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第十一話 解かれた器

 神崎の言葉が、静かな工房の空気に落ちていた。


 その瞬間、志乃の指先から、ふっと力が抜けていた。

 胸に抱いていた人形が、わずかに傾く。


「……そん、な……」


 かすれた声がこぼれる。

 言葉の続きはなかなか出てこなかった。

 否定したいはずなのに、声は途中で途切れてしまう。


 志乃は人形を抱きしめる腕に力を込めた。

 まるで、離してしまえば本当に失ってしまうとでもいうように。


「そんなはず……ないのよ」

 声を振り絞るようにして、ようやく志乃は言った。

「この子は……ずっとここにいる。私のそばに——」


 そのときだった。

 腕の中の人形が、ふわりと揺れた。


 志乃の視線が落ちる。

 そして、一瞬、息が止まった。


 人形の頬に、小さな亀裂が走っていた。

 まるで乾いた土がひび割れるように。

 そこから砕けた表面が、さらりと崩れ落ちる。


「……え……?」


 志乃の喉から、かすかな声が漏れた。


 崩れた欠片が、指の隙間からこぼれ落ちていく。

 それは、乾いた砂のように静かだった。


「やめて……」


 志乃の手が震えた。

 崩れかけた人形を、必死に抱き寄せる。


 けれど、抱きしめたその力の中で、人形の形はもう保てずにいた。

 志乃の腕から逃れるように、砂だけが零れ落ちていく。


「……行かないで……」


 もう言葉より先に、涙の方が溢れていた。

 床に落ちた砂のような欠片が、微かな風に揺れる。


 そのとき——

 工房の棚に並んでいた人形たちも、次々と崩れ始めた。


  アイリはそちらへ駆け寄りかけて、足を止めた。


 棚の人形たちから立ちのぼる“糸”が、ようやく外へほどけていくのが見える。人形という器に閉じ込められていた生の気配と、それを無理やり縫い留めていた執着の名残だ。


 ここで下手に手を出せば、その糸を再び絡ませてしまう——そんな直感があった。


 環の面影を持つ人形。

 誠士の姿を模した人形。

 どれも、音もなく形を失っていく。


 まるで——ここに留まっていた何かが、いっせいに役目を終えたかのように。


「……だめ……」


 ぽつりと、志乃が呟いた。

 崩れていく人形たちを見つめながら。


 その声は、誰かに向けたものではなかった。


「私は……」


 志乃の肩が震える。


「どこで間違えたの……?」


 答えは返ってこない。

 ただ、床に落ちた砂の残滓(ざんし)だけが、静かにそこにある。


「……志乃さん」


 斎宮が、そっと声をかけた。

 気づけば彼は、志乃の前に膝をついていた。


 手には、環の日記がある。

 差し出そうとするその手を見て、志乃は小さく首を振った。


「私は……ただ……」


 声が、幼いほどに震える。


「もう……これ以上、大事なものを失いたくなかったの……」


 その「大事なもの」の中には、誠士も、環も、斎宮も、過ぎ去った家族の姿も、すべて折り重なっているのだろう。


 その言葉には、長い年月が詰まっていた。


 孫を失った日。

 夫が倒れた日。 


 そのたびに、志乃は何かを抱きしめるようにして生きてきた。


「その気持ちは、痛いほどわかります」


 神崎が、静かに言った。


「でも……環さんは、きっと望んでいませんでした」


 志乃が、ゆっくりと顔を上げる。


「あなたが、ここに縛られてしまうことを」


 神崎は穏やかな声で続けた。


「大切な人だからこそ……きちんと見送らなければならないこともあるんです」


 その言葉が落ちたとき。

 工房を、やさしい風が通り抜けた。


 残っていた最後の人形が、見えない呪縛から解かれるように崩れ落ちる。

 斎宮は、そっと目を閉じた。


 そのとき。

 かすかな声が、耳の奥に触れた気がした。


 ——ありがとう。


 それが誰の声だったのかは、わからない。


 けれど。

 ここに留まっていた何かが、今、確かに解放された。

 斎宮はそう、感じていた。


 神崎は、白い粉を被った加賀友禅の袖に目を落とし、ぽつりと呟いた。


「……誠士さんの頼みも、これで一つは果たせたんでしょうね」


 アイリが静かに頷く。


「人形のためじゃない。これ以上ここに過去を縫い留めないための依頼だった」


「ああ……」


 志乃が、呆然と床を見つめていた。

 そこには、もう人形の姿はない。


 ただ、淡い砂のような残り香だけが残っている。


 志乃はゆっくりと手を下ろした。

 そして、かすれる声で呟いた。


「私は……何をしていたの……」


 その声には、深い後悔と、そしてどこか安堵のような響きも混じっていた。


 ――次の瞬間。

 志乃の体が、ふっと前に倒れる。


 アイリがすぐさま身を乗り出し、その肩を支えた。

 床に打ち付けるのだけは避けるように、そっと体を受け止める。


 志乃はその手を払うことなく、そのまま静かに泣き伏していた。

 もう、何も抱え込まずに。


 しばらく、誰も動かなかった。

 工房には、すすり泣きと雨音だけが満ちていた。


 やがて、アイリが静かに立ち上がった。


「神崎、お前はここに残れ。私は車から毛布を取ってくる」


 短くそう告げてから、戸口の方へ歩き出す。

 

 現実に戻るための作業は、これからいくらでもやってくる。

 それでも今だけは、この場に残された者たちが、自身の想いと向き合う時間だった。

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