第九話 秘められた会話
蓮月堂の裏手に、ひっそりと明かりの漏れる作業場があった。
斎宮は、無言のまま作業場に置かれた人形たちの並びを見つめていた。
(……これは)
ただの人形ではない。
志乃がこれまで作っていたものとも、まるで違う。
——表情の柔らかさ。
——仕上げの緻密さ。
だが、それ以上に……そこには、《何かが閉じ込められているような異様な重み》があった。
視線がある一点で止まる。
次の瞬間、斎宮の手が、かすかに震えた。
(……やっぱり)
彼がもっとも恐れていたこと。
それが、ついに現実になってしまった。
棚の最奥。
そこに置かれていた一体は、まだ顔が描かれていない。
それでも分かった。体格も骨格も、誠士のそれに合わせて作られている。
「志乃さん……あなたはまさか、先生の『器』まで用意しているのか」
「ええ。そうよ」
志乃は、静かにうなずいた。
まるで、斎宮の反応を確かめるように。
斎宮は何も返さなかった。
言葉が、喉の奥でひっかかったまま出てこない。
「私はね、ずっと孤独だったの」
志乃の声は淡々としている。
だが、その言葉の奥には、微かに湿った哀しみが混じっていた。
「誠士は、私を愛してくれた。でも……それ以上に、人形を愛していた」
「環は私を慕ってくれた。でも最後に向けた言葉は、私じゃなくて——あなたの背中だった」
斎宮の眉がわずかに歪む。
「……」
「私が大事にしているものは、いつも最後には誰かに持っていかれるの」
志乃の指先が、そっと一体の人形に触れる。
それは、誠士の面影を宿した人形だった。
まるで彼の魂をこの世に縛り留めるための器のような。
「もう長くはないの、あの人……だから、今のうちに『居場所』を作ってあげたのよ」
斎宮の目がかすかに揺れた。
——かつて、自分も同じことを考えた。
愛する人を失ったとき、その魂をこの手で留めようとした。
(でも、それは……)
「……あなたのしていることは、他の誰かの命を、魂を……犠牲にして成り立っている」
斎宮の声が作業場に静かに響く。
だが、志乃は笑みを崩さず、首をかしげた。
「犠牲? それは、誰の視点で言っているのかしら」
彼女の指が、もう一度人形の頬を撫でた。
その仕草は、まるで生身の人間に触れるような慈しみを帯びていた。
「それでいいの。分かってる。私がしていることは、決して許されることではないって」
「だったら——」
「だったら、何?」
志乃の声がすっと低くなる。
「あなたに、私を止める資格があるの?」
斎宮は、はっと息を呑んだ。
「……!」
「あなたも、かつて同じことをしたじゃない。魂を留めようとした。環が、命を懸けて止めたことを——」
言葉は、斎宮の胸に深く突き刺さる。
喉が、乾いたように鳴る。
それは否定しようのない過去だった。
彼は禁忌に手を伸ばした。
そして、失敗した。
「でも、私は——成功したのよ」
志乃は静かに人形を抱き上げる。
その顔を、まるで我が子を見るようなまなざしで見つめながら言った。
「あなたにはできなかったことが、私にはできたの」
斎宮は拳を握りしめた。
「……違う」
唇の奥で、微かに声が震える。
(違う……それは成功なんかじゃない)
「それは、『無理やり命を閉じ込めた』だけだ……!」
だが、その言葉を飲み込む。
それを口にした瞬間、自分もまた同じ罪で裁かれる。
志乃は、微笑んだまま人形を胸に抱く。
「これでずっと……一緒にいられる」
静かに、淡々と。
けれどその言葉の裏には、圧倒的な確信と執着が張り付いていた。
——この人はもう、戻れない。
斎宮は、はっきりとそれを悟った。
作業場を満たす、息の詰まるような静けさは──同じ夜の別の場所にも、形を変えて落ちていた。
◇
雨脚は変わらず、静かに降り続いていた。
ワイパーが一定のリズムで水滴をぬぐい、街灯の光はにじんだまま、車内をぼんやりと照らしている。
空気は冷たく、重たい水の匂いが肺の奥に残った。
アイリがハンドルを握り、神崎は助手席でスマートフォンを手に、無言のまま画面を睨んでいた。
「……繋がらない」
神崎は、何度目かのため息をついた。斎宮にかけ直しているが、返ってくるのはコール音だけだった。
応答はなく、ただ時間だけが過ぎていく。
「すでに志乃のもとに辿り着いていると見ていい」
アイリが低く言い、ギアを切り替える。
エンジンがうねるように唸り、車は夜の道をさらに速度を上げて滑っていく。
「……なんで、俺たちを待ってくれなかったんでしょう」
神崎の呟きは、半ば自分に問いかけるようだった。
アイリは視線を逸らさず、答えた。
「過去の自分と向き合うつもりなんだろう」
神崎は喉を鳴らしながら、小さく呟いた。
「……志乃さんが、越えちゃいけない線を越えようとしてるってことですか」
「可能性は高い」
アイリはアクセルを踏み込んだ。
タイヤが濡れたアスファルトを蹴り、スピードがさらに上がる。
「そして斎宮は、それを止めるために動いた。……止めるというより、自分の責任だと思い込んでいる」
神崎は唇を噛む。
「環さんの時と同じですね」
「ああ、だが本人は気づいていない」
アイリは短く言い切った。
「だからこそ、危ない。自分を顧みない人間ほど、制御が利かない」
神崎は黙ったまま、窓の外を見た。
雨はほとんど止んでいたが、雲はまだ重たく空に残っている。
「アイリさん、工房まであとどれくらいですか?」
「10分。いや、もう少し縮める」
「斎宮さんはとっくに着いてますよね」
心臓が嫌な予感を伝えてくる。
喉の奥で何かが引っかかるような、不穏なざわめき。
「……急ぎましょう!」
神崎は拳を握りしめた。
アイリはブレーキに足をかけることなく、滑らかに車を夜の通りに走らせていく。
やがて、視界の先に見えてきた——。
「……あった、あれだ」
目的の工房。
雨に濡れた町家の一角、その戸口は暗がりに溶け込んでいる。
「行くぞ!」
アイリがブレーキを強く踏み込み、車がわずかにスリップしながら停止する。
神崎とアイリは、ほぼ同時にドアを開け、濡れた石畳の上に飛び出した。
空気が冷たい。
そして、どこか……異様に静かだった。
「急げ!」
ふたりは無言で頷き合い、闇に包まれた工房へと駆け込む——。
そこには、誰かが先に入った気配だけが残っていた。




