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第二章 突然の同居生活 後編


 翌日の午後。


 依央は、約束していた時間より少し早く部屋を出た。


 隣の部屋の前まで来る。


 インターホンを押そうとして、手を止める。


 昨夜、メッセージでは「話したい」とだけ伝えた。


 改めて考えると、少し大げさだったかもしれない。


「……何を緊張してるんだろ」


 小さく呟いて、インターホンを押した。


 ピンポーン。


「はーい」


 すぐに朔の声がした。


 ドアが開く。


「こんにちは、白瀬さん」


「こんにちは」


「どうぞ」


「……お邪魔します」


 依央が部屋に入る。


 隣の部屋なのに、こうして中へ入るのは初めてだった。


「適当に座ってください」


 案内されたリビングは、依央の部屋より少し広い。


 ソファとローテーブル。


 本棚には雑誌や小説。


 窓際には小さな観葉植物が置かれている。


「……綺麗ですね」


「そうですか?」


「もっと物が多いと思ってました」


「私、片付けだけは得意なんです」


 朔が笑う。


「料理は苦手ですけど」


「そうなんですか」


「この前のスーパーで買った惣菜、覚えてます?」


「はい」


「ほぼ毎日あれです」


「……なるほど」


 依央が少し笑った。


「白瀬さん、笑うんですね」


「笑いますよ」


「いや、いつも真面目な顔してるから」


「久住さんの前では笑ってると思います」


 そう言ってから、依央は少し恥ずかしくなった。


 朔も一瞬だけ黙る。


「……そうですね」


 それ以上は何も言わなかった。


     *


「それで、相談って?」


 朔が向かいのソファに座る。


 依央は持ってきた書類をテーブルに置いた。


「これです」


「工事の通知?」


「はい」


 朔が書類に目を通す。


 そして、対象住戸の欄を見る。


「白瀬さんの部屋……」


「はい」


「一時退去なんですね」


「二か月です」


「二か月か……」


 朔は眉を寄せる。


「長いですね」


「はい」


 依央は少し俯いた。


「仕事も辞めたばかりなので、引っ越す余裕もなくて」


「実家は?」


「遠いです」


「ホテルは?」


「調べました」


 依央は苦笑する。


「二か月だと、かなりの金額になります」


「ですよね」


 朔も黙り込んだ。


 窓の外から、車の走る音が聞こえる。


 しばらく二人とも何も言わなかった。


「……白瀬さん」


「はい?」


「いつから部屋を出ないといけないんですか?」


「三週間後です」


「三週間……」


 朔は腕を組んだ。


「それまでに決めないといけないんですね」


「はい」


 依央は視線を落とす。


「だから……どうしようかなって」


「……」


 朔は依央の顔を見る。


 普段なら何でも一人で決めそうな人。


 そんな依央が、自分に相談しに来た。


 それだけでも、少し意外だった。


「だったら」


 朔が口を開く。


「うちに来ればいいんじゃないですか?」


「……え?」


 依央が顔を上げた。


「だから、私の家」


「……」


「部屋、一つ余ってるんです」


 依央は言葉を失った。


「いや……でも」


「二か月だけなら、そんなに問題ないと思います」


「でも、久住さんに迷惑じゃ……」


「一人増えるくらい、大丈夫ですよ」


「そういう問題じゃなくて……」


 依央は困ったように眉を下げた。


「私たち、そこまで親しいわけじゃないですよね」


 朔は少しだけ考えた。


「……そうですね」


 その言葉が、なぜか少し寂しく聞こえた。


 でも、すぐに朔は笑った。


「だからこそ、二か月くらい一緒に暮らしてみてもいいんじゃないですか?」


「そんな簡単に……」


「簡単じゃないですよ」


 朔は真面目な顔になった。


「私だって、一人で暮らしてきたから、誰かと暮らすのが大変なのは分かります」


「だったら……」


「でも」


 朔は続けた。


「白瀬さんなら、大丈夫な気がします」


「どうしてですか?」


「なんとなく」


「……なんとなく」


「はい」


 朔が笑う。


「私、こう見えて人を見る目はあるんですよ」


「自分で言います?」


「言います」


 二人の間に、少しだけ笑いが起こった。


     *


「……本当にいいんですか?」


「いいですよ」


「二か月ですよ?」


「二か月」


「途中で嫌になっても?」


「そのときは言います」


「私も言っていいんですか?」


「もちろん」


 依央はしばらく考えた。


 正直、不安だった。


 他人と暮らした経験はほとんどない。


 しかも相手は、つい最近まで「隣の部屋の人」だった。


 でも――。


 ホテルに泊まるより現実的。


 実家へ戻るより生活を変えずに済む。


 そして何より。


 朔なら大丈夫かもしれない。


 そんな気持ちがあった。


「……お願いします」


 依央が頭を下げる。


 朔は少し驚いた顔をしたあと、笑った。


「こちらこそ」


「……よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


 こうして二人は、まだぎこちないながらも、一つの約束を交わした。


 三週間後から、二人で暮らす。


     *


 その日の夜。


 依央は自分の部屋に戻った。


 部屋を見渡す。


 この部屋とも、しばらく離れることになる。


 そう思うと、少しだけ寂しい。


 でも、不思議と不安は昨日より小さかった。


 スマートフォンが鳴る。


 朔からメッセージだった。


『さっき話し忘れたんですけど』


『何ですか?』


『生活ルール、ちゃんと決めましょう』


 すぐに続けてメッセージが来る。


『食費とか』


『お風呂の順番とか』


『掃除とか』


 依央は少し笑った。


『分かりました』


『あと、勝手に部屋に入らない』


『それは当然ですね』


『ですよね』


『他には?』


 少し間が空く。


『……仲良くする』


 依央は画面を見つめた。


 それから、


『それもルールですか?』


 と返信する。


 しばらく既読がつかなかった。


 やがて、


『ルールにしましょう』


 と返ってきた。


 依央は思わず笑った。


『分かりました』


『じゃあ、仲良くしましょう』


『はい』


 スマートフォンを置く。


 ほんの少しだけ、楽しみになっていた。


 三週間後。


 この部屋を離れることは寂しい。


 それでも――。


 隣の部屋で待っている人がいる。


 そう思うと、不思議と心細くなかった。


     *


 三週間は、思っていたより早く過ぎた。


 依央は必要な荷物を少しずつまとめていった。


 家具の多くは工事が終わるまで部屋に残しておくことになった。


 最低限の衣類。


 仕事を探すためのパソコン。


 本。


 生活用品。


 大きな旅行鞄二つ分。


 それだけだった。


 引っ越しというより、長めの旅行に近い。


 最後の夜。


 依央は部屋を見回した。


 何も変わっていない。


 けれど、明日からしばらくここには帰ってこない。


 玄関のドアを閉める。


 鍵をかける。


 そして隣を見る。


 朔の部屋。


 依央は小さく息を吐いた。


「……行こう」


 インターホンを押す。


「はーい」


 ドアが開く。


「お待ちしてました」


「今日からよろしくお願いします」


「こちらこそ」


 朔が依央の荷物を見る。


「……結構ありますね」


「これでも減らしました」


「二か月ですもんね」


「はい」


 朔は笑いながら玄関を大きく開けた。


「じゃあ、どうぞ」


 依央が一歩、部屋の中へ入る。


 その瞬間。


 ただの「隣人」だった二人の生活が、初めて一つになった。


 このとき二人はまだ知らない。


 二か月だけのはずだった共同生活が。


 自分たちの考えていたより、ずっと大切な時間になっていくことを。


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