おかえりなさい
その日の夜だった。
静まり返った寝室に、控えめなノックの音が響く。
私は手にしていた本から顔を上げた。
「奥様」
扉の向こうから聞こえてきたのは、今夜の夜番を務める使用人の声だった。
隣で衣擦れの音がする。
横を向けば旦那様が身を起こし、その視線を扉へ向けていた。
「何があった」
「奥様に至急お伝えしたいことがございます」
私はそっと本を閉じた。
「入ってちょうだい」
静かに入室した使用人は旦那様の姿を確認すると、一礼して声を潜めた。
「客人の容態が急変いたしました」
私はそっと目を伏せる。
ついにその時が来たのだ。
「分かりました」
短く返事をしてベッドから降り上着を手に取る。
「旦那様は……」
お休みください、と言おうとしたら、隣では旦那様も外套を手に取っていた。
「一緒に行く」
「はい」
使用人を先頭に足早に廊下を進む。
「先生は?」
「すでに向かっております」
昼間は穏やかだった屋敷も、今はどこか張り詰めている。
「奥様」
客人に用意した部屋の前には侍女長が立っていた。
「状況は?」
「陣痛が始まったようです」
平静を装っているが、侍女長の顔色は良くない。
「先生とお話は出来そうかしら」
「はい、奥様が来たら入ってもらうようにと」
一つ頷き、旦那様と向き合う。
「旦那様はここでお待ちください」
「俺も一緒に行く」
「今は私に任せてくださいませんか?」
「……だが……」
「旦那様、では……私が怖くなったら、迎えに来てくださいますか」
「当然だ」
「ここで少しだけお待ちくださいね」
扉を開き、私は静かに部屋へ足を踏み入れた。
薬草の匂いと熱気に満ちた室内。
その中央で客人が苦しそうに呼吸を繰り返していた。
頬はこけ、青白い顔には脂汗が浮かんでいる。
この一週間、決して良い状態ではなかった
けれど今は、それ以上だった。
「奥様」
客人の様子に言葉を失った私に、先生が近付いて来た。
「せ、先生、彼女は……」
「厳しいでしょうな」
彼女自身が子を生かすため、気力だけで生きている状態だという。
今夜が峠になる。
覚悟してほしいと告げられた。
「……ま……」
言葉を失った私の耳に届いたのは、小さな声だった。
その声にハッとして、足を無理やり動かして枕元に駆け寄った。
「大丈夫ですよ」
握った手は小さく、とても冷たかった。
「……この子……を……」
そんな力などもうないはずなのに、握り返された手は力強かった。
「どうか……」
そこに居たのは、一人の母親だった。
食事をとるのも辛かっただろう。
それでもこの人は、生まれてくる子のために今日まで生きてきた。
そのことが、握った手から伝わってくる気がした。
部屋の外へ出て、静かに扉へ背を預ける。
扉の前で立ち尽くす私の手を、旦那様がそっと取ってくれた。
「……」
何も言わず、用意された椅子へと導かれる。
握られた手が温かかった。
「怖いのか?」
旦那様の問いに、すぐ答えることができなかった。
扉一枚隔てた向こう側で、一人の母親が命を懸けて子を生もうとしている。
私は、怖いのだろうか。
「少しだけ、怖いです」
分からないまま口にすると、握られた手に力がこもった。
「俺がいる」
「はい」
旦那様に守られている。
こんな時なのに、それを嬉しく感じてしまう。
「旦那様こそ、お辛くありませんか?」
「何がだ」
「ここにいることが、です」
旦那様は閉ざされた扉を見つめた。
「分からない」
「……」
「あの女を、連れて帰らなければならないと思った」
思わず旦那様を見る。
旦那様が彼女について話すのは、帰還してから初めてだった。
「なぜですか?」
「分からない」
もう一度、同じ答えが返ってくる。
「置いていけば、死ぬと思った」
「そう、ですか」
扉の向こうから大きな声が上がった。
思わず立ち上がりそうになった私の肩を、旦那様が守るように抱き寄せる。
「エレナ」
「大丈夫です。ここにいます」
悲鳴が聞こえたにも関わらず、旦那様は落ち着いていた。
それから、どれほどの時が過ぎただろう。
時折聞こえる苦しそうな声に胸を締め付けられながら、ただ待ち続ける。
廊下にある時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。
そして――
小さな産声が聞こえた。
「……生まれた?」
誰に尋ねるでもなく呟く。
か細く、それでも確かに生きていると訴える声だった。
「よかった……」
全身から力が抜け、椅子の背へ体を預ける。
旦那様がそっと肩を支えてくれた。
やがて扉が開き、姿を見せた先生の袖には血がついていた。
「先生」
立ち上がると、旦那様も隣に並んだ。
「赤子は無事です」
その言葉に安堵したのも束の間、先生は苦しそうに目を伏せた。
「母親は……最後に奥様と会いたいそうです」
「私と?」
「はい」
先生に促され、部屋に足を踏み入れる。
ベッドの上には小さな命を抱いた母親がいた。
「おくさま……」
腕にはもう力が入らないのだろう。
赤子に添えられた手は、今にも滑り落ちそうだった。
「この子を……どうか……」
私は彼女の手を握った。
「安心しなさい。この子が困らないよう、私が責任を持ちます」
握っていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。
やがて、その手が静かにシーツの上へ落ちた。
先生が反対側で脈をとっている。
「……亡くなりました」
母親を亡くした小さな命が泣いている。
そっと抱き上げれば、思っていたよりもずっと重かった。
「エレナ」
振り返ると旦那様が揺れる瞳でこちらを見ていた。
「旦那様……」
旦那様の視線が、私の腕の中へ向けられる。
「どうぞ抱いてあげてください、旦那様が守った命です」
旦那様が震える手を伸ばした。
壊れ物に触れるように伸ばされた手へ、私はそっと赤子を預けた。
泣いていた小さな命が、不思議そうに私たちを見ている。
「……温かい」
旦那様の頬から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「旦那様」
「……」
朝日が部屋の中を照らしていく。
「エレナ」
ずっとどこか遠くを見ていた旦那様が、私を見た。
「旦那様、おかえりなさい」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回も作品のイメージソング&ショートMVを制作しました!
本編を読み終えた後のエンディングとして、楽しんでいただけたら嬉しいです。
▼『妻は不要とされた』ショートMV
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