第四章 少しだけ近く 前編
同居生活が始まって、一か月が過ぎた。
最初の頃に感じていた気まずさは、いつの間にかなくなっていた。
朝。
リビングへ行けば、朔がいる。
「おはようございます」
「おはようございます」
夜。
仕事から帰ってきた朔に、
「おかえりなさい」
「ただいま」
と声をかける。
それが当たり前になっていた。
依央自身も、その変化に気づいていた。
以前は、一人でいることが普通だった。
誰かに合わせる必要もない。
自分の好きな時間に起きて、自分の好きなものを食べて、自分の好きなように過ごす。
それが楽だった。
今も一人の時間は好きだ。
けれど――。
家に帰って誰かがいることも、悪くないと思うようになっていた。
「白瀬さん」
「はい?」
朝食の準備をしていると、後ろから声がした。
「今日、仕事終わるの遅くなりそうです」
「そうなんですか?」
「たぶん九時くらい」
「分かりました」
「先に食べててくださいね」
朔はそう言って、マグカップを手に取った。
「……でも」
「?」
「帰ってきたら、何か食べるもの残しておいてもらえます?」
「もちろん」
「やった」
朔が笑う。
依央も笑った。
*
午前中。
依央は転職サイトを眺めていた。
会社を辞めてから、一か月。
いくつか求人に応募している。
面接も受けた。
でも、まだ決まっていない。
焦りはあった。
貯金はある。
すぐに生活できなくなるわけではない。
それでも、何もしていない自分に罪悪感を覚えることがあった。
「……この仕事、どうかな」
求人票を開く。
前の会社と似た仕事内容。
条件も悪くない。
ただ、応募する決心がつかない。
スマートフォンを見る。
朔からメッセージが来ていた。
『お昼ちゃんと食べてくださいね』
依央は少し笑った。
『分かってます』
『本当に?』
『本当です』
『ならよし』
それだけのやり取り。
でも、少し嬉しかった。
依央はスマートフォンを置いた。
そして、求人票をもう一度見る。
今度は応募ボタンを押した。
*
昼過ぎ。
依央は一人で買い物へ出かけた。
朔は仕事に出ているため、家にはいない。
必要なものを買い終え、マンションへ戻る途中、近くの小さな花屋が目に入った。
色とりどりの花が店先に並んでいる。
依央は足を止めた。
「……綺麗」
普段、花を買うことはない。
でも今日は、何となく気になった。
店員に勧められ、小さな花束を一つ買った。
家に戻る。
花瓶に入れる。
リビングのテーブルに置く。
それだけで部屋の雰囲気が少し変わった。
依央はソファに座り、しばらく花を眺めた。
朔が帰ってきたら、気づくだろうか。
そんなことを考えてから、依央は小さく首を振った。
別に、気づかれなくてもいい。
ただ、部屋に花があるのも悪くないと思っただけだ。
*
夜。
予定通り、朔の帰宅は遅かった。
午後九時十五分。
「ただいま……」
玄関から、疲れ切った声が聞こえる。
「おかえりなさい」
「……疲れた」
朔がリビングへ入ってくる。
鞄を置いたところで、テーブルの上の花に気づいた。
「あれ?」
「どうしました?」
「これ、花……」
「昼間、買ってきました」
「白瀬さんが?」
「はい」
「珍しい」
「……そうですか?」
「だって、前に花とか興味ないって言ってませんでした?」
「そうでしたっけ」
「言ってました」
朔が花を見る。
「綺麗ですね」
「そうですね」
「なんか、いいな」
朔が笑う。
「家に花があるの」
「私もそう思います」
二人はしばらく花を眺めた。
それだけだった。
けれど依央は、買ってきてよかったと思った。
*
朔が花を眺め終えると、依央はキッチンへ向かった。
「ご飯ありますよ」
「本当?」
「温めれば食べられます」
「ありがとう……」
朔が椅子に座る。
「今日、何があったんですか?」
「会議が長引いて」
「大変でしたね」
「はい……」
朔はぐったりしていた。
依央は何も言わず、味噌汁を温める。
そしてテーブルへ置く。
「どうぞ」
「……白瀬さん」
「はい?」
「こういうの、いいですね」
「何がですか?」
「帰ってきたら、ご飯があるの」
依央は少し戸惑った。
「いつも作ってるわけじゃないですよ」
「でも、今日はある」
「たまたまです」
「それでも嬉しいです」
朔が笑う。
「いただきます」
「どうぞ」
朔はゆっくり食事を始めた。
その姿を見ながら、依央は思った。
誰かのために料理を作るのも、悪くない。
そんなことを考えている自分に、少し驚いた。
*
食事が終わったあと。
朔が食器を片付ける。
「私、洗います」
「いいですよ」
「今日は私がやります」
「でも疲れてるでしょう」
「だからこそです」
朔は笑う。
「食べさせてもらったんだから、これくらいします」
二人で並んでキッチンに立つ。
水の音。
食器の音。
時々交わす短い会話。
「そういえば、白瀬さん」
「はい?」
「仕事、どうですか?」
「まだ探してます」
「焦ってます?」
「……少し」
「そっか」
朔は食器を拭きながら言った。
「でも、焦らなくてもいいんじゃないですか?」
「どうして?」
「ちゃんと休む時間も必要ですよ」
「……」
「私だったら、たぶん一か月も休んだら罪悪感で死にそうですけど」
「久住さんらしいですね」
「そう?」
「はい」
二人で笑う。
その笑い声が、夜の部屋に響いた。
*
その夜。
依央は自分の部屋に戻った。
机の上には、今日買った花の写真がある。
朔が、
「写真撮っておこう」
と言ったから撮ったものだ。
スマートフォンを見つめる。
そして、ふと考えた。
この生活は、あと一か月ほどで終わる。
工事が終われば、自分は元の部屋に戻る。
当然のことだ。
最初からその約束だった。
期間限定の同居。
それ以上でも、それ以下でもない。
なのに――。
「……戻ったら、どうなるんだろう」
ぽつりと呟く。
自分の部屋に戻る。
また一人になる。
それまでと同じ生活に戻るだけ。
それなのに。
想像すると、なぜか胸の奥が少しだけざわついた。
依央はその理由を考えようとした。
けれど、答えは出なかった。
ただ一つ。
隣の部屋に誰かがいる生活を、思っていた以上に気に入っている。
それだけは、分かった。
依央は布団に入った。
目を閉じる。
しばらくすると、隣の部屋から小さな物音がした。
朔もまだ起きているらしい。
依央は目を閉じたまま、少しだけ笑った。
そして、そのまま眠りについた。




