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第八話 雨夜の呼び出し


 同じ頃。


 川沿いの道を、神崎とアイリは並んで歩いていた。川面から立ちのぼる湿った空気と、街灯ににじむ細い雨。

 さっきまで話していた「形代(かたしろ)」の話題も、いつの間にか途切れていた。


 雨音と靴音だけが、二人のあいだを行き来している。


 そのとき、神崎のポケットの中で、スマートフォンが小さく震えた。


「……?」


 足を緩め、神崎はポケットから端末を取り出す。

 画面に表示されたのは、見覚えのない番号。だが、この状況で掛けてくる相手には心当たりがあった。


 隣を歩くアイリが、横目だけを寄こす。


「出ろ」


 簡潔な命令。

 神崎は通話ボタンを押した。


「……神崎です」


 雨音が、わずかに遠のいた気がした。


『……神崎さん』


 掠れた低い声。

 数時間前、例の工房で聞いたばかりの声だった。


「斎宮さんですね。黒野も一緒です。どうかしましたか」


 アイリが足を止める。神崎はスピーカーに切り替え、端末を少しアイリのほうへ傾けた。


 斎宮が工房の中を歩いているのだろうか。受話口の向こうで、床板を踏む足音と、戸の軋む音が混じる。


『……先ほどは、失礼しました』


「いえ。それで、何かあったんですか」


 短く問う。

 スマートフォン越しに、ためらいを含んだ沈黙が落ちた。


『お二人とも、棚の本のことを気にしていましたよね』


「一冊分だけ少しスペースが空いていた場所のことですね」


 神崎の言葉に、アイリが静かに頷く。


『……その本が見当たらなかった理由が、やっと分かった気がします』


「見当たらなかった理由、ですか?」


 神崎は思わず眉根を寄せる。


『環が、生前につけていたノートがあります。ずっと触れずに引き出しにしまい込んでいたんですが……さっき、中を読みました』


「環さんのノート……?」


『ええ、日記のようなものです。志乃さんが、工房を訪れたときに置いて行きました』


 アイリの目が細くなる。神崎は少し目を瞬かせてから、確認した。


「それって、お墓参りで出会った後の話ですか?」


『ええ。環が遊びに来ていた工房を、一度見てみたいと……。そのときに』


 わずかな沈黙。


『……棚の本がなくなったのも、おそらく同じ日なんです』


 冷たいものが、神崎の背を走った。


「紛失ではなく、意図的に抜かれた?」


『環が亡くなってから、あの棚に近づいたのは……僕と、志乃さんだけです』


 川面を打つ雨の音が、急に鮮明になる。


「何の本か、心当たりは」


 横からアイリが割り込むように尋ねる。いつもより少し強めの声音。

 電話の向こうは、しばらく静かだった。


『……人形作りでタブーとされている、ある工法に関する本です』


 やけに歯切れが悪い。喫茶店で話した「形代」の話がどうしても思い出される。


「それって、やっぱり……今回の?」


 神崎が言いかけた言葉に、アイリの声が重なる。


「志乃さんが意図的に、その本を持ち出した、と」


 わずかに、斎宮の息が乱れた。


『……環のノートには、のことも書かれていました』


「斎宮さんの?」


『かつて、彼女を失ったとき……俺は一度、禁じられた工法に手を伸ばしかけたことがあります。その本に書かれていたように、人形を《器》にして、彼女の魂を縫い留めようとした』


 神崎は息を呑んだ。アイリも目を伏せ、じっと耳を傾ける。


『うまくはいかなかった。ただの空っぽな器が残っただけです。環は俺のしようとしたことに、すぐに気づきました』


 工房の灯りの下で、真っ直ぐに向けられた誰かのまなざしが脳裏にちらつくような声だった。


『ノートには……あのあと、俺が人形作りをやめたのは、自分のせいかもしれないと書いてあった。人形作りの人生を取り上げてしまったかもしれないって』


 スマートフォンを握る神崎の手が僅かに震える。


『環は、自分を責めていた。俺が自分の過ちを悔いれば悔いるほど……』


 その一文を読んだときの彼の心の重さが、そのまま声に滲(にじ)んでいる。


「……環さんの自死に、斎宮さんの過去が関係しているかもしれない、と?」


 神崎が慎重に言葉を選ぶ。


『可能性の話です。ただ少なくとも、環はそう考えていた。それを、俺は今日まで知らなかった』


 短い沈黙。


『志乃さんは読んでないと言っていたけど』


 そこで斎宮は言葉を区切る。


『……例の本が棚から消えているとなると、全てが繋がっている気がするんです』


 神崎とアイリは、黙って視線を交わした。


『志乃さんの思惑はわかりません。ただ……環が亡くなってから俺の工房に立ち入ったのは、あの人だけです』


 アイリがすぐに質問を重ねた。


「志乃さんに、人形作りの経験は?」


『俺が弟子入りする前、師匠と志乃さんは、二人で人形作りをしていたと聞いたことがあります』


 はっと神崎が息を呑む。人形が増えたことを誰よりも把握しているはずの店主。最初に話したときの妙な違和感が、ようやく形を持ちはじめる。


「あの蓮月堂の増えた人形は、志乃さんが作ったものだった……?」


『あの人が何かを思い病んで、禁じられた方法に手を伸ばそうとしているなら——止めなければならない』


 その声の向こうで足音が速くなる気配がした。外気のざわめきが通話に混じる。


「斎宮さん、今どこに」


『工房を出ました。これからタクシーで蓮月堂へ向かいます。裏手に作業場がある。今も人形作りをしているなら、あそこしかない』


「俺たちも向かいます。すぐに——」


『いえ。本来なら、俺が止めるべきことです。環のことも、禁忌に手を伸ばしかけたのも……全部、俺の責任です』


 遮るように言われ、神崎は唇を噛(か)んだ。

 こうしている時間も惜しい。


「一人で行くのは危険です!」


『……分かっています。だから、電話をしました』


 声が、わずかに柔らぐ。


『蓮月堂で何かあれば——力を貸してください』


「もちろんです!」


 神崎は即答した。アイリが低く言う。


「先走るな。必ず合流する」


『ありがとうございます』


 短い息。


『今、タクシーが——すみません。一旦切ります。蓮月堂で』


「ええ。すぐ向かいます」


 通話が途切れる。


 画面に表示された「通話終了」の文字が、妙に冷たい。


「……斎宮さん」


「切れただけだ」


 神崎はスマートフォンを握り直す。

 アイリが周囲を一瞥(いちべつ)した。


「タクシーを拾う。見つからなければ車に戻る」


 雨は、変わらず細く降り続いていた。

 ただの雨音が、今は何かが始まる前兆のように聞こえる。


 ——急がなければならない。

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