第六話 隠された過去
斎宮の工房を後にする頃には、雨はほとんど小雨になっていた。
犀川沿いの小道には、雨の湿った空気が漂い、どこか土と木の匂いが混じっている。
遠くで、川面を撫でるような水音が絶え間なく響いていた。
「……やっぱり、斎宮さんも何か隠してますね」
神崎がポツリと呟く。
上着のポケットに手を突っ込みながら、背後にある工房をちらりと振り返った。
「ああ、明らかに動揺していた」
アイリは淡々と告げながら、手元のメモ帳をめくる。
「特に、棚の一角のこと。背表紙が一本ぶん抜けた跡には何かありそうだった」
「アイリさんも気になってたんですね、やっぱり」
「視界に入ったものは、おおむね」
事実だけを並べるように言う。
「埃のつき方も違っていた。あれは“ずっと空いていた場所”ではない。最近、何かが抜かれた」
「ええ、あれ……“空いてた”っていうより、“抜かれた”って感じでしたよね」
神崎は川沿いの柵にもたれかかり、息を吐いた。
冷えた風が袖を揺らす。
「ただ、斎宮さんの反応が……妙でした。気づいた後から視線が合わなくなりました」
「あのあと、急に人形の話題に戻ったな」
アイリはしばらく黙っていたが、やがて静かに言葉を紡ぐ。
「何がなくなったかは分かっている。ただ、こっちには踏み込まれたくない——そういう顔だった」
神崎は何も言わずに、少し目を細める。アイリは続けた。
「例えば、環に関する記録、あるいは人形に関わる記述。周りの本は遠目に見た限り、どれも人形の工法に関する古い文献だった」
「……何らかの理由で人形作りをやめた彼には、もう不要なものだったとも考えられますね。少なくとも、今の時点では」
神崎は、ポケットから小石をつまみ、コツンと足元に転がした。
「……となると、残る手がかりは環さんが亡くなった経緯ですね。志乃さんか先生にもう少し詳しく聞く他ないのでしょうか」
調査資料には自死の理由までは書かれていなかった。誠士から話を聞いた際も、特別詳しく触れられた印象はない。
それでも、名前を口にすると、胸の奥がわずかに重くなるのを神崎は自覚していた。
気が進まなさそうな神崎の様子に、アイリは正面から目を合わせる。
「私情を挟むな。余計な感情は、事実を見誤る」
いつも通りの口調だったが、言葉そのものは刃物のように真っ直ぐだ。
神崎は、軽く肩をすくめてみせる。
「わかってます。でも少しだけ、時間をください」
その返事に、アイリは何も言わない。ただ横顔を一度だけ見ると、歩き出した。
二人は歩き出しかけて、ふと足を止める。
川沿いの角に、小さな喫茶店が見えた。
冷たい雨のせいか、店の窓は薄く曇っている。
「……ここ、入ります?」
神崎が言うと、アイリは少し間を置いてから頷いた。
「少し休憩するだけだ」
店内に入ると、香ばしい匂いがふわりと漂った。
神崎の前に置かれたカップは、白地に鮮やかな色が走り、縁には細い金が入っていた。
受け皿にも絵付けがあり、控えめなのに目を引く。
「……綺麗ですね」
神崎が思わず漏らすと、アイリは「今それか」とでも言いたげに視線を向けたが、何も言わなかった。
そのとき、隣の席から小声が聞こえてくる。
「……また倒れたんだってさ」
「この前の人と同じ? 雨の日に決まって、ってやつ」
「縁起でもないこと言うなよ」
それ以上、会話は続かなかった。
誰もが、口にしてしまえば現実になるとでも思っているみたいに、話題を切り替えてカップを手に取る。
神崎は、背中の奥に薄い冷えを感じた。
「……“また”、ですか」
「聞こえた」
アイリは短く答える。
「雨の日に人が倒れる——最初に聞かされた症例より、件数が多い可能性がある」
「……ですよね。やっぱり、この町全体で起きてると考えた方が自然だ」
神崎は、窓の外の川を見やる。
この町の空気は、やけに静かで、やけに重い。
「明日、蓮月堂に行く前に。もう少し、こっち側の話も拾っておきましょうか」
「そうだな。焦って動くより、確実に詰める」
神崎は小さく頷いた。
薄い水の匂いを乗せた風が、犀川の水面を揺らしていた。
その静かな流れは、何も語らず、ただどこまでも続いていた。




