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第七章 隣の部屋、隣の人 中編


 それから数日。


 依央と朔は、以前とは少し違う生活を送っていた。


 一緒には暮らしていない。


 けれど、夕方になるとどちらからともなく連絡をする。


『今日、一緒に食べます?』


『いいですよ』


 それが、ほとんど毎日のようになっていた。


 どちらかの部屋で夕飯を食べる。


 食後にコーヒーを飲む。


 時々、お酒も飲む。


 そして夜になれば、それぞれの部屋へ戻る。


 距離は数メートル。


 それなのに。


 同居していた頃より、互いを意識する時間は増えていた。


     *


 金曜日。


 依央が仕事を終えた朔を待っていると、玄関のチャイムが鳴った。


「はい」


「こんばんは」


「どうぞ」


 朔が入ってくる。


 手には小さな袋。


「何ですか?」


「これ、買ってきました」


 袋から出てきたのは、二人分の小さな瓶だった。


「お酒?」


「はい。前に飲んで美味しかったやつです」


「覚えてたんですね」


「白瀬さんが好きだって言っていたので」


 依央は少し笑った。


「ありがとうございます」


「今日は……飲みましょう」


「いいですね」


 朔はそう言ってから、ほんの少し視線を逸らした。


「その、ゆっくり」


「はい。ゆっくり」


     *


 夕飯を食べ終えたあと。


 二人はグラスにお酒を注いだ。


「乾杯」


「乾杯」


 一口飲む。


「美味しい」


「でしょう?」


「久住さん、今日は少し機嫌いいですね」


「分かります?」


「分かります」


「仕事が早く終わったので」


「それだけですか?」


 依央が何気なく尋ねると、朔はグラスの縁を指でなぞった。


「……それだけ、ではないかもしれません」


「そうなんですか?」


「はい。ここに来るのも、楽しみだったので」


 言ってから、朔は少しだけ目を伏せた。


「変なこと言いました?」


「いいえ」


 依央はグラスを持ち上げた。


「私も、楽しみにしていました」


 朔が顔を上げる。


「本当ですか?」


「はい」


「……よかった」


 その声が思ったより近くに響いて、依央は一瞬、返事を忘れた。


 テレビをつける。


 けれど、二人とも画面より会話のほうを楽しんでいた。


「そういえば」


 朔が言った。


「新しい仕事、来週からでしたよね」


「はい」


「忙しくなりますね」


「たぶん」


「じゃあ、こうやってご飯を食べるのも減ります?」


 依央はグラスを置いた。


「……どうでしょう」


「私は、減ってほしくないです」


「私も」


 答えが早すぎたのか、朔が少し驚いた顔をした。


「本当ですか?」


「はい。……できれば、今まで通りに」


「今まで通り、ですか」


「いえ」


 依央は言い直した。


「今までより、もう少し」


 朔の目がわずかに揺れた。


「もう少し?」


「……一緒にいる時間が、あってもいいと思います」


「それは、私も……」


 朔はそこで言葉を止めた。


「私も、そう思います」


 その笑顔を見て、依央も嬉しくなった。


     *


 二杯目。


 少しずつお酒が回ってくる。


 朔がソファにもたれる。


「白瀬さん」


「はい?」


「私たち、変ですよね」


「どうして?」


「別々の部屋に戻ったのに、毎日一緒にいる」


「……確かに」


「これじゃ、同居してたときとあまり変わらない」


「でも」


 依央は少し考えてから言った。


「今は、会いたいから会ってるんじゃないですか?」


 朔が黙った。


 グラスを持つ指が、わずかに止まる。


「……そうですね」


「前は工事があったから」


「はい」


「今は違う」


「……はい」


 短い返事なのに、そこには何かを確かめるような響きがあった。


 朔がグラスを見つめる。


「じゃあ、私たちは」


「はい?」


「どういう関係なんでしょう」


 依央は答えられなかった。


 友達。


 隣人。


 同居人。


 どれも間違ってはいない。


 でも。


 どれも少し違う気がした。


「……大切な人、じゃないですか?」


 依央が言った。


 朔が顔を上げる。


「大切な人……」


「はい」


「それって」


 朔は少し笑った。


「友達より、近いですか?」


 依央はすぐには答えなかった。


「……近い、と思います」


「隣人よりも?」


「それは、もちろん」


「じゃあ」


 朔の声が少しだけ小さくなる。


「恋人に近い、という意味ですか?」


 依央の胸が跳ねた。


「そこまでは……」


 言いかけて、依央は朔の顔を見た。


 期待しているようにも、怖がっているようにも見えた。


「……まだ、分かりません」


 正直に答える。


「でも、ただの友達や隣人ではないと思います」


 朔はしばらく黙っていた。


 やがて、ほっとしたように息を吐く。


「それなら、嬉しいです」


「はい」


「私も、まだ分からないです」


「何がですか?」


「この気持ちが、何なのか」


 朔はグラスの中身を見つめた。


「でも、白瀬さんと会えない日があると、少し寂しいです」


「私もです」


「白瀬さんが誰かと楽しそうに話していると、少し気になります」


 依央は目を瞬いた。


「……私も、たぶん」


「たぶん?」


「いえ。私も、気になります」


 朔が小さく笑った。


「それなら、同じですね」


「そうかもしれません」


 触れそうで触れない距離に、二人の手が置かれていた。


     *


 その後も、二人は話し続けた。


 子どもの頃のこと。


 好きな食べ物。


 苦手なこと。


 これからやってみたいこと。


 今まで話していなかったことまで、自然と口から出てくる。


「久住さんは、これからやってみたいことはありますか?」


「あります」


「何ですか?」


「……誰かと、遠くへ行ってみたいです」


「誰かと?」


「はい」


 朔は依央を見た。


「一人じゃなくて」


「それは、旅行ですか?」


「たぶん」


「たぶん?」


「相手によると思うので」


 依央は返事に迷った。


「私でよければ」


 朔の目が大きくなる。


「……本当ですか?」


「はい。私も、久住さんとなら」


 そこまで言って、依央は言葉を止めた。


「なら?」


「……落ち着いて過ごせそうです」


「それだけですか?」


 朔が少しだけからかうように笑う。


「それだけでは、ないかもしれません」


 依央がそう答えると、朔は頬を赤くした。


 そして気づけば、時計は午後十一時を回っていた。


「……もうこんな時間」


 朔が時計を見る。


「明日休みですよ」


「そうでした」


「じゃあ、もう少し飲みます?」


「飲みます」


 少し間を置いて、朔が続けた。


「……もう少し、ここにいてもいいですか?」


 依央は朔を見た。


「もちろんです」


 二人で笑う。


     *


 三杯目。


 朔は少し酔っていた。


「白瀬さん」


「はい?」


「私、最初は白瀬さんのこと、ちょっと怖かったです」


「え?」


「無口だったから」


「……よく言われます」


「でも、今は全然違います」


「そうですか?」


「優しいし」


「普通です」


「料理も上手だし」


「それはありがとうございます」


「それに――」


 朔が言葉を止めた。


「……何ですか?」


「何でもないです」


「気になります」


「秘密」


「ずるいですね」


「白瀬さんにだけは、まだ言えません」


「私にだけ?」


 朔はしまったというように目を伏せた。


「……今のは、忘れてください」


「無理です」


「どうしてですか?」


「気になるので」


「そんなに?」


「はい」


 依央がまっすぐ見つめると、朔は困ったように笑った。


「……いつか、言います」


「いつか?」


「はい。もう少し、私たちが……」


 朔はそこで言葉を探した。


「近くなったら」


 依央の心臓が、静かに大きく鳴った。


「今より、ですか?」


「……はい」


 二人で笑う。


 けれど、さっきまでの笑いとは少し違っていた。


 朔は少しだけ頬を赤くしていた。


 お酒のせいだけではないようにも見えた。


     *


 午後十一時半。


 朔が立ち上がる。


「じゃあ、今日は帰ります」


「はい」


「ごちそうさまでした」


「こちらこそ」


 玄関まで見送る。


 朔が靴を履く。


「……」


 ドアに手を掛けたまま、動かない。


「どうしました?」


「いや……」


 朔が振り返る。


「ここから隣に帰るだけなのに」


「はい」


「なんか、寂しいですね」


 依央の胸が少し痛んだ。


「……私もです」


「さっきまで、あんなに近くにいたのに」


「今も、すぐ隣ですよ」


「距離の話じゃないです」


 朔は言ってから、少し困ったように笑った。


「……すみません。変なことを」


「変じゃないです」


 依央はドアのそばに立ったまま、朔を見た。


「私も、もう少し一緒にいたいと思っていました」


 朔の表情が柔らかくなる。


「でも、帰らないといけないですね」


「はい」


「明日、また会えますか?」


「会えます」


「約束ですか?」


「約束です」


 朔は安心したように笑った。


「じゃあ、おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 ドアが閉まる。


     *


 依央は玄関を閉める。


 そして、壁を見る。


 向こう側には朔の部屋がある。


 ほんの数メートル。


 なのに。


 今は少し遠い。


 依央はリビングへ戻った。


 テーブルには、二人分のグラス。


 一つだけ片付ける。


 もう一つは、そのまま。


「……」


 さっきまで朔が座っていた場所を見る。


 笑い声。


 話し声。


 近くなったら、と言った朔の声。


 その全部が、まだ残っているような気がした。


     *


 一方。


 自分の部屋に戻った朔は、ベッドに腰を下ろした。


 スマートフォンを見る。


 依央とのメッセージ。


 たった一駅分でもない。


 すぐ隣なのに。


 なぜかメッセージを送りたくなる。


『今日は楽しかったです』


 入力する。


 送信。


 すぐに返信。


『私も楽しかったです』


 朔は笑った。


 それから少し考えて、


『また明日も一緒にいてもいいですか?』


 と送った。


 既読。


 そして。


『もちろんです』


 返ってきた。


 朔はスマートフォンを胸元に置いた。


 しばらく迷ってから、もう一度画面を開く。


『白瀬さん』


 そこまで入力して、指が止まる。


『好きです』


 そう打ち込んでみる。


 けれど、すぐに消した。


 代わりに、


『おやすみなさい』


 と送る。


 少しして、返信が届いた。


『おやすみなさい。明日、楽しみにしています』


 朔はその一文を何度も読み返した。


「……よかった」


     *


 翌日。


 午後三時。


 依央はコーヒーを淹れていた。


 今日は一人。


 でも、スマートフォンを見るとメッセージが届いた。


『午後三時ですね』


 依央は少し笑う。


『そうですね』


『今、コーヒー飲んでます?』


『飲んでます』


『私もです』


 少し間を置いて、朔から続けて届く。


『今日、そちらに行ってもいいですか?』


 依央は画面を見つめた。


 いつもなら、すぐに返事をする。


 けれど今日は、なぜか指が止まった。


『もちろんです』


 送信してから、依央は小さく息を吐いた。


 たった数行。


 それなのに。


 離れていても。


 同じ時間に同じことをしている。


 午後三時という時間が、二人を繋いでいる。


 依央は窓の外を見た。


 そして初めて思った。


 この時間を、ずっと大切にしたい。


 朔が隣にいることを。


 朔が自分を待っていることを。


 そして、自分も朔を待っていることを。


 その気持ちが何なのか。


 まだ、名前はつけられなかった。


 けれど。


 名前をつけてしまえば、もう元には戻れない気がした。


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