第十話 譲れないもの
闇に包まれた工房の中を、神崎とアイリは奥へ進んでいった。
店のスペースを抜けると、裏手の作業場へ続く戸がひとつだけある。
その前で、二人は立ち止まった。
「……嫌な気配がするな」
アイリが低く呟く。
建物全体が、不自然なほどに静かだった。
まるでこの場所だけが、世界から隔絶されているかのように。
扉を開けた瞬間、神崎たちは空気の異変に気づいた。
重く、湿った空気。
焦げた香のような微かな匂いが、どこからともなく漂っていた。
作業場の中心に立っていたのは、桐生志乃。
人形を抱いたまま、彼女は斎宮と神崎たちを交互に見つめていた。
「……何をしに来たの?」
囁くような声。
しかしその奥には、張り詰めた糸のような緊張が潜んでいた。
アイリが一歩、前に出る。
「あなたは禁忌を犯した。これ以上、放っておくわけにはいかない」
「放っておく……?」
志乃の目が細くなる。
そこに浮かぶのは、静かで冷たい、狂気の影だった。
「これは“私の問題”よ。知り合って間もない赤の他人が口を出すことじゃないわ」
そう言いながら、志乃は抱いていた人形をそっと撫でた。
それは、誠士の面影を宿した人形だった。
まるで彼女の愛情に応えるように、その肌は鈍く光沢を放っている。
「何も知らない外野が、私の大切なものに手を出さないで」
神崎が、静かに口を開く。
「……大切なもの? 先生の居場所が、本当にそこにあると思ってるんですか?」
その言葉に、志乃の指がピクリと震えた。
「……何ですって?」
「先生は、最後まで“人形師”でありたかった」
神崎の声は、真っ直ぐだった。
「人形作りにすべてを捧げ、生涯を人形作家として生きた人です。自身が誰かの作品に魂を縫い留められることなんて、望むはずがない」
「うるさい……」
志乃の指が、ぐっと人形を握りしめる。
「あなたに……何がわかるの……!」
声が、震えていた。
「私は……ただ、愛する人を傍に置いておきたかっただけ。誠士は私を置いて逝こうとしてる。環も、何も言わずに私から離れた。私には……もう誰もいないのよ……!」
「……違う」
その静かな否定が、志乃の心を打った。
彼女が振り返ると、そこには斎宮がいた。
「環は、あなたを置いていったわけじゃない」
志乃の表情が、凍る。
「彼は……あなたのことをちゃんと想っていた。
でも、自分の想いを、うまく伝えられなかっただけなんだ」
「嘘よ……」
震える声で言いながら、否定するように首を振る。
「そんなの、ただの綺麗事よ……!」
「本当だ」
斎宮が、ゆっくりと彼女に近づく。
「環の日記を、読んだんだ」
その言葉に、志乃の顔色が変わる。
「彼は……あなたの優しさに、ちゃんと気づいてた。
でも、才能に囚われた自分が、それに応えられないことを、ずっと悔やんでいた」
「違う……違う……!」
志乃が叫びながら後ずさる。
「環が、あの子がそんなふうに思ってたはずない……!」
「思ってたんだよ」
斎宮の声が、芯を持って響く。
「あなたを悲しませたくなかった。けど、彼の心は追い詰められていた。……最後に、俺に言った。“人形を作り続けてほしい”って」
志乃の呼吸が乱れる。
「俺だって日記を読むまで何も知らなかった。気づいてやれなかったんです」
斎宮の拳が震える。
「俺は、一度、間違えた。愛する人を、この世に縛りつけようとして、禁忌を犯しかけた。……でも、それを止めてくれたのが、環だった」
志乃の顔が、恐怖と混乱に染まる。
「だから……俺は、もう間違えない。間違えたくない」
「そんな……そんなの……!」
彼女は人形を抱きしめる。
「だったら、なぜ誠士は……あの人は、私に何も言わなかったのよ……!」
その声は、悲鳴に近かった。
「“斎志”は……もともと“二人”の名前だったのよ。私と誠士、二人で作る人形に刻んだ名前だった。並んで、筆を入れた時間が……あれが、私にとっての“生”だったのに……!」
彼女の目が、遠い昔に焦点を合わせていた。
「それなのに……いつの間にか『斎志』の名前はあの人だけのものになった。私はただの妻という存在になって……あの人は、勝手にあなたに跡を託した……!」
斎宮を睨みつける。
その瞳には、愛しさと憎しみが同居していた。
「私は……あなたの才能そのものは認めていたのよ。
でも、誠士の血が流れている環より、あなたが先に“斎志の後継”に選ばれたとき……私はもう、あなたを恨むことしかできなかった……!」
その声には、どうしようもない哀しみがにじんでいた。
そして——誰かが、それを受け止めてあげなければならなかった。
「……それは、違うと思います」
神崎の声は、驚くほど優しかった。
志乃が、ゆっくりと彼を見る。
「先生は……本当は、誰にも跡を継がせたくなかったんじゃないですか?」
「……何を……?」
「普通、襲名ってそのまま『斎志』という名前を与えることが多いじゃないですか。でもその名前は先生とあなた、二人のものだった。だからこそ、それを誰か一人の名前として渡すことは……先生にとっては裏切りだったんじゃないかと思うんです」
神崎の言葉が、静かに工房に響いた。
その「二人の名前」という一言が、斎宮の胸の奥を鋭くかき混ぜる。
斎宮は、そっと目を閉じた。
心に浮かぶのは、あの忘れられない日——
師から「斎宮」の名を授かった、あの日の記憶だった。
「……お前にも、そろそろ作家名が必要だな」
誠士がそう言ったのは、工房の片隅だった。
筆を走らせる手は止めぬまま、ふいに告げられたその一言。
「『斎宮』……それが、お前の名だ」
驚いた。
師の作家名「斎志」とは別の名前だったから。
「……なぜ、『斎』の字を?」
誠士は筆先を止めずに言った。
「『斎』には“清める”という意味がある。
この先、お前がどんな道を選ぼうと、自分の魂を清らかに持て。……そのための名だ」
「じゃあ、『志』の字は……?」
問いかけた瞬間、誠士の筆が、わずかに止まった。
そして、いつになく静かな声で、こう呟いた。
「『志』は、志乃のことだ。……私の志乃への、想いだよ」
それは、誠士が滅多に口にしない本音だった。
「『斎志』は、二人で作った名だ。……そのまま継がせられるわけがないだろ」
斎宮は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
『斎志』という名は、ただの称号ではなかった。
それは、彼が志乃と夫婦として生きた証であり、愛そのものだったのだ。
斎宮は、師から与えられた新たな名前に応えるため、がむしゃらに人形を作った。
だが、ある日——禁忌に触れてしまった。
人の魂を人形に宿す——失った者への渇望が、彼の手を汚しかけた。
幾度も試した。
だが、人形はただの器のまま、何も応えなかった。
そんな彼を、環は見ていた。
「……それは——やっちゃいけないことだよ」
小さな声だった。
けれど、どんな言葉よりも強く、鋭く心に突き刺さった。
「せっかく先生から『清める』って名をもらったのに、そんなことしたら……」
環は、言葉を最後まで言わなかった。
でも、彼の目は、すべてを見抜いていた。
あの時、斎宮は悟った。
——『斎宮』という名に、泥を塗るところだった。
それから、斎宮は人形を作る手を止めた。
償いのつもりだった。
しかし、そのすぐ後——環は命を絶った。
遺されたのは、たった一言。
「兄さんには、人形を作り続けてほしい」
なぜ、そんな言葉を遺したのか。
わからなかった。
でもひとつだけ、斎宮には確信があった。
——環は、“終わるな”と言った。
あの言葉は、過去の自分に向けられたものだった。
けれど今なら分かる。志乃にも、同じ言葉を伝えるべきだと。
斎宮は、ゆっくりと目を開けた。
神崎の言葉が、胸に焼きついていた。
「『斎志』の名は、夫婦で生きた証だったんでしょう?」
その通りだ。だからこそ、誰にも継がせなかった。
環にも、自分にも、その名を背負わせなかった。
その名は、永遠に二人のものだったのだ。
神崎は穏やかな声で、言葉を続ける。
「だからこそ、『斎志』とは別の新しい名前を、弟子としてのあなたに与えたんです」
志乃の肩が、微かに揺れた。
「違う……違うわ……!」
口では否定しながらも、その声には力がなかった。
斎宮が口を開く。
「先生は、最後まで人形師として生きたかった。そして、あなたと作った時間を……決して否定なんかしていなかった。『斎志』を名乗り続けたことが、あなたへの愛そのものだったんです」
その言葉に、志乃の指が緩んでいく。
彼女の腕の中の人形が、静かに傾いた。
「……そんなの……そんなの……」
その呟きは、もう声になっていなかった。




