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第六章 あと一週間 後編


 それからは、驚くほど早かった。


 朝になれば「おはようございます」。


 夜になれば「おかえりなさい」。


 一緒に朝食を食べて。


 仕事へ向かう朔を見送って。


 夕方になれば、帰りを待つ。


 夕飯を一緒に作って。


 時々、二人でお酒を飲む。


 特別なことは何もない。


 けれど。


 その何でもない時間が、二人にとって大切なものになっていた。


 そして――。


 工事完了の日が来た。


     *


「終わったみたいですね」


 朝。


 管理会社から届いた連絡を確認して、朔が言った。


「はい」


 依央もスマートフォンを見る。


 室内の確認が済めば、今日から元の部屋へ戻れる。


「……今日なんですね」


「はい」


 依央は静かに答えた。


 それだけなのに、胸が重くなる。


「荷物、今日戻します?」


「そうします」


「私も手伝います」


「大丈夫ですよ」


「駄目です」


「どうして?」


「一人でやったら寂しいじゃないですか」


「……」


 依央は少し笑った。


「じゃあ、お願いします」


「任せてください」


     *


 昼過ぎ。


 二人で依央の元の部屋へ向かった。


 ほんの隣。


 数週間前までは、依央が一人で暮らしていた場所。


 鍵を開ける。


 ドアを開く。


「……久しぶり」


 部屋の中は、工事前とほとんど変わっていなかった。


 家具も。


 本棚も。


 窓から見える景色も。


 全部、元のまま。


 なのに。


 依央には、少し違って見えた。


「どうですか?」


 朔が後ろから尋ねる。


「……懐かしいです」


「ですよね」


 依央は部屋の中へ入る。


 自分の部屋。


 自分の生活。


 戻ってきた。


 それなのに。


 なぜか、少し寂しい。


     *


「じゃあ、荷物運びましょう」


「はい」


 まず衣類。


 次に本。


 生活用品。


 細かなもの。


 少しずつ運んでいく。


「これで最後ですね」


 夕方。


 朔が最後の荷物を持ってくる。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 依央は自分の部屋を見渡した。


 すべて戻った。


 何も問題ない。


 これで、元の生活に戻れる。


 ――はずだった。


「……終わりましたね」


 朔が言った。


「はい」


 二人とも黙る。


 今まで暮らしていた部屋を見る。


 色違いのマグカップ。


 二人で使っていた調味料。


 冷蔵庫に残った食材。


 どれも、もう依央の部屋にはない。


 これからは、また別々になる。


「じゃあ……」


 朔が言葉を探す。


「今日から、隣人に戻りますね」


 依央の胸が締め付けられた。


「……そうですね」


 それしか言えなかった。


     *


 夕方。


 依央は自分の部屋で一人になった。


 荷物を整理する。


 服をしまう。


 本を戻す。


 写真立てを机へ。


 すべて元通り。


 なのに。


 何かが足りない。


「……静か」


 あまりにも静かだった。


 リビングへ行く。


 誰もいない。


 キッチンを見る。


 二つ並んでいたマグカップは、一つしかない。


 冷蔵庫を開ける。


 自分の好きなものばかり。


 朔が好きなプリンはない。


 依央は冷蔵庫を閉めた。


「……そっか」


 これが元の生活。


 これが、自分が戻りたかった場所。


 なのに。


 胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚がある。


     *


 午後七時。


 いつもの時間。


 以前なら夕飯を作り始める頃。


 依央はキッチンに立った。


 冷蔵庫を開ける。


 食材は一人分。


 適当に作る。


 皿を一枚だけ出す。


「……いただきます」


 静かだった。


 あまり美味しく感じない。


 食事を終える。


 食器を洗う。


 一人分なら、すぐ終わる。


 そして――。


 午後八時。


 誰も帰ってこない。


 当たり前だ。


 朔は隣の部屋にいる。


 でも。


 以前なら、この時間には必ず。


 「ただいま」


 という声が聞こえていた。


 今日は聞こえない。


 依央はソファに座った。


 テレビをつける。


 何となく見る。


 時計を見る。


 午後八時二十分。


 スマートフォンを見る。


 メッセージはない。


「……」


 依央はスマートフォンを置いた。


 数分後。


 また手に取る。


 朔にメッセージを送ろうか迷う。


 でも。


 何と送ればいい?


 「寂しいです」


 そんなことを言えるわけがない。


     *


 午後九時。


 依央はベランダへ出た。


 隣を見る。


 朔の部屋の明かりがついている。


 同じマンション。


 壁一枚どころか、ほんの数メートル。


 それなのに。


 今は遠く感じる。


 そのとき。


 隣のベランダに人影が現れた。


「……白瀬さん?」


「……久住さん」


 二人とも驚いた。


「まだ起きてたんですね」


「はい」


「私も」


 しばらく沈黙。


「……今日、どうでした?」


 朔が聞く。


「静かでした」


「私も」


「なんか……変ですね」


「何が?」


「昨日まで一緒にいたのに」


 依央は言葉を止めた。


「今日は、すごく遠く感じます」


 朔も黙る。


 そして、小さく笑った。


「私も同じです」


     *


 少しして。


 朔が言った。


「白瀬さん」


「はい?」


「明日、夕飯一緒に食べません?」


「……いいんですか?」


「もちろん」


「じゃあ」


 依央は少しだけ笑った。


「一緒に食べましょう」


「約束です」


「はい」


 二人はベランダ越しに笑った。


 ほんの数メートル。


 それだけの距離。


 けれど。


 以前より、互いの存在がずっと大きく感じられた。


     *


 その夜。


 依央はベッドに入った。


 目を閉じる。


 昨日まで聞こえていた生活音がない。


 隣から聞こえていた足音。


 ドアの開閉音。


 食器の音。


 そして――。


 「おやすみなさい」


 という声。


 全部なくなった。


 依央は布団を少しだけ引き上げた。


「……寂しい」


 初めて。


 自分の気持ちを、言葉にした。


     *


 一方。


 朔もベッドの中で、眠れずにいた。


 今日から依央はいない。


 正確には隣にいる。


 でも、隣人。


 以前と同じ。


 それなのに。


 全然違う。


「……会いたいな」


 小さく呟く。


 そして、自分で驚いた。


 たった一日。


 それだけなのに。


 こんなに会いたくなるなんて。


     *


 翌朝。


 依央が玄関を開ける。


 ちょうど同じタイミングで、隣のドアも開いた。


「あ」


「……おはようございます」


「おはようございます」


 二人とも少し笑う。


 それだけで、昨日より安心した。


「今日、夕飯」


 朔が言う。


「はい」


「一緒に食べましょうね」


「楽しみにしてます」


「じゃあ、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 朔が歩いていく。


 もう一緒の家ではない。


 けれど。


 これで終わりではない。


 むしろ――。


 離れてみたからこそ。


 二人は初めて、自分たちがどれほど互いを必要としていたのかを知り始めていた。


 そして。


 この日から二人の関係は、少しずつ新しい段階へ進んでいくことになる。


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