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第一章 隣の部屋の人 後編


 突然の停電だった。


 廊下を照らしていた照明が消え、辺りは一瞬で暗闇に包まれた。


「……真っ暗ですね」


 依央の声がする。


「スマホ、あります?」


「あります」


 二人はほとんど同時にスマートフォンを取り出した。


 白い画面の明かりが、暗い廊下を照らす。


 依央と朔の顔が、ぼんやりと浮かび上がった。


「……こうして見ると、結構暗いですね」


「そうですね」


「怖くないですか?」


「少しだけ」


 依央が正直に答える。


 朔は意外そうに目を丸くした。


「白瀬さんでも怖いことあるんですね」


「私を何だと思ってるんですか」


「何でも平気そうな人」


「そんなことないです」


「じゃあ、ちょっと安心しました」


「……どうしてですか?」


「私だけ怖がってたら恥ずかしいので」


 朔が笑う。


 依央も小さく笑った。


 暗闇の中でも、その笑顔だけは分かった。


     *


 数分後。


 マンションの非常灯が点いた。


 完全な明るさではないものの、廊下が見える程度にはなった。


「復旧するまで待ったほうがよさそうですね」


 依央が言う。


「そうですね」


 二人は玄関前に立ったままだった。


 部屋の中に戻ることもできる。


 でも、なぜか二人とも戻ろうとはしなかった。


「……白瀬さん」


「はい?」


「このマンション、最近ちょっと変じゃないですか?」


 朔が掲示板の方向を見る。


「エアコンが動かなくなったり、設備点検があったり」


「確かに」


「今日も停電だし」


「偶然だと思いますけど」


「ですよね」


 朔はそう言いながらも、少し不安そうだった。


 そのとき、階下から管理人の声が聞こえた。


「ブレーカーの確認をしますので、少々お待ちください!」


「管理人さん来てくれたみたいですね」


「よかった」


 朔がほっとしたように息を吐く。


 その様子を見て、依央は思った。


 意外と分かりやすい人なのかもしれない。


 明るく話しているから、もっと何でも平気な人なのだと思っていた。


 でも、暗闇が怖かったり、停電を心配したりする。


 普通の人なのだ。


 当たり前のことなのに、依央は少し親近感を覚えた。


     *


 それから十分ほどして、照明が戻った。


「おお……」


 朔が眩しそうに目を細める。


「復旧しましたね」


「よかったです」


 二人とも、ようやく安心した。


 依央が部屋へ戻ろうとすると、朔が声をかけた。


「あの、白瀬さん」


「はい?」


「この前のコロッケ、食べました?」


「食べました」


「どうでした?」


「美味しかったです」


「ですよね」


 朔が嬉しそうに笑う。


「じゃあ、今度また買いましょう」


「……今度?」


「はい。おすすめ第二弾、ありますから」


「第二弾?」


「このスーパー、実はお惣菜が結構おいしいんですよ」


 まるで以前からの友人のような口調だった。


 依央は少し戸惑った。


 でも、嫌ではなかった。


「じゃあ……機会があれば」


「約束ですよ」


「約束なんですか?」


「今、約束にしました」


「……強引ですね」


「よく言われます」


 二人で笑った。


 それから、それぞれの部屋へ戻る。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 ドアが閉まる。


 依央は玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。


 今日、一体何回朔と話しただろう。


 朝。


 スーパー。


 そして今。


 以前は名前すら知らなかった。


 それが今では、名前を呼ぶことにも少し慣れてきている。


「……久住さん、か」


 依央は小さく呟いた。


 そして自分でも気づかないうちに、少しだけ笑っていた。


     *


 翌朝。


 依央が玄関を開けると、ちょうど隣のドアも開いた。


「あ」


「あ」


 また目が合う。


「おはようございます」


「おはようございます」


 昨日の停電が嘘のように、いつもの朝だった。


「昨日、大丈夫でした?」


 朔が聞く。


「はい。久住さんは?」


「私も大丈夫です」


「よかったです」


 そこで会話が終わる。


 二人とも、それぞれ駅へ向かおうとする。


 けれど、朔が少し歩いたところで振り返った。


「白瀬さん」


「はい?」


「今日もお仕事ですよね」


「そうです」


「じゃあ、頑張りましょう」


「……久住さんも」


「はい」


 朔は笑って歩いていった。


 依央もその後を追うように歩き出す。


 駅へ向かう道は同じだった。


 少し前を歩く朔。


 その背中を見ながら、依央はふと思った。


 明日も会うかもしれない。


 そう考えると、なぜか少しだけ楽しみだった。


     *


 その日の昼。


 マンションの管理会社から、入居者へ一通の通知が届いた。


 設備点検について。


 そして――。


 今後予定されている、大規模な設備工事について。


 依央は仕事の合間にスマートフォンで通知を確認した。


「……大規模修繕?」


 まだ詳しい日程は決まっていない。


 対象となる部屋についても、後日改めて連絡すると書かれていた。


 依央は通知を閉じた。


 今すぐ気にするような話ではない。


 そう思った。


 その頃、隣の部屋に住む朔にも、同じ通知が届いていた。


 朔は画面を見ながら、


「……面倒なことにならなきゃいいけど」


 と呟いた。


 二人はまだ知らない。


 この小さな通知が、数週間後の二人の生活を大きく変えることになる。


 それがきっかけで、二人は同じ家に暮らすことになる。


 朝の「おはよう」も。


 夜の「おやすみ」も。


 一緒に食べる夕食も。


 今よりずっと近い距離で過ごすことになる。


 けれど、このときの二人にとっては――。


 まだ何も始まっていなかった。


 ただ隣の部屋に住んでいる、少し話すようになった女性。


 それだけだった。


 そして、そんな二人の日常は。


 もうすぐ、大きく変わろうとしていた。


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