第三章 同じ屋根の下 後編
午後七時四十分。
依央は鍋の火を弱めた。
時計を見る。
朔から届いたメッセージでは、今日は少し遅くなると言っていた。
だから、急ぐ必要はない。
それでも夕飯を作り終えてしまうと、依央は何となく落ち着かなかった。
「……まだかな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
テレビをつける。
ニュースを見る。
スマートフォンを見る。
またテレビを見る。
時間だけが過ぎていく。
午後八時。
玄関の鍵が回る音がした。
依央は思わず顔を上げた。
「ただいま……」
「おかえりなさい」
朔が玄関から顔を出す。
「あれ?」
「どうしました?」
「起きてたんですね」
「起きてますよ」
「もう寝てるかと思いました」
「まだ八時ですよ」
「私には結構遅い時間なんです」
朔が疲れたように笑った。
鞄を置く。
「今日、忙しかったんですか?」
「ちょっとだけ」
「お疲れさまです」
「ありがとうございます」
朔がキッチンを見る。
「……もしかして、夕飯」
「作りました」
「待っててくれたんですか?」
依央は一瞬、答えに詰まった。
「……一人分作るのが面倒だったので」
「それ、私が帰ってくるの待ってたってことじゃないですか」
「違います」
「絶対そうですよ」
「違いますって」
朔が笑う。
依央もつられて笑った。
「じゃあ、食べましょう」
「はい」
*
二人でテーブルにつく。
「いただきます」
「いただきます」
朔が一口食べる。
「美味しい」
「よかったです」
「今日、何があったんですか?」
「特に何も」
「じゃあ、なんでこんなに美味しいんですか?」
「普通に作っただけです」
「白瀬さんの普通、すごいなあ」
「褒めすぎです」
「本当にそう思ってますよ」
朔は箸を止めない。
依央はその様子を見ながら、少し嬉しくなる。
「……明日は私が作ります」
「え?」
「いつも作ってもらってるので」
「料理できるんですか?」
「簡単なものなら」
「じゃあ期待してます」
「期待しすぎないでください」
二人は笑いながら食事を続けた。
*
食後。
依央が食器を洗っていると、朔が隣に立った。
「私もやります」
「いいですよ」
「二人でやったほうが早いです」
朔が皿を受け取る。
水を流す。
依央が洗う。
朔が拭く。
自然と役割が決まっていく。
「こういうの、いいですね」
朔が言った。
「何がですか?」
「誰かと一緒に暮らしてる感じ」
依央は手を止めた。
「……そうですね」
「一人暮らしのときって、食器洗うのも全部一人じゃないですか」
「はい」
「こうやって二人でやると、ちょっと楽しい」
「分かります」
依央も笑った。
食器を片付け終える。
「じゃあ、お風呂先どうぞ」
「いいんですか?」
「今日は遅かったので」
「ありがとうございます」
朔が浴室へ向かう。
少しして、シャワーの音が聞こえてくる。
依央はリビングのソファに座った。
テレビを見る。
けれど、内容が頭に入ってこない。
何となく、浴室から聞こえる生活音に耳を傾ける。
不思議だった。
まだ同居して二週間も経っていない。
それなのに。
朔の存在が、この家の中に自然に馴染んでいる。
*
夜十一時。
朔がリビングに戻ってきた。
髪を乾かし終えたばかりらしく、まだ少し湿っている。
「白瀬さん、ドライヤー借りていいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
朔が自分の部屋へ戻る。
しばらくして、ドライヤーの音。
依央は本を読んでいた。
やがて音が止まる。
「おやすみなさい」
廊下から声がした。
「おやすみなさい」
依央も返す。
足音が遠ざかる。
ドアが閉まる。
静かになる。
依央は本を閉じた。
時計を見る。
午後十一時二十分。
もう寝よう。
そう思って立ち上がる。
そのとき。
隣の部屋から、小さな物音がした。
何かを落としたような音。
「大丈夫かな」
依央は一瞬迷った。
けれど、そのまま自分の部屋へ戻った。
*
翌朝。
「おはようございます」
「……おはようございます」
朔が少し眠そうな顔でリビングへ入ってきた。
「昨日、何か落としました?」
「え?」
「夜、音がしたので」
「ああ」
朔が笑う。
「本を落としただけです」
「そうでしたか」
「心配してくれたんですか?」
「一応」
「ありがとうございます」
朔が椅子に座る。
「でも、白瀬さんって優しいですよね」
「そんなことないです」
「ありますよ」
「……そうですか?」
「はい」
朔はコーヒーを飲む。
「私、ここに引っ越してきてよかったかも」
「どうして?」
「隣に白瀬さんがいたから」
依央は一瞬、何も言えなかった。
朔は特に深い意味もなく言ったようだった。
けれど、その言葉は妙に心に残った。
「……私も」
依央は小さく答えた。
「久住さんが隣でよかったです」
「本当?」
「はい」
朔が嬉しそうに笑う。
*
その日の午後。
依央は買い物から戻ってきた。
玄関を開ける。
「ただいま……」
言ってから、依央は少し驚いた。
自分しかいないのに。
なぜ「ただいま」と言ったのだろう。
以前なら、そんなことはしなかった。
誰もいない部屋に帰るだけだったから。
今は違う。
この家には、もう一人いる。
帰ってくれば「おかえり」と言ってくれる人がいる。
依央は買い物袋をキッチンに置いた。
そして時計を見る。
午後三時。
いつもの時間。
少しだけ休もうと思って、ソファに座る。
そのまま目を閉じる。
静かな午後。
でも、完全な静寂ではない。
冷蔵庫の音。
時計の針。
外を走る車。
そして――。
隣の部屋から聞こえる、かすかな生活音。
依央は目を閉じたまま、少しだけ笑った。
この音があることに、もう慣れてしまった。
むしろ。
なくなると、少し寂しいかもしれない。
そんなことを考えているうちに、依央は眠りについた。
*
夕方。
「ただいまー」
玄関から朔の声。
「おかえりなさい」
依央は自然に返した。
朔がリビングへ入ってくる。
「寝てました?」
「少し」
「珍しいですね」
「最近、よく眠くなるんです」
「仕事してないと、時間の感覚なくなりますよね」
「そうなんです」
朔が冷蔵庫を開ける。
「今日、夕飯どうします?」
「何か食べたいものあります?」
「うーん……」
朔が考える。
「今日は一緒に作りません?」
「いいですね」
「じゃあ、何作ろう」
二人で冷蔵庫を覗き込む。
肩が少し触れた。
依央は何も思わなかった。
朔も何も言わない。
ただ二人で夕飯を考える。
それだけ。
まだ二人の間に、特別な感情はない。
ただ――。
出会って間もない隣人だった二人は、少しずつ互いの生活の中へ入り始めていた。
朝の挨拶。
夕食。
「おかえり」と「ただいま」。
そして、午後三時の静かな時間。
そんな小さな積み重ねが、二人にとって当たり前になっていく。
いつか。
この「当たり前」が、かけがえのないものになることも知らずに。




