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第一章 隣の部屋の人 中編


 それから三日ほど経った。


 白瀬依央は、朝の玄関で靴紐を結びながら時計を確認した。


 七時二十八分。


 いつもより二分早い。


 特に意味はない。


 ただ、昨日は少し寝るのが遅かったから、念のため早めに起きただけだ。


 そう自分に言い聞かせながら、依央は玄関のドアを開けた。


「……あ」


 廊下の先。


 ちょうど隣の部屋のドアが開いた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 久住朔だった。


 この前までなら、それだけで終わっていた。


 けれど今日は、依央も少しだけ立ち止まった。


「エアコン、大丈夫でした?」


「ああ、あれですか」


 朔が笑う。


「結局、リモコンの電池切れでした」


「……そうだったんですか」


「はい。恥ずかしいですよね」


「いえ……」


 依央は少し考えてから、


「よくありますよ」


 と答えた。


「白瀬さんもあります?」


「……あります」


「ですよね」


 朔が楽しそうに笑った。


 それだけの会話。


 なのに、依央はなぜか少しだけ気分が軽くなった。


「じゃあ、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 階段へ向かう依央の背中に、朔の声が届く。


 依央は一瞬だけ振り返った。


「……はい」


 そして階段を下りる。


 昨日までなら、こんな会話はなかった。


 名前を知っただけで、ほんの少しだけ距離が近くなったような気がする。


 そのことが、依央には不思議だった。


     *


 その日の午後。


 依央の職場では、珍しく仕事が早く終わった。


 定時を少し過ぎたところでパソコンを閉じる。


 周囲の同僚がまだ仕事をしている中、依央は鞄を持った。


「白瀬さん、今日は早いね」


「はい。明日の分まである程度終わったので」


「真面目だねえ」


 そう言われて、依央は苦笑した。


「普通ですよ」


 会社を出る。


 外はまだ明るかった。


 最近は日が長くなってきている。


 駅前のスーパーに立ち寄る。


 夕飯をどうするか考えながら店内を歩いていると、野菜売り場で見覚えのある人を見つけた。


「あれ?」


 向こうもこちらに気づいた。


「白瀬さん?」


「久住さん」


 朔は買い物かごを持っていた。


 中には野菜、卵、牛乳、それから肉。


「仕事帰りですか?」


「はい。久住さんも?」


「そうです」


 二人は顔を見合わせる。


 マンション以外で会うのは初めてだった。


「この辺、よく来るんですか?」


「仕事帰りは、だいたいここです」


「私もです」


 朔が少し笑った。


「じゃあ、もしかしたら今までも会ってたかもしれませんね」


「そうかもしれません」


「全然気づかなかった」


「私もです」


 また少し笑う。


 依央は買い物かごを持っていなかった。


「今日は何も買わないんですか?」


「夕飯だけです。まだ決めてなくて」


「じゃあ、これおすすめですよ」


 朔が手に取ったのは、スーパーの惣菜コーナーに並んでいたコロッケだった。


「ここのコロッケ、結構おいしいですよ」


「そうなんですか」


「安いし」


「……じゃあ、それにします」


「素直ですね」


 朔が笑う。


 依央は少しだけ恥ずかしくなった。


 結局、二人は惣菜コーナーまで一緒に歩いた。


 それから別れる。


「じゃあ、また」


「はい」


 朔はそう言って、先にレジへ向かった。


 依央はその後ろ姿を見送った。


 自分でもよく分からない。


 どうして、少し楽しいと思ったのだろう。


     *


 その夜。


 依央は自宅のテーブルでコロッケを食べていた。


 味は確かに悪くない。


 むしろ美味しい。


 テレビをつける。


 ニュース番組。


 興味のある話題でもない。


 なんとなく眺めながら、依央は昼間の出来事を思い出した。


 久住朔。


 雑貨メーカーで働いているらしい。


 何歳なのかはまだ聞いていない。


 趣味も知らない。


 好きな食べ物も知らない。


 それでも、少しずつ彼女のことを知っていく。


 隣人だから。


 ただ、それだけ。


 そう思っていた。


 そのとき。


 壁の向こうから、かすかに物音が聞こえた。


 何かを置いたような音。


 続いて、笑い声。


 誰かと電話をしているらしい。


 依央はテレビの音量を少し下げた。


 もちろん、聞き耳を立てるつもりはない。


 ただ――。


 普段静かな隣の部屋から人の気配がすることが、少し新鮮だった。


「……隣にいるんだよね」


 思わず呟く。


 壁一枚。


 それだけの距離。


 けれど、そこには自分とは違う生活がある。


 そんな当たり前のことを、今さらながら意識した。


     *


 翌週。


 マンションのエレベーターホールに、一枚の張り紙が出ていた。


 依央は仕事から帰ってきたところだった。


 掲示板の前で足を止める。


「……設備点検?」


 建物の給排水設備に関する定期点検。


 日時と注意事項が書かれている。


 特に気にするほどのことではない。


 そう思って通り過ぎようとした。


「あ、白瀬さん」


 後ろから声がした。


 朔だった。


「こんばんは」


「こんばんは」


 朔も掲示板を見る。


「これ、何ですか?」


「設備点検みたいです」


「へえ……」


 朔は張り紙をじっと見る。


「この前もエアコン壊れたし、最近ちょっと設備関係多いですね」


「そうですね」


「大丈夫かな、このマンション」


 冗談めかして言う朔。


 依央は少し笑った。


「まだ大丈夫じゃないですか」


「ですよね」


 二人はエレベーターに乗った。


 扉が閉まる。


 狭い空間。


 以前なら気まずかったかもしれない。


 でも、今はそうでもない。


「白瀬さんって、いつも帰るの遅いですよね」


「そうですか?」


「私より遅いこと多いですよ」


「仕事が少し忙しくて」


「大変ですね」


「久住さんは?」


「私は日によります。今日は早いです」


「そうなんですね」


 エレベーターが止まる。


 二人の階。


 廊下に出る。


 そして、いつものようにそれぞれの部屋へ向かう。


「じゃあ、おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 依央は自分の部屋へ入った。


 靴を脱ぎながら、ふと思う。


 少し前まで、この廊下に他人がいることなんて気にも留めなかった。


 今は違う。


 隣のドアを見るだけで、


「今日はもう帰ってきてるかな」


なんて、ほんの少しだけ考える。


 それがどういう意味なのか、依央にはまだ分からない。


     *


 一方、隣の部屋。


 朔も玄関で靴を脱いでいた。


「白瀬さん、か……」


 名前を呟いてみる。


 まだ知り合って間もない。


 それなのに、最近よく顔を合わせる気がする。


 朝。


 スーパー。


 エレベーター。


 偶然なのかもしれない。


 朔は冷蔵庫を開ける。


 中には、昼間買った野菜が入っている。


「……今日、鍋にしようかな」


 そう呟いたところで、ふと気づいた。


 隣の部屋にも、同じように誰かが暮らしている。


 当たり前のことなのに、妙に気になった。


「白瀬さん、何食べてるんだろ」


 自分で言ってから、朔は苦笑する。


「何考えてんだろ、私」


 冷蔵庫を閉める。


 そのときだった。


 ――ドン。


 マンションのどこかで、大きな音がした。


 朔は顔を上げた。


 少し遅れて、建物全体が小さく揺れたような気がした。


「……何?」


 廊下から、誰かの声がする。


 朔は玄関へ向かった。


 ドアを開ける。


 同じタイミングで、隣のドアも開いた。


「……久住さん?」


「白瀬さん?」


 二人は廊下で顔を見合わせた。


 さっきまでとは少し違う空気。


 マンションの照明が、一度だけ明滅した。


 そして――。


 ふっと、消えた。


「……停電?」


 暗闇の中で、依央の声がした。


「みたいですね」


 朔が答える。


 まだ二人は知らない。


 この夜に起きた小さなトラブルが、


 これから始まる二人の共同生活へとつながっていくことを。


 そして、その生活が二人の距離を大きく変えていくことを。


 今はまだ――。


 ただ、隣の部屋に住んでいるだけだった。

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