第二章 突然の同居生活 中編
会社を辞めてから、二週間が過ぎた。
朝。
目覚まし時計は鳴らない。
だからといって、いつまでも眠っていられるわけでもなかった。
白瀬依央は、午前八時前に目を覚ました。
布団の中でしばらく天井を見つめる。
「……今日、何しよう」
独り言が、静かな部屋に落ちる。
会社員だった頃なら、こんなことを考える必要はなかった。
起きる時間も。
家を出る時間も。
昼休みの時間も。
帰宅する時間も。
全部決まっていた。
今は何も決まっていない。
自由。
そのはずなのに、依央は少しだけ落ち着かなかった。
起き上がってカーテンを開ける。
青空。
平日の朝とは思えないほど静かだった。
窓を少し開ける。
風が入ってくる。
「……いい天気」
それだけ言って、依央はキッチンへ向かった。
*
朝食を食べ終える。
食器を洗う。
洗濯機を回す。
掃除をする。
それでも午前十時。
「……早いな」
時間だけが余っている。
以前なら休日にやっていたことを、今は毎日できる。
読書をする。
映画を見る。
散歩する。
昼寝する。
どれも嫌いではない。
でも、ずっと続けていると、少しずつ物足りなくなってきた。
依央はスマートフォンを手に取った。
転職サイトを開く。
求人を眺める。
いくつか気になる仕事はあった。
けれど、応募ボタンを押すところまではいかない。
「……何がしたいんだろう」
自分でも分からなかった。
会社を辞めたことを後悔しているわけではない。
あのまま続けていたら、きっともっと苦しくなっていた。
それは分かる。
でも、辞めた後のことまで考えていたわけではなかった。
依央はスマートフォンを置いた。
窓の外を見る。
隣のベランダが少しだけ見える。
そこには洗濯物が干されていた。
久住朔の部屋だ。
「……仕事、行ったのかな」
ふとそんなことを思う。
自分でも変なことを考えていると思った。
依央はカーテンを閉めた。
*
昼過ぎ。
近所のスーパーへ買い物に出る。
平日の昼間。
店内は空いている。
買い物を済ませてマンションへ戻る。
エレベーターの前でボタンを押す。
扉が開く。
中には誰もいない。
依央が乗り込もうとした、そのとき。
「あ」
後ろから声がした。
「白瀬さん」
朔だった。
片手にコンビニ袋を持っている。
「こんにちは」
「こんにちは」
依央は少し横へ寄る。
朔が乗り込んだ。
「今日はお休みですか?」
「……今、仕事してないんです」
「あ」
朔が一瞬、言葉を失う。
「そうでしたね。ごめんなさい」
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ、今は毎日お休みみたいな感じ?」
「そうですね」
依央が苦笑する。
「でも、思ってたより暇です」
「分かります」
「久住さんも?」
「私も仕事が休みの日は、最初は嬉しいんですけど……昼過ぎると何していいか分からなくなります」
「同じですね」
「じゃあ、仲間だ」
朔が笑う。
エレベーターが目的の階に着く。
二人は並んで廊下を歩いた。
「白瀬さん」
「はい?」
「もし暇だったら、今度どこか行きません?」
「どこか?」
「映画とか。ランチとか」
依央は少し驚いた。
「私とですか?」
「他に誰がいるんですか」
「……そうですね」
思わず笑う。
「予定が合えば」
「じゃあ、今度連絡します」
「はい」
二人はそれぞれの部屋へ入った。
ドアを閉めた依央は、玄関で立ち止まる。
「……今度、か」
なぜだか少し嬉しかった。
*
数日後。
管理会社から正式な通知が届いた。
依央は郵便受けから封筒を取り出し、部屋で開く。
マンションの設備更新工事について。
給排水設備の老朽化。
電気設備の改修。
共用部分だけではなく、一部の部屋では室内工事も必要になる。
工事期間――約二か月。
「二か月……」
依央は紙を見つめた。
さらに読み進める。
部屋によっては、一時的に退去する必要がある。
その対象となる部屋は後日通知する。
「……困ったな」
依央の部屋はどうなるのだろう。
引っ越すにしても、仕事が決まっていない今、大きな出費は避けたい。
ホテルに長期間泊まるのも現実的ではない。
実家に戻るという選択肢もある。
ただ、実家は遠い。
今の生活をすべて捨てることになる。
「まだ決まったわけじゃないし」
依央は書類をテーブルに置いた。
今考えても仕方がない。
そう思った。
*
その日の夕方。
インターホンが鳴った。
依央は玄関へ向かう。
「はい」
『久住です』
「……はい?」
『今、大丈夫ですか?』
「どうぞ」
ドアを開ける。
そこには朔が立っていた。
「突然すみません」
「どうしました?」
朔は一枚の紙を持っていた。
「これ、届きました?」
「あ……工事の通知ですか?」
「はい」
朔が紙を見せる。
「うちも来ました」
「室内工事があるんですよね」
「そうみたいです」
二人は顔を見合わせる。
「白瀬さんの部屋、対象になってました?」
「まだです。対象の部屋は後から通知って書いてありました」
「私もです」
朔は少し考える。
「もし対象だったら、どうします?」
「……分からないです」
「実家は?」
「遠いので、すぐには戻れないです」
「そうですよね」
朔も黙る。
玄関先に、少しだけ気まずい沈黙が流れる。
やがて朔が言った。
「ホテルとか、結構高いですよね」
「そうですね」
「二か月は……厳しいな」
依央も頷いた。
「引っ越すにもお金がかかりますし」
「ですよね」
朔は紙を折りたたむ。
「まあ、まだ決まってないですし」
「そうですね」
「対象じゃない可能性もありますから」
「はい」
そこで話は終わった。
「じゃあ、これだけです」
「ありがとうございます」
「いえ」
朔は自分の部屋へ戻っていった。
依央はドアを閉める。
そして、もう一度通知を見た。
約二か月。
もし自分の部屋が対象だったら。
どうすればいいのだろう。
*
それから数日。
依央は転職活動を続けていた。
求人を見る。
履歴書を書く。
応募する。
面接を受ける。
けれど、すぐに決まるわけではない。
会社を辞めたことへの不安も、少しずつ大きくなっていた。
そんなある日。
スマートフォンにメールが届いた。
マンション管理会社からだった。
件名を見る。
――設備工事に伴う一時退去について。
「……来た」
依央は画面を開く。
対象住戸。
工事期間。
一時退去期間。
そして――。
白瀬依央の部屋番号。
依央はしばらく画面を見つめた。
「……嘘でしょ」
数週間後。
この部屋を出なければならない。
しかも、次の仕事もまだ決まっていない。
依央は椅子に座ったまま、深く息を吐いた。
「どうしよう……」
静かな部屋。
誰も答えてくれない。
いつもなら、それでよかった。
一人で考えて、一人で決めればいい。
でも今だけは――。
誰かに相談したかった。
*
その夜。
依央はなかなか眠れなかった。
ベッドの中で何度も寝返りを打つ。
ホテル。
実家。
引っ越し。
どれも簡単ではない。
時計を見る。
午前零時を過ぎている。
そのとき。
壁の向こうから、小さな物音がした。
隣の部屋。
朔もまだ起きているらしい。
依央は天井を見つめた。
「……久住さん」
名前を呼んでも、もちろん届かない。
少し迷ってから、スマートフォンを手に取る。
連絡先には、いつの間にか朔の名前が登録されていた。
以前、映画の話をしたときに交換したものだ。
メッセージ画面を開く。
『少し相談したいことがあります』
そこまで入力する。
しかし、送信ボタンを押せない。
こんな時間に迷惑かもしれない。
依央は文章を消した。
スマートフォンを置く。
目を閉じる。
けれど、しばらくして再びスマートフォンを手に取った。
今度は短く入力する。
『明日、少しお話できますか?』
送信。
数秒。
既読がつく。
そしてすぐに返信が来た。
『もちろんです。どうしました?』
依央は画面を見つめた。
その短い言葉だけで、少しだけ安心した。
『明日、話します』
『分かりました。おやすみなさい』
『おやすみなさい』
画面を閉じる。
依央はようやく目を閉じた。
明日。
朔に相談しよう。
そう思いながら。
まだこのときの依央は知らなかった。
その相談が――。
自分の生活だけではなく、
二人の関係そのものを変えることになるとは。




