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第三章 同じ屋根の下 中編


 同居生活が始まって、一週間が経った。


 依央は、少しずつこの家での生活に慣れ始めていた。


 朝は七時頃に起きる。


 顔を洗い、着替える。


 リビングへ行くと、朔がすでに起きている日もあれば、まだ寝ている日もある。


 仕事の日の朔は、朝が少し苦手らしい。


 だから依央は、朝食を作るときも音を立てないようにしていた。


 そして、そんなある朝。


「……おはようございます」


「おはようございます……」


 朔が眠そうな顔でリビングへ入ってきた。


 髪が少し跳ねている。


「寝癖、すごいですよ」


「え?」


 朔が慌てて髪を触る。


「本当だ……」


「鏡、洗面所です」


「分かってます」


 朔は笑いながら洗面所へ向かった。


 しばらくして戻ってくる。


「直りました?」


「たぶん」


「たぶん?」


「見えないので」


 依央は少し笑った。


「大丈夫です」


「ならよかった」


 朔は椅子に座る。


「コーヒーあります?」


「あります」


 依央がマグカップを渡す。


「ありがとうございます」


「砂糖は?」


「一つ」


 依央は砂糖を入れる。


 ふと、手が止まった。


「……昨日は二つでしたよね?」


「覚えてたんですか?」


「なんとなく」


「すごい」


 朔が嬉しそうに笑う。


「じゃあ今日は一つで」


「はい」


 そんな小さなやり取りが、いつの間にか二人の日常になっていた。


     *


 依央は、同居する前よりも料理をするようになった。


 もともと料理が嫌いなわけではなかった。


 ただ、一人分だけ作るのが面倒だった。


 食材を買っても余る。


 作りすぎても食べきれない。


 だから一人暮らしでは、簡単なものばかりだった。


 しかし今は違う。


 二人分なら、作る意味がある。


「今日、何食べたいですか?」


 仕事から帰ってきた朔に聞く。


「え?」


「夕飯です」


「作ってくれるんですか?」


「一応」


 朔は少し考える。


「じゃあ、カレー」


「昨日もカレーでしたよ」


「……じゃあ、肉じゃが」


「急に和食ですね」


「食べたい気分なので」


「分かりました」


 依央は冷蔵庫を開ける。


 ジャガイモがある。


 人参もある。


 玉ねぎもある。


 肉も残っている。


「作れます」


「やった」


 朔が嬉しそうに笑う。


「じゃあ、私も何か手伝います」


「じゃあ、玉ねぎ切ってください」


「任せてください」


「……大丈夫ですか?」


「大丈夫ですよ」


 十分後。


「目が痛い……」


「だから言ったじゃないですか」


「玉ねぎ、強すぎません?」


「切り方が悪いんです」


「料理得意な人は厳しいなあ」


 朔が涙目で笑う。


 依央も笑った。


 以前は一人で黙々と作っていた夕食。


 今は、誰かと話しながら作っている。


 その違いは、思っていたより大きかった。


     *


 夕食。


 二人でテーブルを囲む。


「いただきます」


「いただきます」


 朔が肉じゃがを一口食べる。


「……美味しい」


「よかったです」


「これ、毎日食べたい」


「毎日は作りませんよ」


「じゃあ、週三回」


「多いです」


「週二回」


「それなら」


「やった」


 朔は嬉しそうにご飯を食べる。


 依央はその様子を見ながら、ふと思った。


 この人は、食べるとき本当に嬉しそうだ。


 料理を作った側としては、悪い気はしない。


「……どうしました?」


「いえ」


「なんか見られてる気がしました」


「気のせいです」


「そうですか?」


「はい」


 朔は首を傾げた。


     *


 夜。


 依央は自分の部屋で本を読んでいた。


 静かだった。


 でも、完全な静寂ではない。


 廊下の向こうから、朔がドライヤーを使う音が聞こえる。


 少しして止まる。


 続いて、水道の音。


 そして、ドアが閉まる音。


 生活音。


 以前なら気にも留めなかった音。


 今は自然と耳に入ってくる。


 依央は本を閉じた。


 時計を見る。


 午後十一時。


 そろそろ寝ようと思ったところで、ドアをノックする音がした。


「白瀬さん、起きてます?」


「はい」


 ドアを少し開ける。


 朔が立っている。


「どうしました?」


「これ」


 朔が小さな袋を差し出した。


「何ですか?」


「今日、仕事帰りに買いました」


 中には小さな焼き菓子が入っていた。


「この前、夕飯作ってもらったので」


「別にいいのに」


「私があげたいんです」


 依央は袋を受け取る。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


 朔は笑う。


「じゃあ、おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 ドアが閉まる。


 依央は袋を見つめた。


 たった数個の焼き菓子。


 それなのに、なぜか嬉しかった。


     *


 翌日。


 依央が朝食を作っていると、朔がリビングへやってきた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「昨日の焼き菓子、食べました?」


「まだです」


「美味しいですよ」


「久住さんが食べたんですよね?」


「味見しました」


「全部?」


「一個だけ」


「それならいいです」


 二人で笑う。


 朝食を食べる。


 食器を片付ける。


 朔が出勤する。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 ドアが閉まる。


 家の中が静かになる。


 依央は一人になった。


 でも、以前の一人とは少し違う。


 静かな家の中に、誰かが戻ってくる予定がある。


 そのことが、思った以上に安心できた。


     *


 午後三時。


 依央はリビングのソファに座っていた。


 仕事を辞めてから、よくこの時間にここにいる。


 本を読む。


 音楽を聴く。


 何もせず窓の外を見る。


 そんな時間。


 以前なら、この時間を持て余していた。


 けれど最近は違う。


 午後三時を過ぎると、


「今日は何時頃帰ってくるかな」


 と考えるようになった。


 時計を見る。


 まだ帰ってくるには早い。


 依央は苦笑した。


「……何を気にしてるんだろ」


 自分でも少しおかしいと思う。


 ただの同居人。


 それだけだ。


 そう思って、本を開く。


 ページをめくる。


 しばらくすると、スマートフォンが震えた。


 朔からだった。


『今日、少し遅くなります』


 依央はすぐに返信する。


『分かりました』


 少し考えてから、もう一度入力した。


『夕飯、待ってます』


 送信。


 数秒後。


『ありがとう』


 その短い返信を見て、依央は小さく笑った。


 それから時計を見る。


 午後三時二十分。


 帰ってくるまで、まだ時間がある。


 依央は本を閉じた。


 そして、何となく冷蔵庫を開ける。


「……何作ろうかな」


 自分でも気づかないうちに。


 その人が帰ってくることを前提に、今日の夕飯を考えていた。


 それが「同居生活」というものなのだと。


 依央は、少しずつ理解し始めていた。


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