第五話 雨の工房
——コン、コン。
近づいていた足音が、雨音の奥でふっと止まる。
戸の向こうで、しばらく気配が動かない。
返事はない。ただ、こちらを量っているような沈黙だけが、板一枚の向こうに張りついている。
やがて、戸がわずかに開いた。鎌首をもたげるように、暗がりの中から片目だけが覗く。
「……どなたですか」
声は低く落ち着いているが、油断の色はない。戸口に立つスーツ姿の二人を、男は敷居の内側からじっと観察する。体はまだ、戸の陰を背にしたままだ。
現れた男は、痩せてはいるが、骨の芯まで弱っているわけではない。
目は静かで、深い。焦点は合っているのに、どこか別のものを見ているような目だった。作品目当ての客に向ける目とは明らかに違う。
神崎が頭を下げる。
「突然失礼します。蓮月堂で、斎宮さんの作品を拝見しました。少しお話をうかがえればと思いまして」
「……蓮月堂」
その名が、わずかな遅れをもって喉に落ちていく。視線が二人の顔と足元の革靴を順に往復する。どこかに違和感を探しているようだ。作品の話を持ち出されても、表情は緩まない。
「わざわざ、こちらへ?」
短く、探るような言い方だった。
数秒の沈黙ののち、戸がさらに開いた。だが、半身分の幅は残したまま、男は身を外へは決して出さない。
「どうぞ」
工房の中は、整然としていた。
削りかけの木地。
磨き上げられた刃。
油を差された鋏。
棚に並ぶ人形は、どれも丁寧に拭われている。
止まった空間には見えない。
それでも、斎宮の視線だけは、なお二人との距離を測っていた。
神崎は、棚の一体にそっと手を伸ばした。
白磁のような肌。伏せた睫毛。
その奥に、静かな強さが潜んでいる。
老婦人の言葉がよぎる。
——前よりも、生気があると言うか……強い気迫を感じると言うか。
神崎が小声で笑う。
「……この子。アイリさんに、少し似てますね」
ーー一瞬の間。
すぐにアイリの肘が、神崎の脇腹に入る。
「余計なことを言うな」
「目元が、です」
「黙れ」
小声で交わされた短いやり取りのあいだ、斎宮はじっとアイリを見ていた。その目に、わずかに警戒とは違う色が混じる。
ほんの一瞬、空気の密度が変わる。
「……確かに、似ている」
独り言のような声だった。
神崎が顔を上げる。
「え?」
斎宮は瞬きをし、視線を人形へ戻す。さっきまでの色を、意識してなかったことにするように。
「いえ」
それ以上、会話は続かない。空気が、わずかに冷えた。
神崎は人形を棚へ戻す。
「最近、少し不思議なことがあるそうで」
斎宮の肩が、わずかにこわばる。
「……何でしょう」
「蓮月堂の店内に、誰も作った覚えのない人形が増えているそうなんです」
沈黙。
机の上の指が、わずかに止まる。
「そのうちの一体が、あなたの作風に似ていると」
「誤解です」
短く。だが、その否定は速かった。声の端に、わずかに苛立ちの影が差す。
「そのうちの一体が、あなたの作風に似ていると」
「誤解です」
短く。だが、その否定は速かった。声の端に、わずかに苛立ちの影が差す。
「俺の作品は、全てここにあります」
言いながら、斎宮は横の棚を指し示す。
人形だけではない。
下段には台座に載せられた人形が間隔をあけて並び、その上の段には、木箱や道具の入った缶、布切れを詰め込んだ籠が押し込まれている。
棚の最上段には、製本された技法書や古い帳面が背表紙をこちらに向けて立てられていた。
仕事に必要なものを、手の届く範囲にすべて積み上げたような棚だった。
神崎はその棚へ視線を移す。
整然と、とは言いがたいが、秩序はある並び。
その中で、一箇所だけ縦にすっと空いた隙間があった。周囲の本の背は薄く埃をまとい、日焼けで色も落ちているのに、そこだけ木肌が新しい。
神崎の視線が、そこで止まる。
その数秒前、斎宮の目も同じ場所をかすめていた。
何かが欠けていることを、今、あらためて確認したような沈黙。
「……整理中ですか」
神崎の声は柔らかい。
机の縁を、指先が軽く二度叩く。
「資料の整理を」
「最近?」
わずかな間。
「ええ」
目は合わない。
そのまま視線は、するりとアイリへ移る。
話題を戻すように。
「人形の話でしたね」
神崎は、それ以上を追わなかった。
代わりに口を開く。
「桐生先生が、あなたを心配されていました」
その名に、斎宮の表情がわずかに揺れる。押し殺していた感情に、細いひびが入る。
「……あの人が?」
「はい。もう一度、あなたの姿を見たいと」
つかの間の沈黙。
雨が屋根を打つ音が、やけに近く聞こえる。
斎宮の手が、机の上の木地に触れる。
無意識の動き。
削りかけの輪郭。
そこで止まった線。
「……俺は」
言葉が途切れる。
「今は、もう作っていません」
否定でも、言い訳でもない。
ただ、そこに置かれた事実のような響きだった。
神崎は名刺を差し出す。
「無理にとは言いません。ですが、もし何か思い出されることがあれば」
斎宮はしばらくそれを見つめる。名刺にではなく、その向こうの二人を測るように視線を往復させてから、それを受け取った。
「……考えておきます」
それ以上は言わない。
二人は一礼し、外へ出た。
戸が閉まる。
雨音が、わずかに強まる。
工房の中で、斎宮は動かない。
棚の空白を見る。
人形と道具と本が混在する、そのごちゃついた棚の中で、そこだけが不自然にまっさらだった。背表紙が一本ぶん抜け落ちた跡。
そこにあったはずの背表紙。
思い出そうとすると、胸の奥がざらついた。
机の上の木地に、指が触れる。
削りかけの頬。
止めたはずの線。
触れていないはずの刃の重みが、指先にじわりと戻ってくる。
視線が、わずかに揺れた。
外で雨が、犀川の水面を叩いている。
止まったと思っていた時間が、
まだ、どこかで続いている。
雨は、まだ止んでいなかった。




