エピローグ 雨上がりの狭間で
金沢の夜は、ひときわ静かだった。
雨上がりの空気が湿り気を帯び、石畳には街灯の光が淡く滲んでいる。
その静けさが、今夜だけは少し優しく思えた。
神崎とアイリは、並んで犀川沿いを歩いていた。
ここ数日、雨の日に倒れていた人々の経過確認や、冥府庁への報告のために——二人は、事件が終わってからもこの町にしばらく留まっていた。
病院での聞き取りを終え、宿へ戻る途中で、いつもより遠回りして川沿いを選んだのだ。
「……静かですね」
神崎がぽつりと呟く。
「当然だ。もう、誰かの命が縫い留められることはない」
アイリは普段と変わらぬ口調で答える。
「志乃さん……今、どうしてるんでしょうね」
「蓮月堂だ。離れの部屋で、誠士のそばから離れようとしないらしい」
アイリは短く言う。
「禁忌の本も処分した。残りの人生をどう生きるかは、彼女の選択次第だ」
神崎はふっと夜空を仰ぐ。
店の離れで、誠士の枕元に座り込んだまま、湯飲みに触れることも忘れている——そんな姿が目に浮かぶようだった。
志乃の犯したことは、法では裁かれない。
だからこそ——彼女自身がそれと向き合うしかない。
もしかするとどんな刑よりも重い罰なのかもしれなかった。
「……斎宮さんは?」
問いかける神崎に、アイリは少しだけ間を置いてから答える。
「日中は工房を片付けているそうだ。蓮月堂の人形も、もう“増える”ことはない」
小さく息を吐き、続ける。
「夜は蓮月堂の離れを訪ねて、誠士と志乃の様子を見ているらしい。遺されたものとも、これから失うものとも——ようやく向き合い始めたんだろう」
「じゃあ……また、人形を?」
「それはわからない。でも、彼は過去と決着をつけて、その先にある未来へ踏み出している」
神崎は小さく息を吐いた。
過去に囚われていた人が、前を向こうとする姿を、確かにこの目で見た。
「……俺たちって、何かの終わりに立ち会うことが多いですよね」
口にしてから、神崎は自分でその言葉の重さを噛みしめる。
誰かの人生の節目や、別れの場の一歩手前。
届かなかった想いの行き先や、行き場をなくした未練の終着点。
神崎自身は——あの日、誰にも別れを告げられなかった。
現世の誰の記憶にも残らないまま、気づけばまったく別の場所に立っていた。
“あの日”の輪郭だけは、今もなお、靄の向こうにぼやけたままだ。
だからこそ、胸の奥が、うまく名前のつけられない感情でざわついた。
「……終わりに立ち会うってことは、その人が何を大事にしてきたかを見るってことでもある気がして」
神崎は、川面に目を落としたまま続けた。
「その終着点から、もう一度歩き出そうとする人もいる。志乃さんも、斎宮さんも」
アイリは一瞬だけ黙り込む。
夜の川面に揺れる光が、彼女の横顔を照らしていた。
「お前は、そう思うのか?」
神崎は少し間を置き、ゆっくりと頷いた。
「誰かが前を向こうとするのを、見ているのは悪くないなって」
過去は変えられないし、自分に何ができるかもまだ分からない。
それでも、誰かが迷いの中から抜け出す瞬間——長い旅路の“終わり”から、もう一度歩き出そうとする瞬間に立ち会えるなら。
それは、きっと自分にとっても意味のある仕事だ。
「感傷に浸るのはそこまでにしろ。次の仕事が待ってる」
アイリが言って、ひと足先に歩き出す。
「はいはい、お疲れさまです、先輩」
「誰が先輩だ」
神崎は肩をすくめ、少しだけ口元を緩めた。
「……結局、金箔ソフトは食べ損ねましたし。冥府庁って全然ホワイトじゃないですよね」
「報告書を書き終えるまでが仕事だ。文句は、それを出してからにしろ」
「ええ……じゃあせめて、その報告書を書き終えたら、金箔ソフトと、課長へのお土産に最中くらいは買わせてくださいね」
「報告書の内容次第だな」
「うわ、厳し」
そんな軽口を交わしながら、二人は夜の金沢を歩いていく。
ふと、神崎が立ち止まった。
「……見てください、アイリさん」
彼の視線の先、犀川の上空に、うっすらと光の帯が浮かんでいた。
雨上がりの水蒸気に街灯の明かりが滲んで、川をまたぐ虹の橋のように見える。
犀川の流れは、あの数日間の騒ぎが嘘のように穏やかだった。
雨に濁っていた水面も、今は街灯の光を細く揺らしながら、静かに街の中を抜けていく。
明日になればまた、この川沿いを散歩する人や、ベンチで一息つく誰かの、いつもの憩いの場所に戻るのだろう。
途切れることのない水音を聞きながら、神崎は歩みを進める。
——だが、すべてが終わったわけではない。
この世界のどこかで、また誰かが迷い、立ち止まり、何かを失う日が来るだろう。
そのとき、彼らはまた“狭間”を歩き出す。
迷いと未練が交差する、その境目を。
冥府庁の仕事は、まだ終わらない。




