第四話 川霧の町
翌日。薄曇りの空から、細かな雨が落ち続けていた。犀川の水面は灰色に曇り、雨粒が触れるたびに輪が広がり、静かに崩れていく。
川沿いの町家は低く連なり、濡れた木の匂いが空気に溶けていた。
神崎はポケットに手を入れ、歩幅を少しだけ緩める。
「……志乃さんのあの様子、やっぱり気になりますね」
アイリはすぐには答えない。川面に広がる波紋を一つ見届けてから口を開く。
「隠している、という顔ではなかった」
「では?」
「あれは、踏み込ませない顔だ」
アイリの言葉に、神崎は小さく笑う。
「なるほど。線を引かれましたか」
「明確にな」
数歩、雨音だけが続く。
「斎宮さんに会えば、その線の理由が見えるかもしれませんね」
「かもしれない」
雨音が、会話の隙間を埋める。
神崎が続けた。
「……こうして歩くと、町の空気が違いますね」
アイリは前を見たまま答える。
「この辺りは観光地の顔ではない。地元の層だ」
「身を隠すには、悪くない場所ってことですか」
「観光客の視界からは外れる。——つまり、目立たない」
二人は最初の町家の戸を叩いた。
中から顔を出したのは、白髪混じりの初老の男だった。作業着の袖に木屑がついている。
男は、戸口に立つスーツ姿の二人を上から下まで一度だけ眺める。わずかに目つきが固くなった。
「何の用だ?」
神崎は柔らかく頭を下げる。その横で、アイリは一歩だけ後ろに下がる。初江課長の「聞き込みはまず神崎くんに任せなさい」という声が、反射的に頭をよぎった。
「突然失礼してすみません。営業でもお役所でもありませんので、ご安心ください」
そう前置きして、神崎は笑みだけ少し深くした。相手の警戒がどこに向いているかには、もう慣れていた。
「こちらで人形を制作されている方を探していまして。“斎宮”というお名前に心当たりはありませんか?」
男は一瞬考え、鼻を鳴らす。
「……ああ、斎志先生のとこの若いのか」
「ご存じなんですね」
「ああ。筋はよかった。ずいぶんと腕がいいと聞いた」
「最近お会いになりました?」
男は少し考え、言う。
「最近、というより……ここ二、三年は見ていないな」
神崎が言葉を選ぶ。
「環さんが亡くなったあと、姿を消したと聞きましたが」
男は眉をひそめた。
「環……ああ、先生の孫か」
「ええ」
男は首を振る。
「いや、あの若いのは……その前から、どこかおかしかった」
神崎とアイリが視線を交わす。
神崎の中で、時間の線がずれる感覚が走る。誰かの記憶だけが、どこかでずれていた。
「おかしかった、とは?」
「工房にこもりきってるかと思えば、次第に仕事を断るようになってな。あれは先生の孫が亡くなる前だ」
雨音がわずかに強まる。
「確かですか」
「この辺りじゃ皆知っている」
「先生の顔を立てて話したが」とでも言いたげに、男は刃を木に戻した。
ザリ、と乾いた音が会話の終わりを告げる。
神崎が小さく会釈し、戸をそっと引く。背後でまた木が削られる音がした。
外は同じ雨のはずなのに、さっきより冷たく感じた。
神崎が低く言った。
「……斎宮さんの様子、かなり以前からおかしかったって言ってましたね」
「先生の認識とずれる。だが、まだ断定するには早い」
二軒目は、人形修復を請け負う老婦人の店だった。色あせたガラスケースの中に、修復待ちの人形たちが並んでいる。
カウンター越しに顔を上げた老婦人は、スーツ姿の二人を見て目を丸くした。
「まあ、こんなところまで。観光のお客様ってわけではなさそうね」
そう言いながらも、神崎の質問に耳を傾ける。
「冴島さん? ええ、存じていますよ」
「どんな方でしたか」
神崎が柔らかく尋ねる。
「とても真面目な子よ。斎志先生の孫と、まるで兄弟みたいに仲が良くてね」
「環さんですね」
老婦人は頷く。
「二人で川沿いをよく歩いていたわ」
少し間。
「でもね」
「はい」
「あの子の作る人形、前とちょっと変わったのよ」
「ーー変わった?」
それまで黙って聞いていたアイリが、ふいに口を開く。その声は普段よりわずかに低かった。
「どのように? いつ頃から?」と矢継ぎ早に言いかけて、神崎の視線とぶつかった。少しだけ首を横に振られる。
「……どう変わったんです?」
言い直した声は、さっきよりいくぶん柔らかい。
「……うまく言えないけれど、前よりも生気があると言うか……強い気迫を感じると言うか。怖いくらいに」
神崎が息を呑む。
「そのあと、環さんが?」
老婦人はゆっくり首を振る。
「いえ、違う気がするわ。止まったのは、その少し前」
他の客が老婦人に声をかけ、そこで会話が途切れた。
外に出ると、雨音の奥で川の流れが低くうなっていた。
そこから先は、思うように手がかりが見つからなかった。
最後に訪れたのは、若い職人の工房だった。
「斎宮さんですか?」
木槌の音が止まる。
男は顔を上げ、スーツ姿の二人を見て口の端を上げた。
「……何だ、取材か何か?」
神崎が口を開きかけたところで、アイリが半歩前に出た。
「斎志先生の件で、お話を伺っています」
アイリの声は、普段より少しだけ硬い。それでも、真正面から相手を見据えるだけにとどめた。
男はアイリの目つきを見て、冗談半分の笑みを引っ込める。
「確か下流の方に工房があったよ。以前、見学させてもらいに行ったことがある」
「今もそこに?」
さあなと若い職人は苦く笑う。
「腕はあるのに、仕事は受けなくなった」
「いつ頃から」
「……環さんが亡くなるより、少し前だな」
神崎の表情が固まる。
「それ、確かですか」
「ああ。環さんの死は大きかったが、それより前にあいつは——」
男は言葉を切る。
「何か、あったんですか?」
神崎の言葉に、男は首を振る。
「詳しくは知らない。……だが、あれはただの悲嘆じゃなかった」
男は視線を木片から外さないまま、言葉だけを落とした。
外に出る。
雨は細いままだった。
神崎が言う。
「誠士先生は、“環の死後に筆を折った”と思っていたんですよね」
「だが町の時間軸は違うみたいだな」
「止まったのは、その前」
「そして、環の死が“決定打”になった可能性」
川は緩やかに曲がり、町並みがさらに静かになる。
古い町家が並ぶ一角。
看板も表札もない、黒ずんだ引き戸。
アイリが足を止めた。
「……あれか」
神崎は息を整える。
「おそらく」
「ここからは、仮説を持ち込むな」
「分かっています」
神崎は戸の前に立つ。
冷えた木に指先が触れた。
——コン、コン。
雨音の中、扉越しにゆっくりと足音が近づいてくる気配がした。




