第二章 突然の同居生活 前編
月曜日の朝。
白瀬依央は、いつものように目を覚ました。
午前六時四十五分。
目覚ましが鳴る少し前だった。
薄暗い部屋の中で、天井を見つめる。
起きなければならない。
そう思った。
けれど、身体が動かなかった。
「……行きたくないな」
口からこぼれた言葉に、自分で驚いた。
以前なら、そんなことを思ってもすぐに起き上がっていた。
仕事だから。
行くのが当たり前だから。
そうやって三年間、毎朝を繰り返してきた。
それなのに最近は、会社へ行くことを考えるだけで胸の奥が重くなる。
依央はゆっくり起き上がった。
洗面所へ向かい、顔を洗う。
鏡を見る。
少し疲れた顔。
「……ひどいな」
独り言を言って、苦笑する。
コーヒーを淹れる。
トーストを焼く。
いつもと同じ朝。
何も変わっていない。
それなのに、自分だけが少しずつ変わってしまったような気がしていた。
*
会社へ向かう道。
駅までの歩道を歩きながら、依央はスマートフォンを見る。
メールが一件。
昨日の夜に上司から届いていた。
今日の午後、少し時間を取ってほしい。
それだけだった。
「……何だろう」
嫌な予感がした。
会社に着く。
自分の席に座る。
パソコンを起動する。
いつも通り仕事を始める。
メールを確認し、資料を整理する。
午前中は何とか仕事に集中できた。
けれど、昼休みになったところで、また気持ちが沈んだ。
最近、仕事で小さなミスが増えている。
大きな失敗ではない。
けれど以前なら絶対にしなかったような確認漏れや、資料の修正忘れ。
それを指摘されるたびに、
「すみません」
と頭を下げる。
その繰り返しだった。
午後二時。
「白瀬さん、ちょっといい?」
上司から声をかけられた。
「はい」
依央は席を立った。
*
「最近、少し疲れてない?」
会議室に入るなり、上司はそう言った。
「……そう見えますか?」
「見えるよ」
依央は黙った。
「仕事のミスも、ここ最近少し増えてる」
「すみません」
「いや、責めてるわけじゃない」
上司は少し間を置いた。
「むしろ、一度ちゃんと休んだほうがいいんじゃないかと思ってる」
依央は俯いた。
「休む……」
「有給も残ってるだろ」
「はい」
「何かあった?」
依央は答えられなかった。
何か一つの原因があるわけではない。
仕事が嫌いになったわけでもない。
人間関係が最悪だったわけでもない。
ただ――。
毎日が苦しかった。
朝起きる。
会社へ行く。
仕事をする。
帰る。
眠る。
また朝が来る。
その繰り返し。
いつからか、自分が何のために働いているのか分からなくなっていた。
「……少し、考えさせてください」
「分かった」
上司は頷いた。
「無理だけはするなよ」
「はい」
会議室を出る。
席に戻った依央は、しばらくパソコンの画面を見つめていた。
文字が頭に入ってこない。
そして、気づいた。
自分はもう、答えを決めていたのかもしれない。
*
その日の帰宅は、いつもより早かった。
午後六時半。
まだ外は明るい。
マンションの前まで来たところで、依央は足を止めた。
退職。
その言葉が頭に浮かぶ。
怖かった。
会社を辞めたらどうなるのか。
次の仕事は見つかるのか。
生活費はどうするのか。
不安はいくらでもある。
それでも――。
今のまま続けることも、もう難しい。
エレベーターに乗る。
自分の階へ。
扉が開く。
廊下へ出る。
「あ」
隣の部屋の前に朔がいた。
鍵を開けようとしているところだった。
「白瀬さん?」
「こんばんは」
「今日は早いですね」
「……はい」
朔が依央の顔を見る。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「なんか、顔が疲れてるので」
依央は少し驚いた。
「そんなに分かります?」
「分かりますよ」
朔は笑う。
「隣人歴、そこそこ長いので」
「まだそんなに経ってないですよ」
「じゃあ、これから長くなる予定で」
「……予定なんですか?」
「さあ?」
冗談めかして言う朔。
依央は少し笑った。
それだけで、ほんの少しだけ気持ちが軽くなる。
「じゃあ、また」
「はい」
朔が部屋へ入っていく。
依央も自分の部屋へ入った。
*
その夜。
依央は机の前に座っていた。
パソコンを開いている。
画面には、退職届の書き方について調べたページ。
しばらく眺めてから、画面を閉じる。
そしてスマートフォンを手に取った。
上司へメッセージを送る。
『明日、お話があります』
送信。
しばらくして返信が来た。
『分かった』
それだけだった。
依央はスマートフォンを置いた。
「……辞めよう」
声に出してみる。
思ったより、静かな言葉だった。
*
翌日。
依央は会社へ行った。
そして、上司に退職の意思を伝えた。
引き止められた。
何度か話し合った。
休職という選択肢も提案された。
けれど、依央の気持ちは変わらなかった。
会社が嫌いだからではない。
誰かが嫌いだからでもない。
ただ、一度立ち止まりたかった。
このまま無理を続けるよりも、一度自分の生活を見つめ直したかった。
数週間の引き継ぎ期間を経て。
依央は三年間勤めた会社を退職した。
*
最終出勤日。
会社を出た依央は、駅までの道をゆっくり歩いた。
いつもと同じ道。
けれど、今日からはもう、この道を通って会社へ向かう必要はない。
寂しいような。
怖いような。
それでも少しだけ、肩の力が抜けた。
駅前の時計を見る。
午後三時。
「……こんな時間に帰るの、初めてかも」
依央は小さく笑った。
スーパーへ寄る。
惣菜売り場を歩いていると、見覚えのある声が聞こえた。
「白瀬さん?」
振り返る。
「久住さん」
朔だった。
「今日、早いですね」
「……今日、最後だったんです」
「最後?」
「会社、辞めました」
朔の表情が少し変わった。
「……そうだったんですか」
「はい」
「大丈夫ですか?」
依央は少し考えた。
「分かりません」
正直に答える。
「でも、少しだけ楽になりました」
「そっか」
朔はそれ以上、理由を聞かなかった。
ただ、
「じゃあ、今日はお祝いですね」
「お祝い?」
「仕事を頑張った記念」
朔が惣菜コーナーを指差す。
「今日は好きなもの買いましょう」
「久住さんが買うわけじゃないですよね?」
「もちろん自分で買います」
「ですよね」
二人で笑う。
そして朔は、少しだけ真面目な顔になった。
「白瀬さん」
「はい?」
「無理しないでくださいね」
依央はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
*
その夜。
依央は久しぶりに、目覚まし時計をセットしなかった。
明日の朝、会社へ行く必要はない。
何時に起きてもいい。
そう思うと、少し不思議だった。
けれど自由になったはずなのに、心は完全には晴れなかった。
仕事を辞めた。
次の仕事は決まっていない。
貯金にも限りがある。
そして何より――。
これから自分が何をしたいのか、まだ分からない。
窓の外を見る。
隣の部屋には、まだ明かりがついている。
少しして、その明かりが消えた。
「……おやすみなさい、久住さん」
聞こえるはずのない声を、依央は小さく呟いた。
翌日から、依央の生活は大きく変わった。
朝、急いで起きる必要はない。
スーツを着る必要もない。
会社へ向かう必要もない。
最初の数日は、それが嬉しかった。
けれど一週間が過ぎる頃。
依央は少しずつ、気づき始めていた。
自由というものは――。
何をしてもいいということではなく、
何をするか、自分で決めなければならないということなのだと。
そして、その頃。
マンションの管理会社から届いた一通の通知が、再び依央の生活を大きく揺らすことになる。
以前届いた、大規模な設備工事についての正式な案内だった。
依央はまだ知らない。
その通知が、
自分にとって新しい生活の始まりになることを。
そしてその生活の隣に――。
久住朔がいることを。




