第五章 帰宅を待つ理由 前編
同居生活が始まって、もうすぐ二か月になる。
最初にこの家へ来た日のことを、白瀬依央は時々思い出す。
大きな旅行鞄を二つ持って、玄関の前に立っていた。
たった二か月。
マンションの工事が終わるまでの、ほんの一時的な生活。
そう思っていた。
だから、特別なものを持ち込むつもりもなかった。
必要最低限の荷物だけ。
生活用品も、できるだけ増やさない。
終われば元の部屋へ戻る。
それだけのはずだった。
ところが。
今では、洗面所には依央の歯ブラシがあり、冷蔵庫には依央の好きな飲み物が入っている。
リビングの棚には、朔と色違いのマグカップ。
そしてテーブルの上には――。
「……これ、いつ撮ったんだろう」
依央はスマートフォンの写真を眺めていた。
喫茶店で撮った二人分のケーキ。
新しいマグカップ。
近所の公園。
スーパーで買った食材。
どれも大した写真ではない。
けれど、いつの間にか写真の中に朔が増えていた。
そして、そのことを嫌だとは思わなかった。
「白瀬さん」
「はい?」
リビングの入口から声がする。
朔だった。
「何見てるんですか?」
「写真です」
「私?」
「……はい」
「見せてください」
「嫌です」
「なんで?」
「恥ずかしいので」
「私が写ってるだけじゃないですか」
「だからです」
朔が笑う。
「じゃあ、私も見ません」
「ありがとうございます」
そう言いながらも、依央は少し笑っていた。
*
朝食を終えたあと。
朔は出勤の準備を始めた。
「今日、少し遅くなるかもしれません」
「何時くらいですか?」
「八時……いや、九時くらいかな」
「分かりました」
「先に食べててくださいね」
「はい」
朔が玄関へ向かう。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる。
静かになる。
依央はしばらく玄関を見ていた。
そして、自分でも少し不思議に思う。
以前は、一人になることに何も感じなかった。
朔が仕事へ行く。
自分は家に残る。
それだけ。
なのに今は。
「帰ってくるのは遅いんだな」
そんなことを考えている。
「……おかしいな」
小さく呟いた。
*
午前中。
依央は転職活動をしていた。
以前応募した会社から連絡が来ている。
面接の日程。
来週の午後。
依央は予定を確認した。
問題ない。
返信を送る。
これで一つ、前へ進んだ。
会社を辞めた直後は、何をしたいのか分からなかった。
ただ逃げるように仕事を辞めてしまったような気もしていた。
けれど、朔と暮らすようになってから。
少しずつ生活のペースを取り戻している。
朝食を作る。
掃除をする。
買い物へ行く。
時々、朔と出かける。
そして、自分のこれからを考える。
以前よりも、落ち着いて物事を考えられるようになった。
「……久住さんのおかげかな」
口にしてから、依央は首を傾げる。
もちろん、全部が朔のおかげというわけではない。
でも――。
家に帰れば、話を聞いてくれる人がいる。
それだけで、気持ちは少し違った。
*
昼過ぎ。
依央はスーパーへ向かった。
夕飯の食材を買うためだ。
カゴに野菜を入れる。
肉を選ぶ。
豆腐を取る。
そして、朔の好きなものを一つ。
そこで依央は手を止めた。
「……また買ってる」
朔が好きだと言っていたプリン。
別に特別なものではない。
ただ、前に買っておいたら朔が喜んでいた。
だから、何となく手に取った。
依央はそのままカゴへ入れた。
「……まあ、いいか」
*
家に戻る。
買ったものを冷蔵庫へ入れる。
プリンを一番奥へ。
そのとき、冷蔵庫の中を見て、依央は少し笑った。
自分の好きなもの。
朔の好きなもの。
二人で食べるもの。
いつの間にか、冷蔵庫の中まで二人分になっていた。
依央は冷蔵庫を閉める。
時計を見る。
午後三時。
いつもの時間。
ソファに座る。
コーヒーを淹れる。
新しいマグカップ。
色違いの二つ。
依央は自分のカップを手に取った。
「……もう慣れたな」
最初は少し違和感があった。
でも今は、このカップを使うのが自然になっている。
窓の外を見る。
静かな午後。
この時間が好きだった。
何も起こらない。
ただ、穏やか。
そして――。
もう少しすれば、朔が帰ってくる。
そう思うだけで、なぜか安心する。
*
午後六時。
まだ帰ってこない。
七時。
まだ。
七時半。
スマートフォンを見る。
朔から連絡はない。
今日は遅くなると言っていた。
だから心配する必要はない。
それでも、依央は何度も時計を見た。
「……まだかな」
気づけば、夕飯の準備を始めていた。
鍋に火をかける。
野菜を切る。
味を整える。
二人分。
自然と二人分作っている。
そのことに気づいて、依央は少し手を止めた。
自分一人なら、適当に済ませるところだった。
でも今は。
「帰ってきたら食べてもらおう」
そんなふうに考えている。
*
午後八時四十分。
玄関の鍵が回った。
「ただいま……」
疲れた声。
依央はキッチンから顔を出す。
「おかえりなさい」
「あ……」
朔が少し驚いた顔をした。
「まだ起きてたんですか?」
「起きてますよ」
「もう寝てると思ってました」
「まだ八時ですよ」
「私には遅いんです」
朔が笑う。
そして、キッチンを見る。
「……いい匂い」
「夕飯、作ってあります」
「本当?」
「はい」
「待っててくれたんですか?」
依央は少し黙った。
「……たまたまです」
「またそれ言ってる」
朔が笑った。
「嬉しいです」
その言葉に、依央も少しだけ笑う。
「温めますね」
「お願いします」
*
食事を始める。
「いただきます」
「いただきます」
朔が一口食べる。
「美味しい」
「よかったです」
「今日、何かいいことありました?」
「どうして?」
「なんとなく、いつもよりちゃんとしてるから」
「……特にありません」
「そう?」
「はい」
朔はそれ以上聞かなかった。
しばらく二人で食事をする。
「そういえば」
朔が顔を上げた。
「マンションの工事、予定通りなら、あと二週間くらいですよね」
箸が止まる。
「……そうですね」
「早いなあ」
「はい」
「白瀬さん、戻る準備してます?」
「まだ何も」
「私も」
「久住さんは関係ないでしょう」
「関係ありますよ」
「どうして?」
朔は一瞬黙った。
「……二人で暮らしてるから」
「……」
「荷物とか、色々ありますし」
「そうですね」
それ以上、二人は話さなかった。
けれど。
依央は思った。
あと二週間。
この生活が終わるまで。
そんなに短いのか。
*
食事が終わる。
朔がプリンを見つけた。
「あっ」
「どうしました?」
「これ、私の好きなやつ」
「……たまたまです」
「また?」
「本当にたまたま」
「絶対違う」
朔は嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
二人でプリンを食べる。
特別な夜ではない。
豪華な料理でもない。
ただの平日の夜。
それでも、依央は思った。
こういう時間が好きだ。
誰かが帰ってきて。
一緒にご飯を食べて。
くだらない話をして。
笑って。
そして「おやすみ」と言って眠る。
そんな普通の生活。
それが今の自分には、とても心地よかった。
*
夜。
依央は自分の部屋に戻った。
ベッドに入る。
スマートフォンを見る。
そこには、二つのマグカップ。
昨日撮ったものだった。
依央は画面を見ながら考える。
元の部屋へ戻ったら。
このカップはどうするのだろう。
二人で買ったものだから、持って帰るわけにはいかない。
当然だ。
この家に置いていけばいい。
そう思った。
なのに。
「……ちょっと寂しいな」
小さな声が漏れた。
依央は布団をかぶる。
目を閉じる。
壁の向こうから、朔が歩く音がする。
いつもの生活音。
それを聞きながら、依央は眠りについた。
この頃にはもう。
依央はまだ自覚していなかった。
自分が待っているのは、単なる「同居人の帰宅」ではないことを。
そして――。
朔もまた、同じような気持ちを抱え始めていることを。




