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黄金の中庭  作者: 岡達 英茉
第三章 後宮
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一つの決意

 陽法論の最終巻である第五十巻を開き、私は苦笑した。

 予想に違わず、願いの剣の神技はその巻に記載されていたのだ。つまりは、世にある神技の中で、最も高難度の技の一つである、という事だ。

 レイヤルクは後宮の私の寝室で、片や神官長が現れる気配を感じながら、そんな差し迫った状況下ですら、こんな大技をサラリとこなしてしまうのだ。

 資料室の閲覧用の椅子に座り、私は五十巻目を慎重に読み進めた。願いの剣の使い方に関しては、概ねレイヤルクが言っていた通りだった。だが、厳密に言えばもっと注意点があった。他人に自分の力を三度まで自由に使う能力を与えるこの神技は、通常その力を本人が使うよりも遥かに力を消耗するらしかった。つまり、レイヤルクが雨を降らせるのと、私が願いの剣を用いて彼の力を使い、雨を降らせるのとでは、要する力が天と地ほども違うらしかった。ということはレイヤルクが弱っている時に私が願いの剣の力を使ってしまうと、内容によっては彼に致命的な損傷を負わせるかもしれないのだ。

 レイヤルクの事だから、大丈夫、と思いたくても、神官長が言っていた事が気になってしまう。どんなに力ある者でも、その力は永遠ではない。ましてやレイヤルクは常に禁術の揺り返しと戦っているのだ。それはどんな例にも当てはまらない。

 本を閉じると、私は物思いにふけった。


「またこんな所に。」


 私しかいない資料室に、人が入って来た。現れたのは神官長だった。

 彼はゆっくりと近づいてくると、私の隣の席に腰を下ろした。


「貴方は報告の後、後宮に真っ直ぐに帰らずに、いつも何かを調べている。」


 私は神官長の視線が閲覧机に置かれた第五十巻に落とされているのを見て、少し焦った。


「もう帰ります。お腹も空きましたし。」


 勢いよく起立し、本棚に戻ろうとすると、不意に手首を神官長に掴まれた。


「陽法論の五十巻で何を?神技の事なら、私に聞けば良い。」


 答えに詰まってしまった。挙句に、イロイロ、なんて下手な返事しか出来ない。神官長は座ったままなので、こちらは彼を見下ろす形になっている。閲覧席には大きな窓から外の太陽光が入り、神官長の金色の髪が透けるほどに輝いていた。それが何とも筆舌し難く美しかった。


「サヤは秘密ばかりだ。私はそれを全て暴いてしまいたくなる。」

「あの、どうして私なんですか。神官長の側には凄く素敵な女性がたくさんいるじゃないですか………」

「貴方は自分がどんなに可愛いか、気づいていない。」


 神官長は立ち上がると、私の頬に触れた。私はその手に触れた。


「神官長は、前に私にレイヤルクさんと私が一緒にいた時の事を考えると、レイヤルクさんが嫌になる、と仰いました。私は神官長とエバレッタさんが二人でいるのを想像すると、同じ気持ちになります。」


 神官長は少し目を見開いた。意外な事を言われたみたいに青い目を数回瞬きすると、柔らかく微笑を浮かべた。


「エバにこんな事はしない。」


 神官長は私の髪をかき上げると、私の耳に掛けた。その後、神官長の顔が近付き、その唇が私の頬に触れた。


「こんな事も。」


 その唇が滑り、私の唇にそっと押し付けられた。


「こんな事もしない。」


 神官長は私を抱き締めると、囁くように言った。


「貴方が欲しくて堪らない。だからこそ、あの男の気持ちが分かるのだ。」


 私だって、レイヤルクとキスした事なんて、無いんだけど………そう言い返す余裕も無い程、私はドキドキしていた。

 二人で時が止まったみたいに抱き合っていると、私のお腹がグーっと音を立てた。


「すみません、お腹か空いていて…」


 消え入りたいほど、猛烈に恥ずかしかった。良い雰囲気が、台無しだ。神官長は見事に笑っていた。


「何処かに食べに行こう。個室でなくても構わないか?」

「構いません!ご一緒できるなら立ち食いソバでも結構です!」

「………そうか。とりあえず喜んでおこう。」







 苦しい。

 私は深い井戸の穴を、見下ろしていた。暗い暗い、その穴を。

 腕を伸ばし、無意味に穴の中に差し出すが、宙を掴むばかり。あの金色のネックレスに決して届きはしないのだ。私が短慮だったせいで、こうなったのだ。身から出た錆だ。あの黄金のネックレスさえあれば、助かるはずなのに。そう、こうして死なずに済むのに。私も、そして………。

 胸の中の感情全てが、苦しかった。

 あの、ネックレスさえあれば。


「おい、何をしている。」


 毅然とした太い声に、私は我にかえった。

 気がつくと私は白い井戸の縁にお腹を押し付けてもたれていた。

 立ち上がり、周囲を見渡してギョッとする。

 私はあの中庭にいたのだ。

 さっき確かに自分の寝台に横になって寝たはずなのに………!

 急いで足元を確認すると、案の定裸足だった。足の裏を返して見ると、月明かりの下ですら、黒く汚れているのが見える。

 自分が寝ながら歩いて井戸まできたという事実に打ちのめされたが、更に驚愕なのは、私を眠りから覚まし、今横に立ち怪訝な顔をしているのが、皇帝だという事だった。妃の部屋を訪ねた後なのか、ゆったりとした簡素な絹の長い衣を纏い、金糸の刺繍がされた帯を腰に巻いていた。一見相当な軽装だったが、首からは大きな青い貴石が連なる豪奢な首飾りを下げていた。そのギャップが、彼は皇帝なのだと改めて感じさせた。


「私、部屋で寝ていた筈なんですが……。どうしてここに…」

「夢遊病でも持っているのか?幽霊がいるのかと驚いたぞ。この中庭を通れない理由を自分で作る気か?」


 私は頭を振りながら井戸から離れた。この世界に来てから日増しに鮮烈になる井戸の夢は、私を何処までも追いかけてくる悪夢だった。そして、それは遂に現実の私までも捕らえたのだ。ーーー後宮を離れれば、悪夢は終わるだろうか?そうじゃないと困る。でも、多分そうではない、という気がした。おそらく先代の巫女姫の残したこの後悔と絶望は、あのネックレスを手に入れるまでは、絶対に終わらない。


「大丈夫か?何か悩みでもあるのか?」

「い、いいえ。陛下にご心配頂く様な悩みは…」

「お前の心配をしているのではないぞ。そんな様子で巫女姫のお側にいられては堪らん。」


 そんな。護女官としての資質を疑われているのか。私は焦って取り繕った。


「すみません。私、子供の頃に井戸に落ちて生死を彷徨った事がありまして…。この体験にうなされるのが、長年の悩みでして。」


 勿論そんな経験はなかったが、トラウマを理由にしてしまえば、変に怪しまれないだろうと思った。


「そうか。だが己を支配するまでの悩みは、逃げるか立ち向かうかでしか解決しないぞ。」


 逃げるか立ち向かうかーーーそれを直ぐに決められないからこそ、悩みというのではないか。

 だが目の前に佇む皇帝は、胸を反らして腕を組み、自信と威厳に満ちている。それこそウジウジと長く悩む様な事はない様に思えた。ふと思いついて聞いてみた。


「陛下ならば、どちらを選択されますか?」


 すると皇帝は豪快に笑った。


「余ならば、とことん立ち向かう。」


 予想通りの回答に笑ってしまった。一国の皇帝が、逃げるなどと答えるはずがない。

 私は日本での仕事に追われ、悩み疲れた時期を思い出した。あの頃、本当に辛かった。自分には背負いきれない業務。自分の無能さに、逃げ出したくなっていた。

 ここで今同じ事は繰り返したくない。

 静寂の中、上空に輝く月だけが、井戸のある中庭にいる私と皇帝を見ていた。

 この瞬間、私は自分がすべき事を捉えた。

 私は井戸から離れる様に数歩歩いた。裸足の足の裏に、チクチクとする芝を感じる。井戸から目を離して皇帝を見ると、彼は意外にも興味深そうに私を見ていた。


「私は以前、悩みに向かおうとせず、逃げた事があります。でも今回は、立ち向かって打ち勝ってみせます。」

「それは頼もしい限りだな。」


 そう言うと皇帝は大股で井戸に近寄り、その縁に腰掛けた。悪戯っぽく目を踊らせると、白い井戸の縁を軽く叩いた。


「この井戸という暴れ馬を、乗りこなして見せよ。」

「陛下はそれを応援して下さいますか?」


 皇帝は太い眉をひょいと上げると、勿論だ、と答えた。

 私は数歩後ずさると、膝を折り、その場に膝をついた。

 皇帝が何事かと井戸から立ち上がるのが視界の隅に見える。

 

「陛下に御礼申し上げます。ありがとうございます。」


 


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