↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/36

第五章 帰宅を待つ理由 中編


 翌朝。


 依央はいつもより早く目を覚ました。


 時計を見る。


 午前六時半。


「……早い」


 もう一度眠ろうと思った。


 けれど、昨日の夜に聞いた朔の言葉が頭に残っていた。


 ――あと二週間。


 同居生活が終わるまで、あと二週間。


 依央は布団から出た。


 顔を洗い、リビングへ向かう。


 キッチンに立って、冷蔵庫を開ける。


「朝ごはん……」


 いつものように二人分を考えてしまう。


 そこで、依央は少しだけ笑った。


 もう完全に習慣になっている。


     *


「おはようございます……」


 眠そうな声が聞こえた。


「おはようございます」


 朔がリビングへ入ってくる。


「早いですね」


「今日はたまたま」


「白瀬さんが朝ごはん作ってるのも珍しい」


「いつも作ってますよ」


「そうでしたっけ?」


「そうです」


 朔が椅子に座る。


「今日、何ですか?」


「卵焼きと味噌汁」


「最高」


「大げさです」


「朝から白瀬さんのご飯が食べられるんですよ?」


「……そう言われると、ちょっと恥ずかしいですね」


「褒めてます」


「分かってます」


 二人で笑った。


     *


 朝食を食べ終える。


 朔は出勤の準備を始める。


 玄関で靴を履く。


「じゃあ、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


「今日は昨日より早く帰れると思います」


「分かりました」


「……待っててくれます?」


 朔が冗談っぽく言った。


 依央は一瞬、答えに迷った。


「……夕飯、作っておきます」


「それ、待っててくれるってことですよね」


「どうでしょう」


「じゃあ、頑張って帰ります」


「はい」


 ドアが閉まる。


 依央は玄関を見つめた。


 さっきの「待っててくれます?」という言葉が、なぜか心に残っていた。


     *


 午後。


 依央は買い物へ出かけた。


 夕飯の材料を買う。


 それから、前に二人で行った喫茶店の近くまで足を伸ばした。


 店の前を通る。


 先日の写真を思い出す。


 二人分のケーキ。


 色違いのマグカップ。


 何でもない一日。


 でも、思い出すと自然に笑ってしまう。


「……また行きたいな」


 口から出た言葉に、依央は自分で驚いた。


 また。


 その言葉を、自分は自然に使っていた。


 工事が終わったあとも。


 朔と一緒に。


 そんな未来を、いつの間にか想像している。


 依央は少しだけ立ち止まった。


 けれど、すぐに歩き出した。


     *


 夕方。


 依央は夕飯の準備を始めた。


 今日は少し手の込んだものにする。


 朔が好きだと言っていた料理。


 下ごしらえを終えたところで、スマートフォンが鳴った。


 朔からだった。


『ごめんなさい。今日、かなり遅くなりそうです』


 依央は画面を見る。


『分かりました』


 返信する。


 少し考える。


『無理しないでくださいね』


 送信。


 すぐに既読がついた。


『ありがとうございます』


 そのあと、


『白瀬さんも先に食べてください』


 と続いた。


 依央は少し迷ってから、


『……帰ってくるまで待ってます』


 と送った。


 送信した瞬間、胸が少しだけ熱くなった。


「……何言ってるんだろ」


 取り消そうかと思った。


 でも、その前に返信が来た。


『嬉しいです』


 短い一言。


 依央はスマートフォンを伏せた。


 そして、夕飯の準備を続けた。


     *


 午後九時。


 まだ帰ってこない。


 依央はテレビをつけていた。


 けれど、ほとんど内容は頭に入らない。


 時計を見る。


 九時半。


 スマートフォンを見る。


 連絡はない。


 十時。


 玄関を見る。


 まだ。


 さすがに少し心配になった。


 依央はスマートフォンを手に取った。


『大丈夫ですか?』


 送ろうとする。


 しかし、その瞬間。


 玄関の鍵が回った。


「ただいま……」


「おかえりなさい」


 朔が入ってくる。


「……起きてたんですか?」


「待ってましたから」


 依央が答える。


 朔は少し驚いた顔をした。


「本当に待っててくれたんですね」


「約束しましたから」


「……嬉しい」


 朔が笑った。


 けれど、その笑顔には疲れが見える。


「大丈夫ですか?」


「ちょっと疲れました」


「夕飯、温めますね」


「ありがとうございます」


     *


 食事をしている間、朔はほとんど喋らなかった。


 いつもなら料理について何か言う。


 今日は静かだった。


「久住さん」


「はい?」


「本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


「……無理してません?」


 朔は少しだけ笑った。


「白瀬さんには、分かっちゃいます?」


「分かりますよ」


「そっか」


 朔は箸を置いた。


「今日は仕事でちょっと失敗して」


「……」


「大したことじゃないんですけど、自分では結構引きずってて」


 依央は何も言わず、朔の話を聞いた。


「帰ってきたら白瀬さんが待っててくれて」


 朔が少し笑う。


「なんか、それだけで安心しました」


「……それならよかったです」


「ありがとうございます」


 依央は頷いた。


 励ます言葉は思いつかなかった。


 でも、話を聞くことならできる。


 それだけでいいと思った。


     *


 食事を終える。


 朔が食器を洗おうとする。


「今日は私がやります」


「でも……」


「今日は疲れてるでしょう?」


「……はい」


「じゃあ、座っててください」


 朔は素直にソファへ座った。


 依央が食器を洗う。


 水の音だけが響く。


 しばらくして、背後から声がした。


「白瀬さん」


「はい?」


「こういうの、ずるいですよ」


「何がですか?」


「優しすぎます」


「普通ですよ」


「私には普通じゃないです」


 依央は振り返った。


 朔はソファに座ったまま、こちらを見ている。


「……ありがとう」


 その言葉が、妙に真っ直ぐだった。


 依央は少し照れた。


「どういたしまして」


     *


 その夜。


 依央は自分の部屋へ戻った。


 布団に入る。


 スマートフォンを見る。


 今日、朔から送られてきた「嬉しいです」というメッセージ。


 それを何度か見返した。


 依央は、ふと思った。


 もし自分が元の部屋へ戻ったら。


 こうして「ただいま」と言われることはなくなる。


 帰りを待つこともない。


 夕飯を二人分作ることもない。


 色違いのマグカップも。


 冷蔵庫に入れたプリンも。


 全部、今だけのものになる。


「……嫌だな」


 ぽつりと呟いた。


 初めてだった。


 はっきりと。


 この生活が終わることを嫌だと思った。


 その感情の名前を、依央はまだ知らない。


 ただ――。


 久住朔と離れる未来を想像すると、胸の奥が苦しくなった。


     *


 一方、朔も眠れずにいた。


 ベッドの中で、今日のことを思い返す。


 帰宅したら、依央が待っていてくれた。


 夕飯が用意されていた。


 話を聞いてくれた。


 疲れている自分を、何も言わずに気遣ってくれた。


「……好きなのかな」


 朔は呟いた。


 けれど、その言葉の意味を深く考えるのが怖くて。


 すぐに目を閉じた。


 まだ二人は、同じ気持ちを同じ名前で呼ぶことができない。


 けれど。


 二人の距離は、確実に変わり始めていた。


 そして残された時間は――。


 あと二週間。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。