第五章 帰宅を待つ理由 中編
翌朝。
依央はいつもより早く目を覚ました。
時計を見る。
午前六時半。
「……早い」
もう一度眠ろうと思った。
けれど、昨日の夜に聞いた朔の言葉が頭に残っていた。
――あと二週間。
同居生活が終わるまで、あと二週間。
依央は布団から出た。
顔を洗い、リビングへ向かう。
キッチンに立って、冷蔵庫を開ける。
「朝ごはん……」
いつものように二人分を考えてしまう。
そこで、依央は少しだけ笑った。
もう完全に習慣になっている。
*
「おはようございます……」
眠そうな声が聞こえた。
「おはようございます」
朔がリビングへ入ってくる。
「早いですね」
「今日はたまたま」
「白瀬さんが朝ごはん作ってるのも珍しい」
「いつも作ってますよ」
「そうでしたっけ?」
「そうです」
朔が椅子に座る。
「今日、何ですか?」
「卵焼きと味噌汁」
「最高」
「大げさです」
「朝から白瀬さんのご飯が食べられるんですよ?」
「……そう言われると、ちょっと恥ずかしいですね」
「褒めてます」
「分かってます」
二人で笑った。
*
朝食を食べ終える。
朔は出勤の準備を始める。
玄関で靴を履く。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「今日は昨日より早く帰れると思います」
「分かりました」
「……待っててくれます?」
朔が冗談っぽく言った。
依央は一瞬、答えに迷った。
「……夕飯、作っておきます」
「それ、待っててくれるってことですよね」
「どうでしょう」
「じゃあ、頑張って帰ります」
「はい」
ドアが閉まる。
依央は玄関を見つめた。
さっきの「待っててくれます?」という言葉が、なぜか心に残っていた。
*
午後。
依央は買い物へ出かけた。
夕飯の材料を買う。
それから、前に二人で行った喫茶店の近くまで足を伸ばした。
店の前を通る。
先日の写真を思い出す。
二人分のケーキ。
色違いのマグカップ。
何でもない一日。
でも、思い出すと自然に笑ってしまう。
「……また行きたいな」
口から出た言葉に、依央は自分で驚いた。
また。
その言葉を、自分は自然に使っていた。
工事が終わったあとも。
朔と一緒に。
そんな未来を、いつの間にか想像している。
依央は少しだけ立ち止まった。
けれど、すぐに歩き出した。
*
夕方。
依央は夕飯の準備を始めた。
今日は少し手の込んだものにする。
朔が好きだと言っていた料理。
下ごしらえを終えたところで、スマートフォンが鳴った。
朔からだった。
『ごめんなさい。今日、かなり遅くなりそうです』
依央は画面を見る。
『分かりました』
返信する。
少し考える。
『無理しないでくださいね』
送信。
すぐに既読がついた。
『ありがとうございます』
そのあと、
『白瀬さんも先に食べてください』
と続いた。
依央は少し迷ってから、
『……帰ってくるまで待ってます』
と送った。
送信した瞬間、胸が少しだけ熱くなった。
「……何言ってるんだろ」
取り消そうかと思った。
でも、その前に返信が来た。
『嬉しいです』
短い一言。
依央はスマートフォンを伏せた。
そして、夕飯の準備を続けた。
*
午後九時。
まだ帰ってこない。
依央はテレビをつけていた。
けれど、ほとんど内容は頭に入らない。
時計を見る。
九時半。
スマートフォンを見る。
連絡はない。
十時。
玄関を見る。
まだ。
さすがに少し心配になった。
依央はスマートフォンを手に取った。
『大丈夫ですか?』
送ろうとする。
しかし、その瞬間。
玄関の鍵が回った。
「ただいま……」
「おかえりなさい」
朔が入ってくる。
「……起きてたんですか?」
「待ってましたから」
依央が答える。
朔は少し驚いた顔をした。
「本当に待っててくれたんですね」
「約束しましたから」
「……嬉しい」
朔が笑った。
けれど、その笑顔には疲れが見える。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと疲れました」
「夕飯、温めますね」
「ありがとうございます」
*
食事をしている間、朔はほとんど喋らなかった。
いつもなら料理について何か言う。
今日は静かだった。
「久住さん」
「はい?」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「……無理してません?」
朔は少しだけ笑った。
「白瀬さんには、分かっちゃいます?」
「分かりますよ」
「そっか」
朔は箸を置いた。
「今日は仕事でちょっと失敗して」
「……」
「大したことじゃないんですけど、自分では結構引きずってて」
依央は何も言わず、朔の話を聞いた。
「帰ってきたら白瀬さんが待っててくれて」
朔が少し笑う。
「なんか、それだけで安心しました」
「……それならよかったです」
「ありがとうございます」
依央は頷いた。
励ます言葉は思いつかなかった。
でも、話を聞くことならできる。
それだけでいいと思った。
*
食事を終える。
朔が食器を洗おうとする。
「今日は私がやります」
「でも……」
「今日は疲れてるでしょう?」
「……はい」
「じゃあ、座っててください」
朔は素直にソファへ座った。
依央が食器を洗う。
水の音だけが響く。
しばらくして、背後から声がした。
「白瀬さん」
「はい?」
「こういうの、ずるいですよ」
「何がですか?」
「優しすぎます」
「普通ですよ」
「私には普通じゃないです」
依央は振り返った。
朔はソファに座ったまま、こちらを見ている。
「……ありがとう」
その言葉が、妙に真っ直ぐだった。
依央は少し照れた。
「どういたしまして」
*
その夜。
依央は自分の部屋へ戻った。
布団に入る。
スマートフォンを見る。
今日、朔から送られてきた「嬉しいです」というメッセージ。
それを何度か見返した。
依央は、ふと思った。
もし自分が元の部屋へ戻ったら。
こうして「ただいま」と言われることはなくなる。
帰りを待つこともない。
夕飯を二人分作ることもない。
色違いのマグカップも。
冷蔵庫に入れたプリンも。
全部、今だけのものになる。
「……嫌だな」
ぽつりと呟いた。
初めてだった。
はっきりと。
この生活が終わることを嫌だと思った。
その感情の名前を、依央はまだ知らない。
ただ――。
久住朔と離れる未来を想像すると、胸の奥が苦しくなった。
*
一方、朔も眠れずにいた。
ベッドの中で、今日のことを思い返す。
帰宅したら、依央が待っていてくれた。
夕飯が用意されていた。
話を聞いてくれた。
疲れている自分を、何も言わずに気遣ってくれた。
「……好きなのかな」
朔は呟いた。
けれど、その言葉の意味を深く考えるのが怖くて。
すぐに目を閉じた。
まだ二人は、同じ気持ちを同じ名前で呼ぶことができない。
けれど。
二人の距離は、確実に変わり始めていた。
そして残された時間は――。
あと二週間。




