第五章 帰宅を待つ理由 後編
翌週。
依央は、面接を受けた会社からの連絡を待っていた。
スマートフォンをテーブルに置く。
気にしないようにしているつもりでも、数時間おきに画面を確認してしまう。
「……落ち着かないな」
そう呟いた直後。
スマートフォンが震えた。
依央は反射的に手を伸ばす。
採用担当者からのメールだった。
画面を開く。
しばらく文章を読む。
そして――。
「……よかった」
思わず息が漏れた。
最終面接へ進むことになった。
まだ採用が決まったわけではない。
それでも、会社を辞めてから初めて「ここで働いてみたい」と思える場所だった。
依央は、そのメールを何度か読み返した。
そして、ふと気づく。
誰かに伝えたい。
真っ先に頭に浮かんだのは――。
「……久住さん」
依央は少し笑った。
*
夕方。
玄関の鍵が開く。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
朔がリビングへ入ってくる。
「今日、何かいいことありました?」
「分かります?」
「顔に出てます」
朔が笑う。
「実は――」
依央はメールを見せた。
「最終面接?」
「はい」
「すごい!」
朔の顔がぱっと明るくなる。
「よかったですね!」
「まだ決まってないですけど」
「でも一歩前進ですよ」
「……そうですね」
朔が嬉しそうに笑う。
「今日はお祝いしましょう」
「またですか?」
「またです」
「何を食べます?」
「今日は外食!」
「いいですね」
朔がスマートフォンを取り出す。
「どこにします?」
「任せます」
「じゃあ――」
二人で店を探す。
いつものように。
それがもう、当たり前になっていた。
*
夜。
二人は近所の小さなレストランへ行った。
料理を食べながら、朔が言う。
「白瀬さん」
「はい?」
「もし仕事が決まったら、生活変わりますね」
「そうですね」
「今みたいに家にいる時間、減りますよね」
「……そうですね」
依央も箸を止める。
今までは、朔が仕事へ行っている間も家にいた。
夕飯を作る。
帰宅を待つ。
それが日常だった。
仕事が始まれば、それは変わる。
「でも、いいことですよね」
朔が笑う。
「仕事が決まるんですから」
「はい」
依央も笑う。
けれど、少しだけ寂しかった。
*
帰宅。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい」
そのやり取りも、いつものものになっていた。
靴を脱ぐ。
鞄を置く。
コートを掛ける。
そして二人でリビングへ。
「今日、楽しかったですね」
「はい」
「また行きましょう」
「……また?」
「またです」
朔が笑う。
「工事が終わっても」
依央は足を止めた。
「……工事が終わっても?」
「はい」
朔は少し不思議そうな顔をする。
「だって、別に工事が終わったら会えなくなるわけじゃないですよね?」
「……」
「元の部屋に戻っても、隣人なのは変わらないですし」
依央は小さく笑った。
「そうですね」
「だから、また一緒にご飯食べたり」
「はい」
「映画見たり」
「はい」
「買い物したり」
「……はい」
朔が笑う。
「これからも、仲良くしてください」
その言葉に、依央は少しだけ胸が熱くなった。
「こちらこそ」
*
その夜。
依央は自分の部屋で、今日のことを考えていた。
工事が終わっても。
仕事が決まっても。
また二人で会う。
そう考えると、少し安心した。
同時に。
それだけでは足りないような気もした。
「……どうしてだろう」
理由は分からない。
ただ。
今までのような「隣人」に戻ることを考えると、少し寂しい。
もっと一緒にいたい。
もっと話したい。
もっと、この時間を続けたい。
そんな気持ちが、少しずつ大きくなっている。
*
翌朝。
「おはようございます」
「おはようございます」
二人で朝食を食べる。
いつもと同じ。
でも、少し違う。
依央はふと、朔の顔を見る。
朔もこちらを見ていた。
「……どうしました?」
「いえ」
「なんか見てませんでした?」
「見てません」
「絶対見てました」
「気のせいです」
二人で笑う。
それから、依央は何気なく言った。
「久住さん」
「はい?」
「今日も帰ってきますよね」
「もちろん」
「……そうですか」
「何ですか、それ」
「いえ」
依央は笑った。
けれど。
その言葉には、自分でも気づかないほどの意味が込められていた。
今日も帰ってきてほしい。
ただ、それだけ。
それだけのはずだった。
*
その日の夜。
朔は仕事から帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
依央が迎える。
いつもの光景。
けれど、二人は以前より少しだけ長く互いの顔を見ていた。
「……夕飯、食べます?」
「はい」
「今日は何も作ってないので、簡単なものでいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、一緒に作りましょう」
「はい」
二人でキッチンへ向かう。
肩が触れそうな距離。
以前なら少し気になったかもしれない。
今は、どちらも離れようとはしなかった。
ただ一緒にいる。
ただそれだけ。
それなのに。
二人の間には、以前にはなかった何かが生まれていた。
それをまだ、誰も言葉にはしない。
*
食事を終えたあと。
朔が洗い物をしている。
依央が隣で皿を拭く。
「白瀬さん」
「はい?」
「この生活、楽しいですね」
「……はい」
「工事、もうすぐ終わるけど」
「はい」
「なんか、終わってほしくないな」
依央の手が止まった。
朔も手を止める。
二人の目が合う。
「……私も」
依央は、今度は迷わず答えた。
朔が少し驚いた顔をする。
そして、柔らかく笑った。
「そっか」
「はい」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、その夜。
初めて二人は同じ気持ちを口にした。
――この生活が終わってほしくない。
まだ恋だとは分からない。
けれど。
二人の間にあるものは、もう「ただの隣人」という言葉だけでは、少しずつ説明できなくなっていた。
そして。
残された時間は――。
あと一週間。




