プロローグ 金沢の雨
金沢の雨は、町をそっと包み込むように降っていた。
霧のように細かい雨粒が、ひがし茶屋街の石畳を静かに濡らし、古びた町家の軒先からぽとりと滴る。白く煙る街並みに、時が止まったような錯覚を覚える。
まるでこの風景だけが、江戸の頃から変わらずそこに在り続けてきたかのように。
湿った空気が肌にまとわりつき、どこか優しい寂しさが辺りを漂っている。
神崎イサナは、ジャケットの襟を軽く引き上げた。金色の髪先が雨に濡れて頬に張りつく。ぼんやりとした蒼い瞳は、霧にかすむ兼六園の庭園を映していた。
石灯籠の間をすり抜ける風が、水面に小さな波紋を走らせる。鏡のように静まり返った池に、無数の雨粒が落ちては、幾重にも円を描いていく。
「……金沢の雨って、風情がありますね」
ぽつりと漏れた声は、雨音に溶けて空気の中に消えた。
「……お前は、さっきから呑気に観光気分か?」
隣から飛んできたのは、低く冷ややかな声だった。
神崎の相棒、黒野アイリ。彼女の長い黒髪は雨に濡れても乱れることなく、まっすぐ背中に落ちている。寄せられた眉に、どこか呆れた色が浮かんでいた。
ここ最近、雨の日に突如意識を失って倒れる人間が、市内で続出していた。
蒼黒く染まった石畳の先に、ぼんやりと提灯の灯りが浮かぶ。雨に滲んだ光が、濡れた道を淡く照らしていた。
二人は、あの世とこの世の狭間に存在する組織——冥府庁の調査員だ。
「いや、でも雨ってほら、心がしっとりするというか……」
「……仕事しに来たんだ。風情に浸ってる場合か」
そっけない返しに神崎は肩をすくめ、少しだけ口元を緩めた。
「ちょっとくらい余裕持ってもいいじゃないですか。金沢に来るの、初めてなんですよ、俺」
「その気の緩みが原因で倒れたら笑えないけどな」
アイリの視線が横に流れる。その目に浮かんだのは、わずかな緊張と警戒。
二人は、静まり返ったひがし茶屋街をゆっくりと進んでいった。観光客でにぎわうはずの通りには、今はほとんど人影がない。湿った風が、町家の格子戸をかすかに揺らす。
神崎はふと立ち止まり、店先の屋根からぽつぽつと落ちる雨粒を見上げた。
軒先を過ぎていく観光客の手には、金箔ソフトが握られている。
そのすぐあと、すれ違いざまに聞こえた小さな会話に、神崎はそっと耳を傾けた。
「……ねえ。例の店、また人形が増えてたんだって……?」
「うん。私も見たけど、あんな感じの子いなかったよ」
声の主が角を曲がって遠ざかると、神崎はふとそちらを振り返る。
「……あの、アイリさん。あそこの金箔ソフト、食べていいですか?」
唐突にそう言った神崎に、アイリは無言で彼を見た。
その瞳に、一瞬だけ「またそれか」という諦めの色が浮かんだのは、たぶん気のせいじゃない。
「それはともかく。今の人たちの会話……人形が“増えてた”って。なんか言い方が妙でしたよね」
神崎が指差す先には、小さな骨董店の軒先。曇ったガラスの向こうに、古びた人形が静かに並んでいる。
「昨日はなかった顔がある、とか、微妙に並びが違うって……。ああいう骨董店なら入れ替えも多いだろうし、案外よくある話っぽいですけど」
「そこまで聞いてたのか、お前」
「ええ、わりと耳はいい方で」
神崎は肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「食べたいのは本当ですけど、さっきの会話が気になったのも事実なんです。金箔ソフトは情報源に近づくための布石ということで」
「先に仕事を終わらせろ」
「はい、すみません」
しぶしぶ歩き出す神崎の目に、また別の観光客が手にした金箔ソフトがちらりと映る。誘惑に後ろ髪を引かれながら、足を進めた。
今回の依頼内容は——
「夜ごと店の人形が増えている」という奇妙な現象についての相談。
そして、同時期に起きている、雨の日の原因不明の意識不明者続出という噂の調査。
二つの出来事が偶然なのか、それとも何か因果があるのか。
それを見極めるのが、彼らの仕事だ。
雨の匂いが濃くなる。遠くで、鐘の音が微かに鳴った。
そして、二人はたどり着く。
依頼人の家族が営む老舗の人形店——「蓮月堂」へ。
雨に濡れた、古びた木の看板が風に揺れる。
重厚な漆塗りの扉の向こう。
その奥に、誰かがこちらを見ているような——そんな錯覚を、神崎は拭いきれなかった。




