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第七章 隣の部屋、隣の人 前編


 翌日の夕方。


 依央は仕事を終えた朔が帰ってくる時間を、なんとなく気にしていた。


 昨日までなら、同じ部屋で帰宅を待っていた。


 今は違う。


 隣の部屋にいる。


 たったそれだけの違いなのに、ずいぶん遠く感じる。


 依央は冷蔵庫を開けた。


 昨日、一人分だけ作った夕飯とは違う。


 今日は二人分。


 約束したからだ。


 ――明日、夕飯一緒に食べません?


 昨夜、ベランダ越しに交わした言葉を思い出す。


「……何を作ろう」


 考えながら食材を取り出す。


 気がつけば、自然と朔の好きなものを選んでいた。


「また二人分作ってる」


 依央は苦笑した。


 同居していた頃の習慣が、まだ抜けていない。


 けれど。


 今日は、それでいいと思った。


     *


 午後六時半。


 玄関のチャイムが鳴った。


 依央がドアを開ける。


「こんばんは」


「……こんばんは」


 そこに朔が立っていた。


 仕事帰りらしく、鞄を肩に掛けている。


「今日はお邪魔します」


「どうぞ」


 以前は「ただいま」と「おかえり」だった。


 今日は違う。


 少しだけよそよそしい。


 それが二人とも気になった。


「……なんか変ですね」


 朔が靴を脱ぎながら言う。


「何がですか?」


「昨日まで普通に一緒に暮らしてたのに」


「今日はお客さんですからね」


「私、お客さんなんですか?」


「一応」


「じゃあ、帰りましょうか」


「それは困ります」


「ふふっ」


 朔が笑う。


 依央も笑った。


 ほんの少しだけ。


 昨日までの空気が戻ってきた。


     *


 テーブルには料理が並んだ。


「いただきます」


「いただきます」


 久しぶりに向かい合って食べる。


 同居中は隣同士だった。


 今日は向かい側。


 それだけなのに、少し距離があるように感じる。


「美味しいです」


「よかった」


「やっぱり白瀬さんのご飯、好きです」


「ありがとうございます」


「……」


「……」


 二人とも、そこで少し黙った。


 以前なら何気なく流せた言葉。


 今は妙に意識してしまう。


「そういえば」


 朔が話題を変えた。


「新しい仕事、いつからでしたっけ?」


「来週です」


「いよいよですね」


「はい」


「緊張してます?」


「少し」


「大丈夫ですよ」


「どうして?」


「白瀬さんなら大丈夫だから」


「……ありがとうございます」


 依央は小さく笑った。


     *


 食事を終える。


「洗い物、私がやります」


 朔が立ち上がる。


「いいですよ」


「駄目です」


「前と同じですね」


「前と同じにしたいので」


 その言葉に、依央の手が止まった。


「……そうですね」


 二人でキッチンへ向かう。


 依央が洗う。


 朔が拭く。


 以前と同じ役割。


 水の音を聞きながら、朔が言った。


「やっぱり、こっちのほうが落ち着きます」


「何が?」


「一緒にやるの」


「……私も」


 短い言葉。


 でも、それだけで十分だった。


     *


 洗い物を終えたあと。


 朔は帰ろうとした。


「じゃあ、そろそろ戻ります」


「はい」


 玄関まで見送る。


 靴を履く朔。


 ドアに手を掛ける。


「……」


 そのまま、少し止まった。


「どうしました?」


「いや……」


 朔が振り返る。


「また明日も来てもいいですか?」


 依央は少し驚いた。


「もちろんです」


「よかった」


 朔が笑う。


「じゃあ、おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 ドアが閉まる。


 静かになる。


 依央は玄関に一人立ったまま、しばらく動かなかった。


 そして小さく息を吐く。


「……やっぱり寂しいな」


     *


 自分の部屋へ戻った朔も、玄関の前で立ち止まっていた。


「……なんでだろう」


 たった数メートル。


 壁を挟んで隣にいる。


 それなのに。


 さっきまで一緒にいた依央と離れただけで、少し寂しい。


 朔は自分の部屋へ入った。


 リビングを見る。


 静か。


 一人分の食器。


 一人分の椅子。


 そして、棚に置かれたマグカップ。


 依央が以前使っていたものと同じものを、自分も持っている。


 朔はそれを手に取った。


「……明日も行こう」


 そう呟いてから、少し笑った。


     *


 翌日。


 午後三時。


 依央は仕事探しをしていた頃と同じように、いつもの場所でコーヒーを淹れた。


 癖だった。


 けれど、マグカップを一つしか出していないことに気づく。


「……」


 手が止まる。


 同居中なら、この時間は二人でコーヒーを飲んでいた。


 くだらない話をした。


 テレビを見た。


 何もしない時間を過ごした。


 それが、好きだった。


 依央は時計を見る。


 午後三時十分。


「……今頃、仕事中かな」


 朔のことを考えている。


 そのことに気づいて、依央は少し苦笑した。


「私、変わったな」


     *


 同じ頃。


 朔も仕事の休憩中だった。


 時計を見る。


 午後三時。


 ふと、昨日のことを思い出す。


 依央と飲んだコーヒー。


 向かい合って食べた夕飯。


 洗い物。


 玄関で交わした「おやすみなさい」。


 そして――。


 今頃、依央は何をしているだろう。


 そんなことを考えている自分に、朔も少し驚いた。


「……午後三時って、こんな時間だったっけ」


 以前は何も思わなかった。


 今は違う。


 午後三時になると、依央を思い出す。


     *


 その日の夜。


 仕事から帰った朔が、玄関前で立ち止まる。


 隣の部屋を見る。


 明かりがついている。


 朔はスマートフォンを取り出した。


『今から行ってもいいですか?』


 送信。


 すぐに返信が来る。


『待ってます』


 たった一言。


 それだけなのに、朔の顔が自然に緩んだ。


 隣の部屋のチャイムを押す。


 すぐにドアが開く。


「おかえりなさい」


 依央が言った。


 朔は少し目を丸くする。


「……ただいま」


 その瞬間。


 二人とも笑った。


 もう一緒には暮らしていない。


 でも。


 「おかえり」と「ただいま」は、まだ二人の間に残っていた。


 そしてそれは。


 二人がこれからも互いの生活の中にいたいと、無意識に確かめ合うような言葉になっていた。


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