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第一話 炎の二重唱

 低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。

 けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。

 三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。

 十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。

 そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。

 S、O、L。

 これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。

 どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。

 数え間違えれば、また誰かが燃える。


初めまして&お久しぶりです。


新シリーズを始めました。本日と明日は1日3話、23日からは1日1話の予定です。

しばらくの間、よろしくお願いします。


※10/23 大幅修正しました。

二〇二六年十二月二十日 東京・三鷹/一七四〇年十一月 ヴェネツィア


 煙の向こうで、誰かがまだ歌っていた。歌っていた。歌っていた。楽屋へ続く廊下の床板が熱で反り返り、反り返った継ぎ目という継ぎ目から橙色の光が漏れ、漏れた光が非常灯の緑と煤けた空気の底で混ざり合い、その底を、早瀬奏は袖口で口を覆ったまま、膝で這っていた。高い声だった。男とも女ともつかない声が、イタリア語で、どの台本にも載っていない言葉で、炎の唸りに負けず、炎を伴奏にして、四つの行を歌い継いでいく。舞台のほうで何かが崩れ、また崩れ、また崩れ、客席の悲鳴はもう聞こえず、皆が逃げたあとの古い木造のホールに残っているのは、炎と、煙と、歌声と、自分だけで、いや、歌っている誰かが、いる、いる、と胸の内で繰り返しながら床板に手をつき、手のひらに継ぎ目の熱が刺さり、刺さるたびに、声のする方へ一つ進んだ。十七の冬にも、こうして煙の中で歌を聞いた。あのときは、歌のほうが自分を迎えに来た。今夜は、自分が歌を迎えに行く。

 顔は見えない。けれど、この歌を、私は知っている。

 十八日前の夜、ひとりの指揮者が、暖炉の灰に三つの文字を書き残して死んだ。S、O、L。名前でも、言葉でもない三文字だった。あの三文字を見た朝から、奏はずっと、数えてきた。

 その数が、いま、この歌に辿り着いた。

 ヴィヴァルディの《狂えるオルランド》。死んだ指揮者が、十五年待って、ようやく鳴らそうとしたオペラ。奏は、その通奏低音のチェロを任されていた。舞台のすぐ前の、いちばん低い場所で、歌い手たちの足元を支える役目だ。誰も見上げない場所。誰も数えない音。

 奏は、自分の右手を見下ろした。弓を持つ手。煤で黒く汚れ、指先が小さく痙攣していた。

 この歌を炎の中へ送り出したのは、私の低音だった。

 ソの刻みが、耳の奥でまだ鳴っていた。誰かが、最後の小節を歌おうとしていた。

 いま、炎の向こうの声が、同じ高さへ、ゆっくりと降りていこうとしている。

 天井のどこかで、梁が軋んだ。


*


 一七四〇年十一月、ヴェネツィア。

 サンタンジェロ劇場から運河を二本隔てた路地の奥、運河に面した三階建ての写譜工房に、油の匂いが満ちはじめたのは、晩課の鐘が鳴り終えてまもなくのことだった。

 マッダレーナ・ペッリは、最初にそれに気づいた。二階の仕事部屋で、蝋燭一本の明かりを頼りに、低音の声部を写していたときだ。ペン先からインクを落とし、符頭を置き、次の符頭を置く。その単調な動きの合間に、鼻の奥を刺すような匂いが、床板の隙間から立ちのぼってきた。

 父が死んでから九年、この工房は、彼女とジローラモの二人で回してきた。

 表の看板にはジローラモの名前が書かれ、劇場との契約書にも紙屋の帳面にも、彼の署名が並んでいる。けれど、注文を受けて写譜師に仕事を割り振り、締め切りを守らせ、インクと紙の値段を値切ってきたのは、マッダレーナだった。ジローラモはそれを知っていて、何も言わなかった。言わないことが、彼なりの礼儀なのだと、彼女は思っていた。

 赤毛の司祭が町を去って、もう三か月になる。

 工房の注文は目に見えて減り、若い弟子は一人、二人と別の工房へ移っていった。残ったのは、二人と、二十六年分の紙の束だけだった。

 匂いは、一息ごとに濃くなっていった。

 マッダレーナは立ち上がり、机の上の紙の束を胸に抱えた。ARSI の頁を含む、第三幕の写し。三十九年生きてきて、彼女が自分のものだと言える唯一の紙だった。ほかの紙は、全部燃えてもいい。父の写した協奏曲も、師の荒い字の手稿の写しも、自分が写してきた何千枚もの低音も。

 この一束だけは。

 片手に燭台を持ち、廊下に出た。床板が、油で光っていた。誰かが、桶で撒いたのだ。筋になって、廊下の奥の大部屋のほうへ続いている。

 どこか遠くで、サン・マルコの鐘が鳴っていた。火事を知らせる早鐘ではない。晩課の名残の、間延びした音だった。町はまだ、何も知らずに夕餉の席についている。運河の向こうの家々の窓に、蝋燭の明かりが一つ、また一つと灯っていくのが、廊下の窓から見えた。

 マッダレーナは、油の筋を踏まないように、壁に背をつけて廊下を進んだ。燭台の炎が、自分の息で揺れた。

 彼女は、引き返さなかった。ひと月前から、地下の暗がりで、何かが少しずつ増えていくのを、自分は知っていた。知っていて、知らないふりをしてきた。

 そのとき、歌が聞こえた。

 廊下の奥、写譜台が並ぶ大部屋から。

 普段は掠れた低い声でしか話さない男が、歌うときだけは別人のように澄んだ高い声を出す。そのことを知っているのは、この町でもう彼女だけになっていた。

 Arde il mio nome sull'altrui labbra——

 私の名は、他人の唇の上で燃える。

 マッダレーナは、足を止めなかった。燭台の小さな炎が、油に濡れた床板に映って、二つに揺れた。一歩ごとに、匂いが濃くなった。喉の奥がひりつき、目が潤んだ。それでも、歌は、少しも乱れなかった。二十七年前の夜と同じ速さで、同じ高さで、一つずつ言葉を置いていく。

 大部屋の戸口に、男の影が立っていた。明かりは、彼女の燭台しかなかった。油の光る床の真ん中で、片手に厚い総譜の束を抱えている。もう片方の手に、火打ち石を握っていた。

 影は、歌を止めて、こちらを見た。それから、穏やかな声で言った。

 「数えろ、マッダレーナ」

 少しの間があった。

 「私の名を、最後まで」

 そのあとのことを、彼女はよく覚えていない。手の中の蝋燭が、いつ消えたのかも。

 気がついたとき、廊下は炎の中にあった。油の筋をなぞるように、火が床を走り、大部屋の戸口を呑み込んでいた。天井の梁が、低く呻いた。熱が、前掛けの布越しに、膝を打った。抱えた紙の束の角が、胸に食い込んでいた。それだけは、離さなかった。

 マッダレーナは踵を返した。廊下の突き当たりの窓を、肘で叩き割る。夜の冷気と運河の匂いが、どっと流れ込んできた。眼下の黒い水面に、小舟が一艘、杭につながれて揺れている。

 背後の炎の中で、歌がまた始まった。

 Resta a me sol la cenere e il canto——

 私に残るのは、ただ灰と歌ばかり。

 マッダレーナは紙の束を胸の中に押し込み、窓枠を蹴った。

 落ちていくあいだ、背後で何かが崩れる轟音がした。水面に叩きつけられ、冷たさに息が止まり、浮かび上がって舟縁にしがみついたとき、歌はもう聞こえなかった。

 工房の窓という窓から、炎が噴き出していた。対岸の家々から人が飛び出してきて、鐘が鳴り、桶の列ができはじめた。夜空に、火の粉が、まるで誰かが撒いた音符のように散っていった。

 マッダレーナは舟の底に横たわり、濡れた紙の束を胸に抱いたまま、その火を見上げていた。インクが滲んでいないかを確かめるのが、怖かった。

 対岸の桶の列の中に、近所の革なめし職人の顔がある。パン屋の女房がいる。誰もが火を消そうとしているのに、誰一人として、工房の中にまだ人がいたことを知らない。知らないままでいい、と彼女は思った。

 あの男が歌っていたことも、歌っていた歌が、誰のために書かれたものかも。

 二十七年前の冬のことを、彼女はよく覚えていた。十二歳の自分が、倉庫でこっそりチェロを抱えていた夜。階下から、聞いたこともないほど澄んだ声が上がってきたのだ。階段を下りていくと、蝋燭一本の光の中で、昼間は掠れ声で冗談ばかり言っている若い写譜師が、目を閉じて歌っていた。

 あの夜から、彼女はこの男の秘密を一つずつ数えるようになった。

 声の秘密。名前の秘密。そして、狂気の秘密。

 一つ目は、美しかった。二つ目は、哀れだった。三つ目は、ついさっきまで、どちらなのか分からなかった。

 対岸で、誰かが叫んだ。屋根が落ちる、と。桶の列が崩れ、人々が運河沿いの石畳を後ずさった。三階の窓から、火の粉が噴き上がり、黒い水面に落ちて、じゅっと小さな音を立てては消えていった。一つ。二つ。三つ。マッダレーナは、知らず知らずのうちに、その数を数えていた。数えるのは、子どものころからの癖だった。付点がどこに逃げたか。刻みがいくつ足りないか。火の粉がいくつ、水に落ちたか。

 数えることでしか、彼女は自分を保てなかった。

 舟底に溜まった水が、ちゃぷりと鳴った。マッダレーナは目を閉じた。瞼の裏で、まだ炎が揺れていた。

 明け方、火は消えた。

 焼け落ちた工房の梁の下から、男の遺体は見つからなかった。マッダレーナだけが、紙の束を開いた。

 インクは、奇跡のように無事だった。同じ音を叩き続ける速い刻みが、何十小節も続いている。その刻みの数を、彼女は九年前から一つずつ、自分の手で変えてきた。

 最後の一小節だけが、まだ空白だった。

 そこに男の名を刻むのか、刻まないのか。彼女はまだ、決めていなかった。

 G と、一文字刻めば足りる。刻めば、いつか誰かが数えて、彼の名前を読むだろう。刻まなければ、彼が欲しがった名前は、どこにも残らない。

 マッダレーナは、濡れた紙を一枚ずつ、朝の光にかざした。運河の水が、石段を打っていた。焦げた匂いのする風の中で、空白の小節だけが、白く乾いていった。


*


 二百八十六年後の冬、同じ歌が、もう一度炎の中で歌われることになる。

 その炎に辿り着くまでに、歌は二人の人間を連れていく。

 最初の一人は、暖炉の灰に、三つの文字を書き残した指揮者だった。


 今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。

 もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。

 次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。

 それでは、次の小節でお待ちしています。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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