第七話 禁忌の器
喫茶店を出ると、外の雨は相変わらず細く降り続いていた。
夜の犀川沿いの道は、濡れた石畳が街灯の光をぼんやりと返している。
「……どうも、引っかかるんですよね」
川沿いを歩きながら、神崎がぽつりと呟いた。
「何がだ」
隣を歩くアイリが、歩調を落として横目を向ける。
「倒れた人たちです。誰かに襲われたわけでもない。傷もない。……なのに、急に力が抜けたみたいに倒れている」
調査資料に記されていた症例が、神崎の脳裏によみがえる。
駅前、街中の大通り、公園。共通するのは——雨の日であることだけ。
アイリは数歩分の沈黙を置いてから口を開いた。
「……昔から、人形は“形代”として用いられることがある」
「カタシロ……厄祓いとか、身代わりとか、そういうのに使うやつですよね」
「ああ。本来は穢れを移して流すための器だが、逆に“特定の人間の霊や思念を宿らせる”器として使われることもある」
アイリは、濡れた川面に目をやりながら続ける。
「今回の件、誰かが意図的に人の霊を宿らせるための“器”として、人形を利用している可能性はある」
神崎は足を止める。
「人の霊を……そんな簡単に、入れたりできるものなんですか」
「簡単ではない。だからこそ、禁忌に分類される」
アイリの声が、ひときわ冷静になる。
「魂を人形に“定着”させるには、本来は決まった術式と、それなりの対価が必要だ。それを中途半端に真似すると——“半端な器”だけができあがる」
「半端な、器……」
「中に入れるはずだった魂が揺らいだまま、人形だけが器として開いた状態になる。そこへ満たしきれない思念や未練が集まり、足りない分を周囲から補おうとする」
「補うって……」
「つまり、近くにいる人間から“生気”や“魂の欠片”を少しずつ引き寄せる。結果、理由もなく力が抜けたように人が倒れる」
神崎の背筋に、ぞくりと寒気が走る。
「じゃあ……誰かが“誰かを失いたくない”って気持ちで、人形に魂を入れようとして、それがうまくいかなくて……町の人たちが巻き込まれてるってことですか」
「あくまで仮説だ」
アイリは短く答えた。
「ただ、“増えた人形”と、“雨の日に倒れる人”の現象が、同じ線上にあると考えれば筋は通る」
神崎は、濡れた欄干にもたれかかり、息を吐いた。
「……斎宮さんも、そのあたりには何か心当たりがありそうでしたね」
「関わっている、もしくは“かつて関わりかけた”」
ふと、アイリの言葉が細くなる。
「環の死と、斎宮の筆が止まった時期がずれていることは、すでに確認した。ならば——あの人が人形をやめた理由は、別にある」
「形代としての人形、魂を定着させる禁忌……」
神崎は小さく頷く。
「環さんの自死の経緯と、斎宮さんの過去の制作。その二つを、ちゃんと繋げて考える必要がありそうですね」
「そうだな」
アイリは同意し、濡れた道を踏みしめる。
「現象だけ追っても仕方がない。誰が何を望んで、どこで取り違えたのか——そこまで遡らなければならない」
ふと、風が強まり、細い雨粒が横から頬を叩いた。
「……寒くなってきましたね」
「文句は、事件が片付いてから言え」
ぶっきらぼうな言葉に、神崎はかすかに笑う。
「じゃあ、そのときまとめて言います」
二人の足音が、雨の音に紛れて遠ざかっていった。
◇
斎宮は、一人、机に肘をつき、額を押さえていた。
さっきまでそこに立っていた、スーツ姿の二人の影がまだ残っている気がする。
神崎イサナと名乗った男と、その隣にいた女——黒野アイリ。
(……似ていた)
棚の人形を前に、神崎が言った言葉がよみがえる。
——この子、アイリさんに少し似てますね。
そのときは苦笑で誤魔化した。
だが、斎宮自身も同じことを思っていた。
伏せ気味の睫毛。その下に、強い光を宿したまっすぐな瞳。
あの人形は、本来は別の誰かを象っていた。
斎宮がかつて愛した女の面影を、どうしても捨てきれずに、手が勝手になぞってしまった線だ。
(……もう二度と、似せるつもりはなかったのにな)
アイリの顔を見た瞬間、斎宮の中で、記憶の奥に押し込めていた感情が揺さぶられた。
——最愛の人を失った日。
——魂を人形に宿らせようとした、あの夜。
“形代”としての人形。
本来は穢れや厄を移して流すための器。
だが、斎宮はそれを逆に使おうとした。愛する者の魂を、人形に縫い留めるために。
結果は、失敗だった。
人形の目は、どれだけ手を入れても空虚なままだった。
そこへ環が気づいた。
何も言わず、ただ、真っ直ぐなまなざしで彼を見た。
その視線が、何よりも痛かった。
それが、二人にとって最後の“対話”になった。
(環は、あのとき……)
斎宮は、苦い息を吐き出す。
——失われた本。
——環のこと。
工房の中では、作業灯だけが淡く灯っている。
窓の外の雨は細くなったが、止む気配はない。犀川の方角から、低い水音がかすかに届いていた。
斎宮は顔を上げ、工房の隅に視線を向ける。
小さな棚の上に、人形たちが整然と並んでいる。どれも未完成のまま、時を止めていた。
その横の、大きな棚。
人形の台座、道具の缶、布や木箱、その最上段には技法書と古い帳面が背表紙をこちらに向けて並んでいる。
そこに——一本ぶんだけ、縦にすっと空いた隙間があった。
あの空白は、今日、神崎たちが来る前からそこにあった。
だが、彼らの視線が止まったとき、ようやく斎宮自身も“無視してきた違和感”を意識せざるを得なかった。
環が亡くなってから、この工房の中に足を踏み入れたのは——たった一人だけだ。
(志乃さん……)
敬愛する師の妻であり、若い頃から住み込みで世話になった女性。そして、環の祖母。
最後に彼女に会ったのは、環の墓の前だった。
雨上がりの霊園。濡れた石碑。まだ新しい環の墓石の前で、斎宮はどう立っていればいいのか分からずにいた。
「……光留さん?」
背後から呼びかける声に振り返ると、そこに志乃がいた。
黒い傘をさし、疲れたような顔で。
ぎこちない沈黙のあと、志乃は言った。
「最近、人形作りをしていないそうね。あの人が……誠士も心配していたわよ。たまには店に顔を出してちょうだい」
親族に向けるような、軽い調子の言葉。
そのとき、斎宮は何も答えられなかった。自分にその資格があるとは思えなかったからだ。
それでも、今も犀川の辺りに住んでいることを伝えると、志乃は少しホッとした様子を見せた。
数日後。
彼女は斎宮の工房を訪ねてきた。
その事実を、志乃は夫や神崎たちには話していなかっただろう。
「ここに来るのも、本当は迷ったのよ……」
志乃は、抱えていた小さな紙袋を差し出した。
中には、古びたノート——環の日記。
「でもこれを持ってるのが、ちょっと……つらくて。あなたなら、受け取ってくれるんじゃないかと思って」
斎宮は、受け取るしかなかった。
あの日、志乃はしばらく工房の中を見回していた。
棚に並んだ人形。
道具。
そして、本の列。
その視線が、禁忌の記述が載った例の本のあたりで、わずかに止まったような気がした——今となっては、そうだったようにしか思えない。
だが、そのとき斎宮は、棚の並びに注意を払わなかった。
志乃が帰ったあとも、日記を引き出しにしまっただけで、その背表紙を開くことはなかった。
環の“遺した言葉”に向き合うことが、恐ろしかった。
そこには、自分が目を逸らしてきた何かが、きっと書かれていると思っていたからだ。
……今日、神崎たちが帰ったあと、ようやく棚の前に立ち尽くし、斎宮は気づいたのだ。
(まさか。あのとき、志乃さんが?)
証拠はない。さすがに恩師の妻に「本を盗んだのか」とは訊ねられない。
何より、あの本の存在そのものを、師匠に知られたくはなかった。
(志乃さんは、本当に“読んでいない”のか……)
胸の奥に、鈍い疑念がこびりつく。
斎宮は、机の引き出しに目を落とした。
その奥には、志乃から託された日記帳がしまわれている。まだ一度も開いていない。
読む資格などないと思っていた。
だが、アイリに似た人形に自分で手を伸ばし、棚の空白に目を逸らせなくなった今は、もう逃げていられなかった。
(……確かめなければ)
今になって、どうしても確かめなければならないという思いが、斎宮の胸に静かに湧き上がってくる。
彼はゆっくりと立ち上がり、引き出しを開けた。
古びた日記帳を取り出す。表紙に触れた指が、わずかに震えた。
「……環」
小さく呟き、ページをめくる。
——兄さんは、人形を作り続けてほしい。
——僕は人形は作れないけど、兄さんの人形は本当にすごいと思ってる。
——だけど……兄さんは、ずっと苦しそうだった。
斎宮の手が止まる。
環は、自分の人形を“すごい”と言っていた。
だが斎宮自身は、そう思えなかった。いくら精巧に作っても、胸を張って傑作だと思えたことがない。
短く嘆息した後、さらに先を読み進める。
——兄さんがあの禁忌に手を伸ばしたとき、僕は怒った。
——本当は、怖かったんだ。兄さんが人形に囚われてしまいそうで。
——だから、強く責めてしまった。
——あれ以来兄さんは……。人形作家としての彼の人生を消してしまったのは、僕なのかもしれない。
斎宮の瞳が揺れる。
環は、自分を責めていた。
斎宮が作ることをやめたのは、自分のせいかもしれないと——。
「気づいてやれなかった」
掠れた声が漏れる。
環は、最後まで斎宮を想っていたのに。
「俺のせいで、環は……」
囁きがこぼれる。
(志乃さんは、どこまで知って……)
もし志乃が日記を読んでいたのなら。
環のこの独白に辿り着いていたのなら。
——もう二度と禁忌に触れないように、本を隠したのか。
——それとも、誰かのために、越えてはいけない境界に手を伸ばそうとしているのか。
窓の外で、雨脚がわずかに強まった。
斎宮は、日記を閉じ、ぎゅっと胸に抱いた。
机の上には、神崎から手渡された名刺が一枚。
そこに書かれた名前を、斎宮はもう一度目でなぞる。
神崎イサナ。
隣にいた女——黒野アイリ。
人形と、彼女と、自分の過去が一瞬交差した、奇妙な感覚。
(……一人では、もう背負えない)
普段なら、誰にも頼らない。
だが、今だけは誰かとこの重さを分けなければならないと思った。
斎宮は迷わず携帯を手に取り、番号を打ち込む。
——コール音。
(頼む、出てくれ……)
細い雨が窓ガラスを叩く音と、耳元の電子音が重なり合う。
数秒後、通話がつながる気配がした。




