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第三章 同じ屋根の下 前編


 朝。


 白瀬依央は、見慣れない天井を見つめていた。


「……あ」


 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


 いつもの部屋ではない。


 見慣れた本棚もない。


 窓際に置いていた観葉植物もない。


 代わりに、壁には小さな時計が掛かっている。


 昨日、久住朔の家へ荷物を運び込んだ。


 そして――。


 今日からここで暮らす。


「……そうだった」


 依央はゆっくり身体を起こした。


 ベッドではなく、昨日用意してもらった布団。


 まだ少し慣れない。


 時計を見る。


 午前七時。


 会社へ行く必要はない。


 それでも、長年の習慣なのか自然と目が覚めた。


 依央は布団を畳む。


 荷物はまだ片付いていない。


 段ボールが壁際に並んでいる。


「今日、片付けないと」


 小さく呟く。


 部屋を出る。


 廊下を歩く。


 リビングへ向かうと――。


「おはようございます」


「……おはようございます」


 朔がいた。


 パジャマ姿で、眠そうな顔をしている。


 テーブルには二人分のマグカップ。


「起きるの早いですね」


「久住さんこそ」


「私はたまたまです」


「そうなんですか?」


「いつもはもう少し寝てます」


 朔は欠伸をした。


「昨日、引っ越しで疲れたからかな」


「すみません」


「なんで白瀬さんが謝るんですか」


「荷物、結構運んでもらったので」


「それくらい大丈夫です」


 朔はマグカップを一つ差し出した。


「コーヒー、飲みます?」


「ありがとうございます」


 依央は受け取った。


 温かい。


 それだけなのに、少し安心した。


     *


「じゃあ、改めて決めましょうか」


 朝食を食べ終わったあと。


 朔がテーブルの上にノートを広げた。


「生活ルール」


「ああ」


「昨日は荷物を運ぶので精一杯でしたから」


 朔がペンを持つ。


「まず、食費」


「折半でいいですよ」


「じゃあ折半」


 ノートに書く。


「次、光熱費」


「これも折半」


「了解」


「掃除は?」


「気づいたほうがやる」


「それだと偏りません?」


「じゃあ、週末に一緒にやる?」


「それがいいですね」


 また書く。


「洗濯」


「別々にしましょう」


「はい」


「お風呂は……」


 朔が少し考える。


「早いほうから入る?」


「いいと思います」


「冷蔵庫のものは?」


「名前を書いたほうがいいですか?」


「そこまでしなくても大丈夫ですよ」


「じゃあ、共有で」


「了解」


 そして最後。


 朔がペンを止めた。


「これは大事」


「何ですか?」


「相手の部屋には勝手に入らない」


「当然ですね」


「ですよね」


 二人とも頷く。


 朔は最後に、


「困ったことがあったらちゃんと言う」


 と書いた。


「……これは?」


 依央が尋ねる。


「大事じゃないですか?」


「そうですね」


 依央は頷いた。


 その一文だけは、他のルールより少しだけ大きく見えた。


     *


 午前十時。


 依央は自分の荷物を片付け始めた。


 服をクローゼットへ。


 本を棚へ。


 パソコンを机へ。


 生活用品を収納する。


 部屋は思ったより広い。


 そして、窓から見える景色も悪くない。


 段ボールを一つ開ける。


 その中から、昔買った小さな写真立てが出てきた。


 依央はそれを手に取った。


「……懐かしい」


 しばらく眺めてから、机の上に置く。


 すると、


「入っていい?」


 ドアの外から朔の声。


「はい」


 ドアが少し開く。


「お昼、どうします?」


「まだ決めてないです」


「何か食べたいものあります?」


「特に……」


「白瀬さんって、本当に何でもいいって言うタイプですよね」


「そうですか?」


「そうですよ」


 朔が笑う。


「じゃあ、近くの店に行きません?」


「いいですね」


「決まり」


 朔はドアを閉める。


 依央はその後ろ姿を見送った。


 以前なら、一人で適当に済ませていた昼食。


 今日は誰かと食べるらしい。


 それだけのことなのに、少しだけ新鮮だった。


     *


 昼。


 二人は近所の定食屋へ向かった。


 歩いて五分ほど。


「ここ、結構おいしいですよ」


「よく来るんですか?」


「たまに」


 店に入り、向かい合わせに座る。


 メニューを見る。


「白瀬さん、何食べます?」


「……生姜焼き」


「じゃあ、私も」


「真似しました?」


「おすすめを共有しただけです」


「なるほど」


 注文を済ませる。


 料理を待つ間、朔が話しかける。


「そういえば、白瀬さんって普段何してるんですか?」


「今は仕事を探してます」


「あ、そうでしたね」


「はい」


「どんな仕事がいいとか、決まってます?」


「まだ……」


 依央は少し考える。


「前の仕事と同じような仕事を探すつもりです」


「好きだったんですか?」


「……嫌いではなかったです」


「なるほど」


 朔はそれ以上聞かなかった。


 依央は少しほっとした。


 自分でもまだ整理できていないことを、誰かに説明するのは難しい。


 料理が運ばれてくる。


「いただきます」


「いただきます」


 二人で食べる。


「……美味しい」


「ですよね」


 朔が嬉しそうに笑う。


「ここ、覚えておいてください」


「はい」


「一人で食べるのもいいですけど、二人だともっと美味しいですよ」


「……そうですね」


 依央も笑った。


     *


 帰宅すると、午後二時を過ぎていた。


 依央は自分の部屋で荷物の続きを片付ける。


 少しすると、眠くなってきた。


 時計を見る。


 午後三時。


「……眠い」


 ベッドに座る。


 そのまま少しだけ目を閉じた。


 どれくらい眠っただろう。


 ドアをノックする音で目を覚ました。


「白瀬さん?」


「……はい」


「寝てました?」


「少しだけ」


「起こしちゃいました?」


「大丈夫です」


「じゃあ、コーヒー置いときますね」


「ありがとうございます」


 足音が遠ざかる。


 依央はしばらく動かなかった。


 ドアの向こうから、誰かが歩く音が聞こえる。


 生活の音。


 それが不思議と嫌ではなかった。


 むしろ――。


 少し安心する。


 依央はゆっくり立ち上がった。


 ドアを開ける。


 廊下には誰もいない。


 リビングへ行く。


 テーブルの上には、マグカップが一つ。


 まだ温かい。


「……久住さん」


 小さく名前を呼ぶ。


「ありがとうございます」


 返事はない。


 でも、その言葉を口にすると、不思議と心が落ち着いた。


 まだ同居初日。


 二人は、お互いのことをほとんど知らない。


 好きなものも。


 嫌いなものも。


 過去も。


 これからのことも。


 ただ一つ分かったことがある。


 少なくとも今のところ――。


 この人と同じ屋根の下で暮らすことは、思っていたほど窮屈ではない。


 むしろ。


 ほんの少しだけ、心地よかった。


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