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第六章 あと一週間 前編


 月曜日の朝。


 いつものように、リビングには二つのマグカップが並んでいた。


 依央はコーヒーを淹れながら、カレンダーを見る。


 赤い丸が一つ付いている。


 マンションの工事完了予定日。


 その日まで――。


 あと一週間。


「……一週間か」


 思わず声に出した。


「何がですか?」


 後ろから朔の声がした。


 振り返る。


 寝起きの朔が、まだ少し眠そうな顔で立っている。


「おはようございます」


「おはようございます」


「あと一週間です」


「……ああ」


 朔もカレンダーを見る。


「そうですね」


 それだけ言って、黙った。


 以前なら。


 二か月の同居生活が終わることを、当然だと思っていた。


 工事が終わったら依央は元の部屋へ戻る。


 それが最初から決まっていた。


 だから、特に考える必要もなかった。


 けれど今は。


「……早いですね」


 朔が呟いた。


「はい」


「本当に、あと一週間なんだ」


「そうですね」


 二人とも、それ以上は言わなかった。


     *


 朝食。


 トーストと目玉焼き。


 いつもの朝。


 朔はコーヒーを飲みながら、何度もカレンダーを見る。


「久住さん」


「はい?」


「そんなに見ても、日付は変わりませんよ」


「分かってます」


「じゃあ、どうして?」


「……何となく」


 朔は視線を逸らした。


「白瀬さんは、戻る準備してます?」


「まだです」


「私も」


「でも、そろそろ荷物まとめないと」


「そうですね」


 また沈黙。


 依央はトーストを一口食べる。


 以前なら、この程度の沈黙は気にならなかった。


 今は違う。


 何となく、言葉を探してしまう。


「……久住さん」


「はい?」


「昨日のこと」


「昨日?」


「この生活が終わってほしくないって言ったこと」


 朔の手が止まる。


「あ……」


「覚えてます?」


「覚えてますよ」


「……私も、同じことを思ってます」


 朔はしばらく黙った。


「うん」


 そして、小さく笑った。


「知ってます」


     *


 午前。


 依央は一人で部屋の荷物を整理していた。


 最初に持ってきた二つの旅行鞄。


 その中に、少しずつ荷物を戻していく。


 服。


 本。


 小物。


 そして、机の上に置いていた写真立て。


 手に取った瞬間、依央は動きを止めた。


 この部屋に来たばかりの頃。


 まだ朔との距離が遠かった頃。


 あのときは、ただ二か月を過ごすだけだと思っていた。


 今は違う。


 荷物をまとめるだけなのに、胸が重い。


「……困ったな」


 写真立てを鞄に入れる。


 次に、本棚を見る。


 そこには、同居してから買った本が何冊か並んでいた。


 その中には、朔にすすめられたものもある。


 一冊手に取る。


 表紙を見る。


 すると、あの日のことを思い出した。


 喫茶店。


 二人分のケーキ。


 帰りに立ち寄った雑貨店。


 色違いのマグカップ。


 どれも、まだ最近の出来事なのに。


 ずっと前から続いていたような気がした。


     *


 昼過ぎ。


 リビングで休んでいると、朔が仕事から帰ってきた。


「ただいま」


「おかえりなさい」


「……あれ?」


 朔が部屋の中を見る。


「荷物、まとめてます?」


「少しだけ」


「そっか」


 朔は笑った。


「早いですね」


「あと一週間ですから」


「そうでした」


 朔は鞄を置いた。


 そして依央の部屋の前に置かれた旅行鞄を見る。


「なんか……寂しいですね」


「まだ一週間ありますよ」


「一週間しかない、とも言えます」


「……そうですね」


 朔は少しだけ俯いた。


「じゃあ、今週はいっぱい一緒にいましょう」


「仕事があるでしょう?」


「仕事が終わってからでも」


「毎日?」


「毎日」


 依央は少し笑った。


「じゃあ、そうしましょう」


「約束ですよ」


「はい」


     *


 その夜。


 二人は夕飯を作った。


 いつもより少しだけ豪華にする。


「何かのお祝いですか?」


 依央が聞く。


「一週間記念」


「何の?」


「あと一週間記念」


「そんな記念日あります?」


「今日作りました」


「また勝手に……」


 依央が笑う。


 朔も笑う。


 料理を並べる。


「いただきます」


「いただきます」


 二人で食べる。


 会話はいつも通りだった。


 今日仕事であったこと。


 テレビで見た話。


 近所の店の話。


 次に行ってみたい場所。


 何でもない話。


 でも。


 依央は思った。


 この何でもない話をする時間が、もうすぐ終わる。


 そう考えるだけで、胸の奥が苦しくなる。


     *


「白瀬さん」


「はい?」


「元の部屋に戻ったら、どうします?」


「どうするって?」


「生活」


「……普通に戻ります」


「そっか」


「久住さんは?」


「私も普通に」


 朔は少し笑った。


「でも、今までと同じにはならないですよね」


「……」


「だって、一緒に暮らしたんですから」


「そうですね」


「朝起きたら白瀬さんがいて」


「はい」


「帰ってきたら『おかえり』って言ってくれて」


「はい」


「ご飯も一緒に食べて」


「……はい」


「そういうの、なくなるんですよね」


 依央は答えられなかった。


 朔は慌てて笑う。


「すみません。なんか変なこと言いました」


「いえ」


 依央は静かに首を振る。


「私も、同じこと考えてました」


     *


 食事のあと。


 二人で洗い物をする。


 いつものように。


 依央が洗う。


 朔が拭く。


 けれど今日は、二人ともあまり話さなかった。


 やがて食器を全部片付ける。


「終わりましたね」


「はい」


「……何か飲みます?」


「コーヒーにします」


「じゃあ、私も」


 二人分のコーヒーを淹れる。


 色違いのマグカップ。


 いつもの場所。


 二人でソファに座る。


 窓の外は暗い。


 街の明かりが見える。


「ねえ、白瀬さん」


「はい?」


「工事が終わっても、こういう時間作りません?」


「こういう時間?」


「一緒にコーヒー飲んだり」


「……いいですね」


「あと、一緒にご飯食べたり」


「はい」


「映画見たり」


「はい」


「買い物行ったり」


「もちろん」


 朔は少し安心したように笑った。


「じゃあ、約束」


「約束です」


 依央も笑った。


     *


 夜。


 依央は自分の部屋へ戻った。


 ベッドに入る前に、スマートフォンを見る。


 今日撮った写真。


 二つのマグカップ。


 何気なく撮った一枚。


 依央はそれを眺めた。


 そして、今日の朔の言葉を思い出す。


 ――こういう時間作りません?


 依央は小さく笑った。


「……うん」


 誰も聞いていないのに、返事をする。


 工事が終わっても。


 仕事が決まっても。


 自分の部屋へ戻っても。


 朔との関係は続けたい。


 それは、もうはっきりしていた。


 ただ。


 それが「友達」なのか。


 「大切な隣人」なのか。


 それとも――。


 別の何かなのか。


 まだ、依央には分からない。


     *


 同じ頃。


 朔も自分の部屋で、スマートフォンを眺めていた。


 今日の写真。


 二つのマグカップ。


 そして、喫茶店で撮った二人分のケーキ。


「……増えたな」


 最初は一枚もなかった。


 それが今では、たくさんある。


 朔はその中から一枚を選ぶ。


 二人で並んで歩いた帰り道に撮った写真。


 画面を見つめる。


「あと一週間……」


 小さく呟く。


 寂しい。


 でも、それだけではない。


 もっと近くにいたい。


 もっと一緒にいたい。


 そんな気持ちが、少しずつ大きくなっている。


 朔はその気持ちを、まだ名前で呼ばなかった。


 呼んでしまえば。


 今までの関係には戻れない気がしたから。


     *


 翌朝。


 依央がリビングへ行くと、朔が先に起きていた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 テーブルには二つのマグカップ。


 いつもの光景。


 でも――。


 あと一週間。


 この景色を見られるのは、あと一週間。


 そう思うだけで、二人の胸には同じ寂しさが生まれていた。


 だから二人は。


 残された七日間を、できるだけ大切に過ごそうと決めた。


 まだ、この先に何が待っているのかも知らずに。


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