を持たないまま、楽屋口のあたりを漂っていた。
「灰に、何か書き残していったそうだね」
葛城は、少し声を落とした。
「白洲さんらしい。最後まで、音楽の人だったんだね」
奏は小さく頷いた。白洲さんらしい、という言葉が、胸のどこかに温かく落ちた。
葛城は奏の手を一度強く握ってから、立ち上がった。廊下には、ほかの出演者も集まっていた。
アンジェリカ役のソプラノ、朝霧杏奈。二十九歳。色白で、目元の涼しい人だ。十五年前の火事で亡くなったソプラノ、朝霧千尋の姪にあたる。叔母によく似た声をしていると、誰もが言う。杏奈は壁にもたれ、ハンカチを口元に当てて泣いていた。
その隣に、メドーロ役の若いカウンターテナー、楓湊が立っていた。二十六歳。小柄で、金色に近い茶色に染めた髪を、落ち着かない手つきで何度もかき上げている。
「マジで、白洲さんが……昨日まで普通に話してたじゃないですか。暖炉に、なんか書き残してたって、ほんとっすか」
「湊くん」
杏奈が小さく呼んだ。楓は黙り、杏奈の肩にそっと手を置いた。
アルチーナ役の氷室冴子は、廊下の端の長椅子に、背筋を伸ばして座っていた。ひと月前に夫を亡くしたばかりの人だ。奏と目が合うと、冴子は小さく頷いた。あなたも、また。そう言われた気がした。
廊下の入口のほうで、乱暴にドアが開いた。
「困りますねえ。こんな日に、うちの朝霧を呼び出されちゃ」
入ってきたのは、灰色のスーツを着た五十がらみの男だった。杏奈のマネージャー、柘植圭吾。芸能事務所の社長で、今回の公演に資金も出していると聞いている。口元は笑っているのに、目が笑っていない。
「柘植さん、警察の方が、皆さんにお話を」
安西が、おずおずと言った。
「分かってますよ。分かってますとも。白洲先生がお亡くなりになった。それはお気の毒でしょうが、公演はどうなるんです。チケットはもう八割方売れてるんですよ」
「柘植さん」
杏奈が、震える声で言った。
柘植は杏奈のほうへ歩み寄り、その肩を乱暴に抱き寄せた。楓の手が、肩から振り払われる形になった。
「お前は余計なことを言わなくていい。泣くな。顔が腫れる」
楓が何か言いかけて、唇を噛んだ。葛城が、静かに二人のあいだへ一歩進み出た。
「柘植さん。今日は、皆が白洲さんを悼む日です」
柘植は葛城を見て、一瞬だけ顔をしかめ、それから肩をすくめた。
「ええ、ええ。悼みましょうとも」
柘植は杏奈の肩から手を離し、上着の内側から銀色のスキットルを出し、蓋を外して、一口あおった。
柘植は廊下の奥の喫煙所へ歩いていった。すれ違いざま、煙草の匂いと、かすかな酒の匂いがした。
警察の聴取は、楽屋を一つずつ使って行われた。奏は朝の発見の経緯を、もう一度最初から話した。
ほかの出演者の昨夜の行動も、少しずつ分かってきた。
葛城は、夜九時から十時まで、ホールの練習室で一人で歌っていたという。安西が事務室で残業をしていて、扉越しにずっと歌声を聞いていた。伴奏の録音を流しながら、第一幕のアリアを何度も歌っていたらしい。
「神がかってたんですよ、昨日の葛城さん」
安西は廊下で、誰にともなく言った。
「あたし、思わず動画撮っちゃって。扉の外から、ちょっとだけですけど。SNSに上げようと思って。上げてないですよ、もちろん」
楓は、前夜に白洲と口論していたことを、最初は隠していた。若い刑事に問い詰められて、配役のことで少し揉めた、と認めた。杏奈は自宅にいた。冴子は、夜八時半まで白洲の家にいたと自分から話した。預かり物を返しに行っただけだという。柘植は、事務所で一人で飲んでいた、と言った。証明する人はいない。
夕方、奏はようやく解放された。
ホールの楽屋口を出ると、外はもう暗かった。
桜の老木の下に、楓が一人で立っていた。ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、白い息を吐いている。奏に気づくと、気まずそうに会釈した。
「早瀬さん。お疲れっす」
「楓くんも。杏奈さんは?」
「冴子さんが、車で送ってくれるって。俺、なんか、一人で頭冷やしたくて」
楓は、足元の落ち葉を靴の先で転がした。
「俺、白洲さんと喧嘩したの、配役のことなんすよ。メドーロのアリア、一曲削るって言われて。それで、ちょっと、カッとなって。最後に言ったのが、そんなことだったって思うと」
楓は、言葉を切った。
「ほんと、最悪っす」
奏は、何と言えばいいのか分からなかった。ひと月前、自分も同じことを思った。最後に師と交わした言葉が、どんなに些細なものだったか。
「白洲さんは、たぶん、気にしてないよ」
「そうっすかね」
「明日、またアリアのことで文句を言われるつもりで、楽譜に何か書き込んでたと思う。そういう人だったでしょう」
楓は、少しだけ笑った。それから、桜の幹を見上げた。
「杏奈さんのこと、守りたいんすよ。俺、頼りないけど」
その声は、軽い口調とは裏腹に、まっすぐだった。
自宅に帰り着いたのは、夜の八時過ぎだった。中野の古いマンションの二階。部屋の明かりをつけ、チェロケースを床に下ろして、奏は、その場にしゃがみこんだ。
白洲さん。
昨日の夜、何があったんですか。
ケースの留め金を外したのは、楽器を休ませるためだった。弦を少し緩め、湿度計を確かめる。毎晩の習慣だ。その習慣に、今夜はすがりたかった。
蓋の内側には、楽譜を入れる平たいポケットがついている。ふだんは、松脂と替えの弦と、通し稽古の譜面しか入っていない。指を差し入れたとき、紙の手触りが違った。
古い紙だった。厚みがあって、ざらりとしている。引き出してみると、それは一枚の楽譜だった。手書きの、黄ばんだ五線紙。インクは茶色く褪せ、ところどころに焦げたような染みがある。
奏は息を止めた。
歌の旋律が一段。その下に、低音が一段。それが表と裏に、びっしりと書き込まれている。一枚の紙に収まった、短い楽譜だった。歌の段には、イタリア語の歌詞が四行、筆記体で書き込まれている。低音の段には、同じ音を叩き続ける速い刻みが、延々と続いていた。ヴィヴァルディが好んだ、八分音符の同音反復。怒りを表すときの、激しい書き方だ。
裏面の最後の段で、低音は途切れていた。
曲が終わったのではない。段の右端に、次の頁の最初の音を示す小さな印が一つ、ぽつんと書かれている。古い写譜師が、頁をめくる弾き手のために残す目印だった。続きの頁は、ケースのどこにもなかった。
紙の隅に、鉛筆の走り書きがあった。見慣れた、右上がりの癖字。
——早瀬くん、これは低音の仕事だ。
白洲の字だった。
奏は楽譜を膝の上に置いたまま、長いあいだ動けなかった。
いつ、入れたのだろう。二日前の通し稽古の休憩に、白洲は奏のケースのそばで、何かを話していた。ファの弾き間違いの冗談を言った、あのとき。ケースの蓋は、開いたままだった。
白洲さんは、私に何かを託したのだ。自分の身に何かが起きることを、知っていたかのように。
奏はケースからチェロを出し、弦の張りを戻した。あと十七日。白洲さんのいない、十七日。床に座り、楽譜を譜面台に立て、弓を構える。低音の刻みを、弾いてみた。
最初の小節は、レの刻みだった。一小節に八つ。きちんと八つ。
二小節目で、刻みがソに変わった。目で見れば、符頭は八つ並んでいる。ソ、ソ、ソ、ソ、ソ。
そこで、弓が引っかかった。五つ目で、弓が次の小節に着いてしまう。腕が、三つぶん空を切った。
奏は弓を止め、楽譜に目を近づけた。符頭と符頭のあいだに、髪の毛ほどの細い弧が、いくつか引かれていた。インクのかすれにも見える。タイなら、つながれた音は、弓では一つにまとめて弾く。その次の小節は、七つで終わった。腕が、八つで刻むつもりで動いているから、数が違うと体のどこかでつまずく。
書き間違いだろうか。古い写譜には、よくあることだ。
けれど、つまずくのは、ソの音の刻みのところばかりだった。
奏は弓を膝に置き、楽譜の端の白洲の字を、もう一度見た。
これは、低音の仕事だ。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




