第一話 名匠の依頼
金沢の雨は、なおも静かに降り続いていた。
濡れた石畳を照らす灯籠の光が、ぼんやりと滲んで揺れている。通りに足音を響かせながら、神崎イサナと黒野アイリは蓮月堂の暖簾をくぐった。
店の中には、古い木の香りが漂っていた。
そこにほのかに混じるのは、焚かれたばかりの線香の匂い。
棚に並ぶ人形たちが、ガラスの瞳でこちらを見つめている。
蝋燭の火が揺れるたび、光がその瞳に反射して、ひそやかに瞬いた。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声に振り返ると、薄紫の着物を上品に着こなした老婦人が立っていた。
桐生志乃。蓮月堂の店主であり、人形作家・桐生誠士の妻だ。
その微笑は穏やかだったが、黒いスーツ姿の二人組を見て、ほんの一瞬だけその表情がわずかに揺れた。
「すみません。先ほどお電話させていただいた冥府庁の者です。黒野と申します。こちらは神崎です」
アイリの丁寧な挨拶に、志乃はほっとしたように微笑みを深めた。
「ああ、あなた方が……。主人からお話は伺っております。どうぞ、こちらへ」
店の奥へと案内される。
柔らかな灯りの中、畳の匂いが湿った空気と混ざり合っていた。
襖を開けると、布団の上に横たわる男がいた。
——桐生誠士。
創作人形の名匠として知られ、〈斎志〉の名で世にその名を馳せた人物だった。
だが、今の彼の姿は、かつての威厳を想像させないほどやつれていた。
頬は痩け、骨ばった指がわずかに動いている。
「……来てくれたか。このような姿で申し訳ない」
掠れた声が部屋の静けさを切り裂いた。
神崎が慌てて一歩踏み出し、声をかける。
「どうぞ、そのままで。無理なさらないでください」
「……そうか。ありがとう」
誠士は小さく息をつき、再び布団に身を沈める。
神崎とアイリは座布団に腰を下ろし、静かに彼の言葉を待った。
やがて、誠士は目を閉じたまま口を開いた。
「……この蓮月堂で、妙なことが起きている」
「妙なこと、とは?」
神崎の問いに、誠士はゆっくりと頷く。
「……誰も作った覚えのない人形が、少しずつ、店内に増えている」
その一言に、神崎とアイリは目を見合わせた。
「最初は、店員の勘違いかと思った。だが……気づくたびに、一体、また一体と、確実に増えているらしい」
「そして、それが始まった時期と……」
「この町で、雨の日に人が倒れる異変が始まった時期が、重なる」
アイリが低く呟く。
誠士の指が、布団の上でわずかに震えた。
「……私はもう長くない。このまま、見て見ぬふりはできん」
燭台の灯りが、彼の骨ばった指を淡く照らしている。
その手は、長年人形を作り続けてきた職人のものだった。繊細で、しかし、決して折れなかった手。
神崎は、その姿に自然と背筋を正した。
「……異変の原因、突き止めてみせます」
その言葉に、誠士は静かに笑った。
「……ありがとう。もう一つ、頼みがある」
「はい」
「私の弟子だった、斎宮という男を……探してほしい」
静かな依頼に、アイリと神崎は同時に顔を上げた。
アイリが確認するように言う。
「……冴島光瑠。作家名は“斎宮”」
誠士の表情に、かすかな陰が落ちる。
「名前を与えたのは私だ。だが――彼は、もう私の弟子ではない」
声ににじむのは、深い後悔と悲しみ。
神崎が問いかけようとしたそのとき、誠士はそっと目を伏せ、語り出した。
「あいつは……もう筆を折った。いや、世間との関わりそのものを断ったのだ」
その場に、一瞬、火が消えたような沈黙が訪れる。
「環が亡くなったあと、あいつは姿を消した」
「環……?」
神崎の問いに、誠士は一瞬だけためらい、そして静かに口を開いた。
「桐生環。私の孫であり、光瑠と兄弟のように育った弟子だ」
彼の手が、膝の上でそっと握られる。
かすかに震えていた。
「環は、自ら命を絶った。そして……光瑠は、未だにその死をずっと背負って生きているのかもしれん」
その言葉に込められた重みが、じわじわと空気を満たしていく。
「私は……死ぬ前に、もう一度だけ、あいつの姿をこの目で見たいのだ」
神崎はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「分かりました。必ず」
——そのとき。
「あなた……お話しすぎではありませんか?」
奥座敷に、女の声が響いた。
障子の向こうから、滑るように現れたのは——志乃だった。
手には茶器を載せた盆を持ち、静かに部屋へと入ってくる。
「お茶が入りました」
柔らかな笑み。しかし、神崎はその言葉に微かな違和感を覚えた。
“話しすぎ”とは、誰にとって?
体を気遣っての言葉か、それとも——
知られてはならない何かを、誠士が語ろうとしていたのか?
部屋に漂う焙じ茶の香りとは裏腹に、その場の空気には、ぴんと張った緊張感が流れていた。




