第二話 灰の三文字
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
※10/23 小規模修正を行いました。
二〇二六年十二月三日 東京・吉祥寺
二日前の通し稽古で、早瀬奏は一度だけ、弾き間違えた。
第一幕、オルランドの最初のアリア。ダ・カーポで冒頭の部分が戻ってくるところで、ファのシャープを弾くべき一拍に、指が勝手にファのナチュラルを押さえた。半音の、ほんの一瞬のずれだった。カウンターテナーの葛城遼は気づいたのかどうか、何事もなかったように装飾を重ねて歌い切った。チェンバロの前の白洲恭介だけが、鍵盤から片手を上げて、ちらりと奏を見た。
休憩になると、白洲は譜面台の陰から手招きした。
「早瀬くん。さっきのファ、録音に残ったぞ」
「すみません」
「謝ることはない。一生ものの傷だな、と言いたかっただけだ」
白洲は笑い、くたびれたカーディガンのポケットから飴を一つ出して、奏の掌に落とした。五十八歳の指揮者は、怒るときも褒めるときも、だいたい同じ顔をしていた。
「低音の一音はね、早瀬くん。歌い手は誰も聴いていないと思っているだろう。ところが、録音は全部覚えている」
白洲は、指揮台の脇の小さな録音機を顎で示した。
「今日の録音は、明日の昼までに、みんなに配っておく。自分の飾りを聴き直しておけ。二度と同じに歌えないのが、飾りってもんだ」
あれが、白洲と交わした最後の冗談になった。
十二月三日の朝、奏は七時半に吉祥寺の駅を出た。
井の頭通りを西へ歩き、成蹊通りへ折れる手前で住宅街に入る。冬の朝の空気は乾いていて、吐く息が白かった。背中のチェロケースが、歩くたびに肩甲骨のあいだで小さく揺れた。
白洲の自宅は、古い木造の二階家の一階を改装したスタジオだった。通奏低音の打ち合わせをしたいから、朝八時に来てくれ。二日前の夜、そう言われていた。公演は二週間あまり後、十二月二十日。ヴィヴァルディの《狂えるオルランド》。演奏会形式に少しだけ演技を加えた上演で、奏は通奏低音のチェロを任されている。
前の月、目白の師の追悼演奏会で嘆きの歌の低音を弾いた。その演奏を、白洲が客席で聴いていたらしい。冴子さんの推薦もあってね、と白洲は電話口で言った。君の低音は、地面の形を知っている。冴子は、その師の妻だった。
白洲恭介という人を、奏はそれまで、遠くからしか知らなかった。
古楽の世界では知らない者のいない指揮者で、チェンバロ奏者だった。若いころはヨーロッパで修業を積み、日本に戻ってからは、小さな古楽団体を率いて、誰も演奏しない十八世紀のオペラばかりを掘り起こしてきた。客の入らない演目でも、白洲は平気で取り上げた。誰かが鳴らさなきゃ、楽譜は死んだままだろう。それが口癖だったと、奏は人づてに聞いていた。
初めての顔合わせの日、白洲は、奏のチェロの音を一小節聴いただけで、うん、と言った。
「君は、歌い手の足元を見て弾く人だな」
「足元、ですか」
「歌い手の顔を見て弾く奴は、だいたい速くなる。足元を見て弾く奴は、ちょうどいい。オルランドは、足元が崩れていく男の話だ。崩れる地面を弾ける人が欲しかった」
白洲はそう言って、カーディガンの袖をまくり、チェンバロの前に座った。それが、ほんの三週間前のことだった。
スタジオの門扉は、半分開いていた。
奏は足を止めた。白洲はいつも門を閉める人だった。猫が入るからね、と言って。玄関の脇に、自転車が一台倒れている。誰かが慌てて立てかけ損ねたように、前輪が植え込みに突っ込んでいた。呼び鈴を押した。返事はない。
もう一度押して、耳を澄ませた。家の中は、しんとしている。チェンバロの音も、湯の沸く音も聞こえない。ひと月前の朝と、同じ静けさだった。
奏は、自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。肩紐を握り直し、玄関のノブを回す。鍵はかかっていなかった。
「白洲さん。早瀬です」
声は廊下に吸い込まれた。暖房の気配がない。そのくせ、焦げ臭い匂いが、かすかに鼻の奥に残った。スタジオの扉は、閉まっていた。
押し開けた瞬間、冷えきった煤の匂いが顔に当たった。
部屋の奥に、煉瓦造りの暖炉がある。白洲が自慢にしていたものだ。冬の稽古は火を見ながらやるんだ、昔の人はそうしてた、と。その暖炉の前に、白洲がうつ伏せに倒れていた。片腕が、暖炉の炉床に向かって伸びている。
奏はチェロケースを下ろすのも忘れて駆け寄り、膝をついた。肩に触れた。冷たかった。カーディガンの毛糸の下で、体はもう、人の柔らかさを失っていた。後頭部の白髪に、黒く乾いたものがこびりついている。
声が出なかった。
ひと月前に、同じことがあった。同じように膝をつき、同じように冷たい肩に触れた。あのときは、チェンバロの角に血がついていた。今度は、暖炉の縁の煉瓦に、黒ずんだ跡がある。
奏は唇を噛み、目を逸らした。逸らした先に、炉床があった。
暖炉の中には、大量の紙の燃え殻が積もっていた。五線の切れ端が、黒く縮れて灰に埋もれている。楽譜だ。それも、一冊や二冊ではない。何十枚もの紙が、ここで燃やされたのだ。
そして、その灰の表面に、指でなぞった跡があった。
白洲の伸ばした右手の、人差し指の先。その少し先の灰に、三つの文字が、震える線で書かれていた。
S、O、L。
奏はしばらく、その三文字から目を離せなかった。
ソル。太陽。あるいは、ソ。音の名前。それとも、まだ続きがあったのか。最後の L のあとに、指が灰を引きずった短い線が、斜めに残っている。
床の上、白洲の左手のそばに、何か小さなものが落ちていた。
鈍い灰色の、親指の先ほどの塊。拾い上げようとして、奏は手を止めた。触ってはいけない。ひと月前に、そう教わったばかりだった。顔を近づけて見る。金属だ。鉛のような、重たい鈍色。片側に、何かの部品が外れたような小さな穴が開いている。
奏はポケットから携帯電話を出し、一一〇を押した。指が震えて、二度押し間違えた。
電話がつながるのを待つあいだ、奏は部屋を見回した。見たくなかったが、目が勝手に動いた。
窓際に、白洲のチェンバロが置かれている。一段鍵盤のイタリア式の楽器で、薄い糸杉の胴の、鋭く減衰の速い音がする。蓋は開いたままだった。譜面台には、《狂えるオルランド》の総譜のコピーが立てかけてある。開かれているのは第一幕の終わり近く、ルッジェーロのアリアの頁だった。フルートが一本だけ独奏楽器として加わる、全曲でいちばん有名な曲。Sol da te, mio dolce amore——ただあなたからだけ、私の甘い恋人よ。その書き出しの歌詞の上に、白洲の鉛筆で、ブレスの位置が小さく書き込まれていた。製本した総譜の背の糊は、第三幕のあたりで割れていて、その綴じ目に、削りかけの鉛筆が一本挟まっていた。
ソル・ダ・テ。
灰の文字と、同じ三文字で始まっている。
奏はそれを、偶然だと思おうとした。思おうとして、うまくいかなかった。頭の奥で、何かが数えはじめていた。三文字。三つの記号。公演まで、あと十七日。数えたところで何一つ合わないのに、数える声は止まらなかった。
それに、と奏は思った。今朝の打ち合わせは、第三幕の低音のはずだった。白洲さんは、なぜ第一幕を開いていたのだろう。
机の上には、白洲の老眼鏡と、蓋の開いた万年筆、それに飲みかけのウイスキーのグラスが一つ。グラスは一つだけだった。客が来ていたのなら、白洲は必ず酒を勧める人だ。それとも、客は飲まなかったのか。
暖炉の脇の薪かごは、空だった。燃やされたのは、薪ではなく、紙だけだったのだ。
道具掛けには、火ばさみと灰かきが吊るされていた。火かき棒の掛け金だけが、空いていた。
電話の向こうで、落ち着いた女性の声が、事件ですか事故ですか、と訊いた。
奏は、事件です、と答えた。答えてから、自分がなぜそう言い切れたのか、少しだけ不思議に思った。
最初に着いたのは制服の警官で、そのあとに鑑識の車が来た。奏は玄関の外に出され、植え込みの縁石に腰を下ろして待った。チェロケースを膝のあいだに立て、その胴に額をつけていた。木の匂いがした。
待つあいだに、奏は冴子に電話をかけた。白洲を紹介してくれた人に、黙っているわけにはいかなかった。白洲さんが、亡くなっています。暖炉の灰に、何か字が書いてありました。譜面台には、第一幕の、フルートのアリアの頁が開いていました。それだけを言うのが、精一杯だった。電話の向こうで、冴子は長いあいだ黙っていた。
黒い車が一台、門の前に停まった。
降りてきた男の顔を見て、奏は思わず立ち上がった。
濃紺のスーツに、短く刈り込んだ髪。背は高くないが、肩幅が広い。目白の坂の上で初めて会った男だった。
先月、目白の洋館で、チェンバロ奏者の氷室慧が殺された。奏の大学時代の師で、最初に見つけたのは奏だった。師が最後に弾いていた嘆きの歌の、繰り返される低音。その繰り返しの数に残された手掛かりを奏が読み、この刑事が犯人に辿り着いた。あれから、まだ一か月しか経っていない。
久我慎一郎は、門扉の前で足を止め、奏の顔を見た。それから、ほんのわずかに、眉を上げた。
「また、あなたですか」
「また、私です」
自分の声が、思ったよりしっかりしていることに、奏は驚いた。
久我は小さく頷いただけだった。後ろから若い刑事が駆けてきた。三浦だった。奏に気づいて、あ、と口を開け、慌てて会釈をした。
「警部補、通報者の方は……っていうか、早瀬さんじゃないですか」
「見れば分かる。中を先に見る。三浦、早瀬さんに温かいものを」
「はい」
久我はスタジオの中へ入っていった。三浦は自販機を探して路地を走っていった。
十分ほどして、久我が戻ってきた。手袋を外しながら、奏の隣の縁石に腰を下ろす。三浦が持ってきた缶のほうじ茶を、奏は両手で包んだ。
「暖炉の灰の文字は、見ましたか」
久我が訊いた。
「はい。S、O、Lと」
「あなたが来たときから、ああでしたか」
「はい。触っていません。床の、鉛みたいなものにも」
久我は頷き、それから三浦を呼んだ。
「灰の文字を、真上から撮らせてくれ。斜めからも」
「了解です」
それから久我は、奏に向き直った。
「灰の三文字のことは、まだ誰にも話さないでください」
「……冴子さんには、電話で。灰に字があったことと、譜面台の頁のことだけ。中身は、言っていません」
久我は、手帳に一行書きつけた。
「分かりました。それ以上は、誰にも」
三浦が中へ戻っていく。久我は、奏のほうを見ないまま言った。
「白洲さんは、あなたに何か言っていましたか。最近、困っていることとか」
奏は首を振りかけて、止めた。
「打ち合わせを、早めたいと言っていました。二日前の夜に。それだけです」
「何の打ち合わせを」
「通奏低音の。でも、電話の声が、少し」
「少し」
「急いでいるみたいでした。白洲さんらしくなく」
久我は手帳に何かを書きつけた。
門の向こうで、鑑識の人が暖炉の前にしゃがみこみ、ストロボを光らせるのが見えた。白い光が、一瞬だけ、灰の上の三文字を照らし出した。
S、O、L。
奏は缶を握りしめた。
白洲さん。それは、何の名前ですか。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




