第六章 あと一週間 中編
依央はキッチンで朝食を作っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
朔が眠そうにリビングへ入ってくる。
「今日、早いですね」
「昨日早く寝たので」
「珍しい」
「失礼ですね」
二人で笑う。
テーブルには、いつもの二つのマグカップ。
けれど、今日はその横に小さなカレンダーが置かれていた。
工事完了まで――あと六日。
依央はそれを見て、少しだけ目を逸らした。
「……減っていきますね」
朔もカレンダーを見る。
「言わないでください」
「すみません」
「なんか寂しくなるので」
「……私もです」
二人はそれ以上言わず、朝食を食べた。
*
その日の夕方。
依央は買い物をしていた。
野菜。
肉。
牛乳。
そして――。
酒売り場の前で足を止める。
「……今日は飲もうかな」
いつもより少しだけ気分が重かった。
仕事を辞めてから、日中は比較的落ち着いている。
けれど、夜になると考えてしまう。
工事が終わったら。
元の部屋へ戻る。
そして、この生活は終わる。
依央は小さなボトルを一本、カゴに入れた。
それから、朔が好きだと言っていたものも一本。
「……これくらいなら」
*
午後七時。
玄関の鍵が開く。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
朔がリビングへ入る。
「今日は早いですね」
「頑張りました」
「お疲れさまです」
朔がテーブルを見る。
「……何ですか、これ?」
「お酒です」
「え?」
「今日は飲もうかなって」
朔の顔が明るくなる。
「いいですね!」
「久住さんも飲みます?」
「もちろん」
依央が二本のボトルを取り出す。
「これ、私が好きなやつ」
「こっちは?」
「久住さんが好きって言ってたやつ」
「……覚えてたんですか?」
「前に聞いたので」
「嬉しい」
朔が笑う。
「じゃあ、乾杯しましょう」
*
「乾杯」
「乾杯」
グラスが小さく触れる。
仕事終わりの一杯。
朔は嬉しそうに飲む。
「……美味しい」
「よかったです」
「家で飲むの、いいですね」
「楽ですからね」
「それに」
朔がグラスを置く。
「白瀬さんと飲めるし」
依央は少しだけ照れた。
「……それはどうも」
「なんですか、その反応」
「慣れてないので」
「何に?」
「そういうこと言われるの」
朔が少し笑った。
「じゃあ、これから慣れてください」
「……考えておきます」
*
夕飯を食べながら、二人は普段よりよく話した。
「白瀬さんって、昔から真面目だったんですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「自分では普通だと思ってました」
「私はもっと適当でした」
「知ってます」
「ひどい」
「でも、そういうところ嫌いじゃないです」
「……」
朔が固まる。
「今の、聞き間違い?」
「何がですか?」
「嫌いじゃないって」
「そのままです」
「……ずるいなあ」
朔が笑う。
依央も笑った。
少しだけ酔っている。
だからなのか。
普段より言葉が素直だった。
*
二杯目。
「白瀬さん」
「はい?」
「仕事辞めてから、後悔したことあります?」
依央はグラスを見つめた。
「……あります」
「やっぱり?」
「辞めたことじゃなくて」
「はい」
「もっと早く辞めればよかったって」
朔は黙って聞いている。
「無理してることに気づいてたのに、ずっと大丈夫だと思ってた」
「……」
「でも、久住さんと暮らしてから、少しずつ考えられるようになって」
依央は笑う。
「今は、辞めてよかったと思ってます」
「そっか」
「はい」
朔はグラスを持ったまま、依央を見る。
「私、白瀬さんが仕事辞めてくれてよかったって思ってます」
「どうして?」
「だって」
朔は少しだけ笑った。
「こうして一緒に暮らせたから」
依央の胸が、少しだけ高鳴った。
「……それは、私もです」
*
三杯目を開ける前に、朔が時計を見た。
「まだ飲めます?」
「私は大丈夫です」
「じゃあ、もう一杯だけ」
「はい」
グラスに注ぐ。
さっきより会話がゆっくりになる。
朔がソファにもたれる。
「あと六日ですね」
「……はい」
「短いなあ」
「本当に」
「最初は二か月って長いと思ってたのに」
「私もです」
「もっと早く仲良くなればよかった」
朔の言葉に、依央は少し考えた。
「でも、最初からこんなに仲良くなってたら」
「はい?」
「今よりもっと寂しくなってたかもしれません」
「……それもそうですね」
二人で笑う。
しばらく沈黙。
けれど、その沈黙は嫌ではなかった。
*
やがて、朔が立ち上がった。
「ちょっと酔いました」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
そう言った直後。
朔の身体が少しふらついた。
「ほら」
依央が腕を支える。
「危ないですよ」
「……ありがとうございます」
依央の手が、朔の腕に触れている。
距離が近い。
いつもなら、どちらかがすぐ離れていたかもしれない。
けれど今日は。
朔がそのまま依央を見る。
「白瀬さん」
「はい?」
「私たち、仲良くなりましたね」
「……そうですね」
「最初は、ただの隣人だったのに」
「はい」
「今は――」
朔が言葉を止める。
「今は?」
「……何でもないです」
朔は笑った。
依央も、それ以上聞かなかった。
*
その後、朔を部屋まで送り届ける。
「もう寝たほうがいいですよ」
「はい」
「水、ここに置いておきますね」
「ありがとうございます」
依央が部屋を出ようとする。
そのとき。
「白瀬さん」
「はい?」
「……明日も、一緒にご飯食べましょうね」
依央は笑った。
「もちろんです」
「約束」
「約束です」
ドアが閉まる。
依央は廊下に一人残った。
そして、自分の胸に手を当てる。
「……なんだろう」
心臓が少し速い。
お酒のせいだと思った。
きっとそうだ。
そう思うことにした。
*
翌朝。
「……頭痛い」
朔がリビングへ入ってきた。
「飲みすぎましたね」
「すみません……」
「水、飲みます?」
「ください」
依央が水を渡す。
「昨日、何か変なこと言ってませんでした?」
「変なこと?」
「私、結構酔ってたので」
「……特には」
依央は少しだけ嘘をついた。
朔が安心したように息を吐く。
「よかった」
けれど。
二人とも、昨夜のことを完全には忘れていなかった。
近かった距離。
触れた腕。
そして――。
「今は」と言いかけた朔の言葉。
それぞれの胸に、引っかかったまま残っている。
*
朝食を食べ終える。
朔が出勤の準備をする。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関で朔が靴を履く。
ドアを開ける。
そして、振り返った。
「白瀬さん」
「はい?」
「今日も帰ってきますから」
依央は一瞬、驚いた。
それから笑う。
「……待ってます」
朔も笑った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる。
依央はその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
そして気づく。
自分が待っているのは、もう「同居人の帰宅」ではない。
久住朔という、一人の女性が帰ってくることを。
そのことを、依央はまだ誰にも言えなかった。
もちろん、自分自身にも。




