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第四章 少しだけ近く 後編


 日曜日の朝。


 依央が目を覚ましたのは、午前八時過ぎだった。


 カーテンの向こうから、柔らかな光が差し込んでいる。


 昨日は少し夜更かしをした。


 それでも、目覚ましをかけずに眠れるというのは気持ちがいい。


 依央は布団から出ると、ゆっくり着替えた。


 リビングへ向かう。


 テーブルには、すでに朝食が並んでいた。


「……あ」


「おはようございます」


 朔がキッチンから顔を出す。


「おはようございます」


「よく寝てましたね」


「久住さんは?」


「私はさっき起きました」


「そうなんですか」


「コーヒー、淹れてありますよ」


 テーブルの上にマグカップが二つ。


 依央は椅子に座った。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 パンと卵。


 それから簡単なサラダ。


「朝ごはん、作ったんですか?」


「昨日のパスタで自信がつきました」


「それはちょっと心配です」


「ひどい」


 朔が笑う。


「でも、今日はちゃんと食べられます」


「いただきます」


「いただきます」


 二人で朝食を食べる。


 特別なことは何もない。


 それでも、穏やかな時間だった。


     *


 朝食を終えたあと、朔がスマートフォンを見た。


「今日、天気いいですよ」


「本当ですね」


「どこか行きません?」


「どこか?」


「せっかく二人とも休みなので」


 依央は窓の外を見る。


 雲の少ない空。


 風も穏やかそうだ。


「……いいですね」


「やった」


「どこへ行きます?」


「それを今から考えます」


「決めてないんですか?」


「決めてません」


「久住さんらしいですね」


「どういう意味ですか?」


「なんとなくです」


 二人でスマートフォンを覗き込む。


 近くの公園。


 商店街。


 映画館。


 少し離れた場所の水族館。


 候補はいくつか出た。


 けれど、結局。


「これにしません?」


 朔が指差したのは、駅から少し歩いたところにある小さな喫茶店だった。


「ここ?」


「前から気になってたんです」


「じゃあ、行きましょう」


「決まり」


     *


 昼前。


 二人は家を出た。


 駅までの道を歩く。


「こうやって二人で出かけるの、初めてですね」


「そうですね」


「なんか不思議」


「何がですか?」


「最初は、廊下で会ったら挨拶するくらいだったのに」


「確かに」


「それが今は、一緒に住んで、一緒にご飯食べて」


 朔が少し笑う。


「一緒に出かけてる」


「……そうですね」


 依央も笑った。


 喫茶店に着く。


 窓際の席に座る。


 注文したケーキとコーヒーが運ばれてくる。


「美味しそう」


「写真撮ります?」


「撮ります」


 朔がスマートフォンを構える。


「ちょっと待ってください」


「どうしました?」


「二つ並べたほうがいいです」


 依央のケーキと朔のケーキを並べる。


 写真を撮る。


「いい感じ」


「本当に撮るんですね」


「思い出ですよ」


 朔が写真を見せる。


 依央も画面を見る。


 そこには、二人分のケーキとコーヒー。


 ただそれだけの写真。


 でも――。


 なぜか消したくないと思った。


     *


「白瀬さん」


「はい?」


「仕事、どうですか?」


 ケーキを食べながら、朔が尋ねる。


「この前、一件応募しました」


「本当ですか?」


「はい」


「どうでした?」


「まだ結果待ちです」


「そっか」


 朔が嬉しそうに笑う。


「よかったですね」


「何がですか?」


「ちゃんと前に進んでる」


 依央は少し黙った。


「……そうですね」


「急がなくていいですよ」


「はい」


「白瀬さんなら、きっと大丈夫です」


「……ありがとうございます」


 依央はコーヒーを一口飲んだ。


 誰かにそんなふうに言われるのは、久しぶりだった。


     *


 帰り道。


 駅からマンションへ向かって歩いていると、朔が突然立ち止まった。


「どうしました?」


「ちょっと寄りたいところがあります」


 朔が向かったのは、小さな雑貨店だった。


「ここ、好きなんです」


「へえ」


 店内には食器や小物、インテリア雑貨が並んでいる。


 朔は楽しそうに商品を見る。


「白瀬さん、これどう思います?」


 小さなマグカップだった。


「可愛いですね」


「ですよね」


「買うんですか?」


「迷ってます」


 朔はカップを手に取ったり戻したりする。


「……買えばいいんじゃないですか?」


「白瀬さん、意外と背中押しますね」


「久住さんが欲しそうなので」


「じゃあ買います」


 朔はレジへ向かった。


 店を出る。


「ありがとうございました」


「どういたしまして」


 依央が笑う。


「何ですか?」


「いえ」


 朔も笑った。


     *


 家に戻ったのは、午後三時過ぎだった。


 買ったばかりのマグカップを洗う。


 そして、二人でキッチンに立つ。


「これ、白瀬さん用です」


「え?」


 朔が新しいマグカップを差し出した。


「私が使うんですか?」


「二つ買ったんです」


「……」


 依央はもう一つのカップを見る。


 色違い。


「お揃いですか?」


「嫌ですか?」


「……嫌じゃないです」


「よかった」


 朔は嬉しそうに笑った。


 二つのマグカップを棚に並べる。


 以前まで、そこには朔のカップしかなかった。


 今は二つある。


 それが、妙に自然だった。


     *


 午後三時半。


 二人は新しいマグカップでコーヒーを飲んでいた。


 窓から入る風が心地いい。


「この時間、好きです」


 朔が言った。


「午後三時?」


「はい」


「どうして?」


「静かだから」


 朔は窓の外を見る。


「仕事の日は、こんな時間に家にいないですから」


「確かに」


「こういう時間に白瀬さんとコーヒー飲めるのも、今だけなんですよね」


 依央は黙った。


 今だけ。


 その言葉が、胸に引っかかった。


「……そうですね」


「工事が終わったら、戻っちゃいますもんね」


「はい」


「……なんか、寂しいな」


 朔が小さく呟いた。


 依央はマグカップを両手で包んだ。


「私も」


「え?」


「……少し、寂しいです」


 朔が依央を見る。


 目が合う。


 二人とも、すぐには何も言わなかった。


 やがて朔が笑った。


「じゃあ」


「はい?」


「工事が終わるまで、もっと一緒に遊びましょう」


「……遊ぶ?」


「映画とか、買い物とか」


「分かりました」


「約束ですよ」


「はい」


 依央も笑った。


     *


 夜。


 依央は自分の部屋に戻った。


 今日撮った写真を眺める。


 ケーキ。


 新しいマグカップ。


 そして、二人で歩いた道。


 どれも大した写真ではない。


 それでも、依央は一枚ずつ見返していた。


 その中でも、一番最後に撮った写真。


 二つのマグカップが並んでいる写真を見つめる。


「……お揃い」


 小さく呟く。


 少しだけ、嬉しい。


 そんな気持ちを抱えたまま、依央はスマートフォンを伏せた。


     *


 同じ頃。


 朔も自分の部屋で、今日の写真を眺めていた。


「……楽しかったな」


 自然と笑みがこぼれる。


 同居を始めたばかりの頃は、二か月という期間が長く感じた。


 けれど今は。


 残された時間が少しずつ短くなっているように思える。


「……もっと長かったらいいのに」


 口にしてから、朔は自分で少し驚いた。


 どうしてそんなことを思ったのだろう。


 答えは分からない。


 ただ。


 明日の朝も、リビングへ行けば依央がいる。


 そのことが嬉しかった。


     *


 夜が深くなる。


 それぞれの部屋で、二人は眠りにつく。


 壁一枚を隔てて。


 すぐ近くにいる。


 まだ二人は、それを恋とは呼ばない。


 ただ一緒にいることが心地いい。


 話をするのが楽しい。


 帰ってくるのを待ちたくなる。


 そんな小さな気持ちが積み重なっているだけ。


 けれど。


 人を大切に思う気持ちは、いつも突然生まれるわけではない。


 何気ない毎日の中で。


 気づかないほどゆっくりと。


 少しずつ、その人の存在が自分の中で大きくなっていく。


 そして二人はまだ知らない。


 この「少しだけ近くなった距離」が――。


 やがて、二人自身にも戻せないほど近くなることを。


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