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第一章 隣の部屋の人 前編

人と人との距離は、不思議なものだと思う。


初めて会ったときには、ただの他人だった人。


何度か顔を合わせるうちに、名前を知る。


少し話すようになって、いつの間にか一緒にいる時間が増えていく。


それでも、その人が自分にとってどんな存在なのかなんて、案外すぐには分からない。


毎朝交わす「おはよう」。


帰宅したときの「おかえり」。


一緒に食べる何気ない食事。


休日に並んで見る映画。


そんな小さな出来事の一つひとつが、振り返ってみれば、かけがえのない時間になっていることもある。


この物語に、大きな奇跡は起こらない。


世界を変えるような出来事も、きっとない。


ただ、少しだけ不器用な二人の女性が、同じ屋根の下で暮らし、笑ったり、悩んだり、ときにはすれ違ったりしながら、それぞれの日々を過ごしていく。


最初は、隣の部屋に住んでいただけ。


それだけだった二人の距離が、どこまで近づいていくのか。


その答えは、二人自身にもまだ分からない。


これは、そんな二人が過ごす、何気ない日々の物語。


午後三時。


少し眠たくて、少し穏やかで。


何かをするには遅く、何もしないにはちょうどいい時間。


そんな時間を、あなたも二人と一緒に覗いてみてください。


 朝の七時三十分。


 白瀬依央は、いつものように目覚まし時計を止めた。


 窓から差し込む朝の光が、カーテンの隙間から細く伸びている。


「……もう朝か」


 布団の中で小さく呟いてから、依央はゆっくりと身体を起こした。


 眠い。


 それでも起きなければならない。


 会社員になって三年。


 平日の朝は、いつも同じだった。


 洗面所へ行き、顔を洗う。


 電気ケトルで湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れる。


 トーストを一枚焼く。


 スマートフォンを確認する。


 そして、決まった時間に家を出る。


 特別なことは何もない。


 それが依央にとっての普通だった。


 ワンルームの部屋は、必要なものだけが置かれている。


 大きすぎないベッド。


 小さなテーブル。


 本棚。


 テレビ。


 仕事用の鞄。


 生活に困ることはない。


 むしろ、一人で暮らすには十分すぎるくらいだった。


 依央は、この部屋を嫌いではなかった。


 静かで、誰にも邪魔されない。


 仕事から帰ってきても、誰かに気を遣う必要がない。


 疲れていれば、そのまま眠ればいい。


 食事を作る気分になれなければ、コンビニで済ませればいい。


 休日だって、誰かに予定を合わせる必要はない。


 自由だった。


 ただ――。


 最近、その自由が少しだけ重く感じることがある。


「……考えても仕方ないか」


 依央は頭の中に浮かんだ考えを追い払うように、コーヒーを一口飲んだ。


 時計を見る。


 そろそろ出なければならない。


 トーストの最後の一口を食べ、食器を流しに置く。


 鞄を持って玄関へ向かう。


 靴を履いて、ドアを開ける。


 その瞬間だった。


「あ」


 廊下の向こうから、ちょうど一人の女性が歩いてきた。


 依央と同じくらいの年齢に見える。


 肩まで伸びた髪。


 薄いベージュのコート。


 片手には仕事用らしい鞄。


 彼女も依央に気づいた。


 一瞬、目が合う。


「おはようございます」


「あ……おはようございます」


 それだけ。


 二人はすれ違った。


 依央は階段へ向かいながら、ふと振り返る。


 女性は依央とは反対方向へ歩いている。


 そして、隣の部屋の前で立ち止まった。


 鍵を取り出す。


 ドアが開く。


 女性が中へ入る。


 ドアが閉まった。


 依央はその光景を見ながら、少しだけ考える。


 そういえば――。


 隣の部屋に住んでいる人の名前を知らない。


 何度か顔を合わせたことはある。


 朝、出勤する時間が重なることもある。


 夜、帰宅したときにエレベーターで一緒になることもある。


 けれど、名前を聞いたことはなかった。


「……まあ、いいか」


 依央は階段を下りていった。


 それ以上、気にすることもなかった。


     *


 同じ頃。


 隣の部屋では、久住朔が玄関に立っていた。


「……危なかった」


 壁に背中を預けながら、朔は息を吐いた。


 今朝は寝坊した。


 目覚ましを止めた記憶はある。


 けれど、二度寝したらしい。


 急いで着替え、髪を整え、最低限の化粧だけして家を出た。


 そして、玄関を出たところで隣の女性と出会った。


 以前から何度か見かけている。


 たぶん会社員。


 いつも一人で、朝はだいたい同じ時間に出ていく。


 朔は靴を脱ぎながら、先ほどのことを思い出した。


「……そういえば、名前知らないな」


 同じマンション。


 隣の部屋。


 それだけ。


 別に話す必要もない。


 朔だって、わざわざ近所の人と仲良くなろうと思っているわけではなかった。


 それでも――。


 少しだけ気になった。


 いつも静かな人だ。


 廊下で会っても、必要以上に話さない。


 でも、挨拶だけは必ずする。


「……真面目そう」


 朔は小さく笑った。


 そして時計を見る。


「やばっ!」


 次の瞬間には、鞄を掴んで再び玄関へ走っていた。


     *


 その日の夜。


 依央が帰宅したのは、午後八時を少し過ぎた頃だった。


 会社を出る直前に上司から仕事を頼まれた。


 断る理由もなく、結局残業。


 駅からマンションまでの道を歩きながら、依央は小さくため息をついた。


「疲れた……」


 エレベーターを待つ。


 扉が開く。


 誰もいない。


 依央は一人で乗り込んだ。


 自分の階のボタンを押す。


 静かなエレベーターの中。


 今日の仕事を思い返していると、スマートフォンが震えた。


 会社のメールだった。


 依央は画面を見て、眉を寄せる。


「……明日まで?」


 今日中に来るとは思っていなかった仕事だった。


 もう一度、ため息。


 エレベーターが止まる。


 扉が開く。


 依央は廊下へ出た。


 自分の部屋へ向かう。


 そして――。


 隣の部屋の前に、朝の女性が立っていた。


 スマートフォンを片手に、困ったような顔をしている。


 依央は少し迷った。


 声をかけるべきか。


 でも、そこまで親しいわけではない。


 そのまま通り過ぎようとした。


「あの」


 呼び止められた。


「はい?」


 振り返る。


 女性が少し申し訳なさそうに笑った。


「すみません。隣の方ですよね?」


「はい」


「……ちょっと、聞いてもいいですか?」


 依央は頷いた。


「このマンションって、夜に管理会社へ連絡するとき、どこに電話すればいいか分かります?」


「管理会社ですか?」


「そうなんです。さっき帰ってきたら、部屋のエアコンが動かなくて……」


 依央は少し考える。


「契約書に書いてあると思います」


「あ……」


 女性が固まる。


「契約書、部屋の中です」


「……そうですよね」


「はい……」


 少し気まずい沈黙。


 依央はスマートフォンを取り出した。


「管理会社の名前なら、マンションの掲示板に書いてあるかもしれません」


「本当ですか?」


「たぶん」


 二人でエレベーターホールの掲示板を見る。


 依央が案内すると、女性はスマートフォンで番号を撮影した。


「ありました」


「よかったです」


「ありがとうございます」


「いえ」


 そこで終わるはずだった。


 けれど女性が、ふと思い出したように顔を上げた。


「そういえば、ちゃんと話したことありませんでしたよね」


「……そうですね」


「私、久住朔っていいます」


 女性――朔が笑う。


「隣に住んでるのに、名前も知らないの変ですよね」


 依央は少しだけ驚いた。


 そして、自分も名乗る。


「白瀬依央です」


「依央さん……」


「はい」


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 たったそれだけの会話だった。


 それでも、依央は自分の部屋の前まで歩きながら、さっき聞いた名前を頭の中で繰り返していた。


 久住朔。


 隣の部屋に住んでいる人。


 それだけだった。


 今までは。


 けれど、この夜を境に。


 二人の距離は、ほんの少しだけ変わり始めることになる。

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