第七章 隣の部屋、隣の人 後編
午後三時を少し過ぎた頃。
依央は窓の外を眺めていた。
スマートフォンには、朔から届いたメッセージが表示されている。
『今日、そちらに行ってもいいですか?』
『もちろんです』
それだけのやり取り。
なのに、依央は少し嬉しかった。
同居していた頃なら、わざわざ確認する必要もなかった。
同じ家にいるのだから。
けれど今は違う。
たった数メートル離れた部屋にいる。
だからこそ。
「会いたい」と思って連絡してくれることが、以前より嬉しく感じられた。
依央は二つのマグカップを棚から取り出した。
一つは自分のもの。
もう一つは、同居していた頃に二人で買ったもの。
以前なら、二人で使うことが当然だった。
今は――。
朔が来たときだけ、もう一度二つ並ぶ。
「……これでいいかな」
コーヒーを淹れる。
そのとき。
チャイムが鳴った。
「はい」
「私です」
ドアを開ける。
「こんにちは」
「こんにちは」
朔が立っている。
「お邪魔します」
「どうぞ」
朔が入ってくる。
そして、テーブルの上を見る。
「……二つ」
「何がですか?」
「マグカップ」
「ああ」
依央は少しだけ目を逸らした。
「久住さんが来ると思ったので」
「……嬉しいです」
朔が笑う。
二人は向かい合って座った。
「いただきます」
「いただきます」
コーヒーを一口。
静かな午後。
テレビもつけていない。
ただ二人でいる。
それだけなのに、空気は穏やかだった。
*
「そういえば」
朔が口を開いた。
「昨日のこと、覚えてます?」
「昨日?」
「お酒飲んだとき」
「もちろん」
「私、変なこと言ってませんでした?」
「言ってましたよ」
「えっ」
朔の顔が固まる。
「何を?」
「秘密です」
「白瀬さんまでそれ言うんですか?」
「久住さんが先に言ったので」
「……何を言ったんですか、私」
「いつか教えます」
「いつかっていつ?」
「久住さんが言ってもいいと思ったとき」
「……ずるい」
朔は頬を膨らませた。
依央は思わず笑う。
「何ですか?」
「いえ」
「笑ってますよね?」
「少しだけ」
「ひどい」
そんなやり取りをしているうちに、二人とも笑い出した。
*
午後四時。
朔がスマートフォンを見る。
「そろそろ帰ります」
「もう?」
「はい。明日、仕事なので」
「そうですね」
朔が立ち上がる。
依央も玄関まで見送る。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「コーヒー、美味しかったです」
「また淹れますよ」
「……本当ですか?」
「はい」
朔が少し嬉しそうに笑う。
「じゃあ、また来ます」
「待ってます」
その言葉に、朔が一瞬止まった。
「……はい」
ドアが閉まる。
依央はその場に立ったまま、閉じたドアを見つめる。
そして。
「また来ます、か……」
小さく呟いた。
以前なら、何も思わなかった言葉。
今は、それだけで少し嬉しい。
*
その夜。
依央は夕飯を一人で食べていた。
向かいの椅子。
誰もいない。
けれど、昨日までとは違う。
今日、午後三時に朔とコーヒーを飲んだ。
それだけで、一人の夕飯も以前ほど寂しくなかった。
食事を終える。
食器を洗う。
そして、スマートフォンを見る。
朔からメッセージが届いていた。
『今日はありがとうございました』
依央は返信する。
『こちらこそ』
少し考える。
『明日も頑張ってください』
送信。
すぐに返事が来る。
『白瀬さんも』
依央は画面を見つめる。
それから、スマートフォンを伏せた。
*
翌日。
依央は新しい仕事の準備をしていた。
来週から始まる。
必要な書類。
服装。
通勤経路。
確認することは多い。
以前のように仕事だけで一日が終わる生活に戻る。
そう考えると、少しだけ不安だった。
でも。
今度は違う。
帰れば、隣に朔がいる。
同居はしていない。
それでも、隣にいる。
それだけで少し安心できる。
*
午後。
朔から連絡が来た。
『今日、仕事でちょっと失敗しました』
依央はすぐに返信した。
『大丈夫ですか?』
『大丈夫です。でも少し落ち込みます』
『帰ってきたら話聞きますよ』
既読。
少しして、
『……行ってもいいですか?』
と返ってきた。
『もちろん』
依央はそう返した。
けれど、その後。
ふと手を止めた。
自分から「待っている」と伝えたこと。
朔が落ち込んだとき、そばにいてあげたいと思ったこと。
それが自然になっている。
「……大切なんだな」
今度は、はっきりと口にした。
*
夜。
チャイムが鳴る。
依央がドアを開ける。
「こんばんは」
「こんばんは」
朔の表情は少し疲れていた。
「……入ってください」
「ありがとうございます」
朔が部屋へ入る。
依央は何も聞かず、キッチンへ向かった。
「コーヒーでいいですか?」
「はい」
「少し甘くします?」
「……お願いします」
依央がコーヒーを作る。
マグカップを二つ。
テーブルへ置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
朔が一口飲む。
しばらく黙っていた。
やがて。
「今日、ミスしてしまって」
「はい」
「自分ではちゃんとやったつもりだったんですけど」
「……」
「後から間違いに気づいて」
依央は急かさず聞いた。
朔が話し終える。
「だから、ちょっと落ち込んでました」
「そうだったんですね」
「はい」
「でも」
依央は朔を見る。
「久住さんが思っているほど、大きなことじゃないと思いますよ」
「……どうして?」
「今日もちゃんと仕事に行って、帰ってきたでしょう?」
「……」
「それだけでも十分だと思います」
朔が目を伏せる。
そして小さく笑った。
「白瀬さんって、本当に優しいですね」
「普通です」
「普通じゃないですよ」
朔はコーヒーをもう一口飲んだ。
「……来てよかった」
「それならよかったです」
*
しばらくして。
朔が顔を上げた。
「白瀬さん」
「はい?」
「私、白瀬さんに頼りすぎてませんか?」
「どうして?」
「仕事で嫌なことがあったら来て」
「はい」
「寂しくなったら来て」
「はい」
「楽しいことがあったら報告して」
「それも、はい」
「……迷惑じゃないですか?」
依央は少し考えた。
「迷惑だったら、部屋に入れてません」
「……」
「私は、久住さんが来てくれるの、嬉しいですよ」
朔が顔を上げる。
「本当に?」
「はい」
「……よかった」
朔は安心したように笑った。
*
時計を見る。
午後九時半。
「そろそろ帰ります」
「送ります」
「隣ですよ?」
「それでも」
二人で玄関へ向かう。
ドアを開ける。
廊下に出る。
ほんの数歩。
朔の部屋の前。
「じゃあ」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
朔が鍵を取り出す。
けれど、すぐには開けなかった。
「……白瀬さん」
「はい?」
「明日も、会えますか?」
依央は少し笑った。
「もちろんです」
「……約束」
「約束です」
朔が嬉しそうに頷く。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアが閉まる。
依央も自分の部屋へ戻る。
ほんの数メートル。
それだけなのに。
その夜は、不思議なくらい心が満たされていた。
*
翌日。
午後三時。
依央はコーヒーを淹れた。
二つ。
昨日までなら、一つで十分だった。
でも今は違う。
朔が来るかもしれない。
いや。
来てほしい。
そう思っている。
スマートフォンが震えた。
『午後三時です』
依央は笑う。
『分かってます』
『今日も一緒に飲みません?』
依央はすぐに返信した。
『もちろん』
送信してから、窓の外を見る。
午後三時。
同居していた頃は、二人で過ごすことが当たり前だった。
今は違う。
離れたからこそ、この時間を自分たちで選んでいる。
だからこそ。
午後三時は、ただの時間ではなくなっていた。
それは――。
離れていても、相手を思い出す時間。
そして。
会いたいと思ったとき、素直に会いに行くための時間。
依央は二つのマグカップを並べた。
その片方に、朔のためのコーヒーを注ぐ。
「……待ってます」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
まだ二人は、自分たちの気持ちに名前をつけていない。
けれど。
「隣人」だけでは、もう足りなくなり始めていた。




