第四章 少しだけ近く 中編
土曜日の朝。
依央は、いつもより少し遅く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床を明るく照らしている。
時計を見る。
午前九時。
「……寝すぎた」
会社に勤めていた頃なら、とっくに起きている時間だった。
けれど今は、急いで起きる理由がない。
依央は布団の中で少し伸びをしてから、ゆっくりと起き上がった。
着替えて部屋を出る。
リビングへ向かうと、朔の姿はなかった。
「……まだ寝てるのかな」
キッチンを見る。
テーブルの上に、メモが一枚置かれていた。
『コンビニ行ってきます。起きたらコーヒー飲んでください』
依央はその文字を見て、思わず笑った。
「……なんで分かったんだろ」
冷蔵庫を開ける。
牛乳が少なくなっている。
そういえば昨日、朔が「明日買わないと」と言っていた。
依央はメモをテーブルに戻した。
そのとき、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
「あ、起きてた」
朔がコンビニ袋を持って入ってくる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「今起きたんですか?」
「はい」
「珍しいですね」
「たまにはいいかなって」
「いいと思います」
朔は袋から牛乳とパンを取り出した。
「朝ごはん、食べました?」
「まだです」
「じゃあ、一緒に食べましょう」
「はい」
朔がパンをテーブルに並べる。
依央はコーヒーを淹れる。
いつの間にか、何も言わなくても役割が決まっていた。
*
「今日、何します?」
朝食を食べながら、朔が聞いた。
「特に決めてないです」
「私もです」
「じゃあ、ゆっくりします?」
「それもいいですね」
二人とも仕事が休み。
予定はない。
以前なら、それぞれ自分の部屋で過ごしていたはずだ。
けれど今日は、どちらからともなくリビングに残っていた。
テレビをつける。
適当な番組を見る。
朔がソファに座る。
依央も少し離れて座る。
しばらくして、朔がリモコンを手に取った。
「映画でも見ません?」
「何かあります?」
「いくつかありますよ」
朔が動画サイトを開く。
「これ、前から気になってたんです」
「じゃあ、それにしましょう」
「いいんですか?」
「はい」
「じゃあ決まり」
映画が始まる。
二人とも黙って画面を見る。
最初は少し距離を空けていた。
けれど時間が経つにつれて、朔が少しずつソファの端から中央へ移動していく。
気づけば二人の肩の距離は、最初より近くなっていた。
依央は気づいていた。
けれど、何も言わなかった。
朔も何も言わない。
ただ、同じ画面を見ている。
映画が終わる。
「面白かったですね」
「はい」
「白瀬さん、途中寝てませんでした?」
「……少しだけ」
「やっぱり」
「久住さんだって眠そうでしたよ」
「私はちゃんと見てました」
「嘘です」
「ばれました?」
二人で笑う。
時計を見る。
午後三時を少し過ぎていた。
*
「お茶、飲みます?」
「お願いします」
依央がキッチンへ向かう。
冷蔵庫から麦茶を出す。
グラスを二つ。
テーブルへ戻る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
朔がグラスを受け取る。
しばらく二人で麦茶を飲む。
窓の外は明るい。
休日の午後。
何もない。
それなのに、不思議と退屈ではなかった。
「こういう日って、いいですね」
朔が言った。
「何もしてないのに?」
「何もしないからいいんですよ」
「なるほど」
「白瀬さんは、休日っていつも何してたんですか?」
「一人で映画見たり、本読んだり」
「今とあまり変わらないですね」
「そうですね」
「でも、今は私がいる」
朔がさらりと言った。
「……そうですね」
依央も答える。
それだけだった。
けれど、二人とも少しだけ笑った。
*
夕方。
朔が夕飯を作ると言い出した。
「今日は私が作ります」
「本当に?」
「この前、白瀬さんが作ってくれたので」
「何を作るんですか?」
「パスタ」
「パスタなら大丈夫そうですね」
「なんで少し不安そうなんですか?」
「久住さん、料理苦手って言ってましたよね」
「パスタくらい作れます」
「期待してます」
「任せてください」
キッチンに二人で立つ。
朔が鍋に水を入れる。
依央は横で見ている。
「塩ってどれくらい?」
「適当でいいですよ」
「適当が一番困るんですけど」
「じゃあ少し」
「少しってどれくらい?」
「……このくらい」
依央が手を伸ばす。
「多いです」
「そう?」
「はい」
「じゃあ白瀬さんがやってください」
「最初からそうしてください」
「ひどい」
二人で笑う。
パスタが完成する。
皿に盛る。
テーブルへ運ぶ。
「いただきます」
「いただきます」
朔が一口食べる。
「……どう?」
「美味しいです」
「本当に?」
「はい」
「よかった」
朔は嬉しそうに笑った。
依央も一口食べる。
「……美味しい」
「でしょう?」
「ちょっとだけ塩辛いですけど」
「やっぱり?」
二人で笑った。
*
夜。
片付けを終え、依央はリビングの窓を閉めた。
そのとき、テーブルの上に置かれていた書類が目に入った。
マンション工事の日程表。
依央は無意識に手を伸ばす。
あと三週間ほど。
そして――。
工事が終われば、自分は元の部屋へ戻る。
そうだった。
最初から決まっていた。
「……白瀬さん?」
後ろから朔の声。
「はい?」
「どうしました?」
「いえ」
依央は書類を戻す。
「工事、もうすぐですね」
「ああ……」
朔も書類を見る。
「そうですね」
「あと三週間か」
「早いですね」
朔が小さく呟いた。
その声が、少しだけ寂しそうに聞こえた。
依央は何も言えなかった。
「……戻るんですよね」
朔が聞く。
「はい」
「元の部屋に」
「そうですね」
短い会話。
それだけ。
なのに、二人の間に妙な沈黙が生まれた。
「……そういう約束でしたから」
朔が笑った。
「ですよね」
依央も頷く。
その夜。
依央は自分の部屋へ戻った。
布団に入ってからも、さっきの会話が頭から離れなかった。
元の部屋に戻る。
それが当たり前。
それが最初から決まっていたこと。
なのに。
「……どうしてだろう」
依央は天井を見つめた。
戻ることを考えると、少しだけ寂しい。
*
一方。
朔も自分の部屋で、ベッドに横になっていた。
スマートフォンを眺める。
時計は午後十一時半。
明日は仕事。
早く寝なければならない。
でも、なかなか眠れない。
「……あと三週間か」
小さく呟く。
依央がここへ来てから、一か月以上。
最初は二か月なんて長いと思っていた。
でも、今は――。
短い。
そう感じていた。
隣の部屋。
壁一枚向こうには、依央がいる。
そう思うと、不思議と安心する。
朔は目を閉じた。
明日の朝も、きっと「おはよう」と言える。
それだけでいい。
今は、それで十分だと思った。
まだ二人は知らない。
この頃から少しずつ生まれ始めていた小さな寂しさが、やがて二人の関係を変えていくことを。




