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第八章 午後三時の約束 前編


 月曜日。


 依央にとって、新しい一週間の始まりだった。


 仕事が始まるまで、あと数日。


 机の上には、先週届いた採用通知と、入社に必要な書類が並んでいる。


 依央は一枚ずつ確認しながら、ため息をついた。


「……いよいよですね」


 会社を辞めてから、しばらく経った。


 あの頃は、これからどうするのかさえ決められなかった。


 それが今は。


 新しい仕事が決まり、来週から働き始める。


 少しだけ不安。


 でも、それ以上に楽しみだった。


 そのとき。


 スマートフォンが震えた。


『おはようございます』


 朔からだった。


 依央は小さく笑う。


『おはようございます』


『今日、仕事終わったら少し会えますか?』


 依央は時計を見る。


 まだ朝。


 それでも、夜の予定を聞かれただけで少し嬉しくなる。


『大丈夫ですよ』


『よかった』


 その短い返信を見て、依央は再び書類に目を戻した。


 けれど。


 さっきまでより、少しだけ気分が軽くなっていた。


     *


 夕方。


 仕事を終えた朔が帰ってくる。


 玄関のチャイムが鳴った。


「はい」


「こんばんは」


「どうぞ」


「失礼します」


 朔が部屋へ入る。


 手にはコンビニの袋があった。


「何ですか?」


「デザートです」


「珍しいですね」


「今日は甘いものが食べたくて」


「じゃあ、食後にしましょう」


「はい」


 依央が笑う。


 その自然なやり取りに、二人とも少しだけ安心していた。


     *


 夕飯を食べる。


 今日の話をする。


 仕事のこと。


 近所で見つけた店のこと。


 テレビで見た話。


 どれも大したことではない。


 けれど。


 以前より会話が増えていた。


「そういえば」


 朔が箸を置いた。


「この前のこと、覚えてます?」


「どれですか?」


「午後三時」


 依央が少し考える。


「ああ」


「私たち、あの時間になると連絡しますよね」


「最近は、そうですね」


「どうしてでしょう?」


「……習慣になったからじゃないですか?」


「それだけかな」


 朔は少し考える。


「同居してたとき、午後三時ってよく一緒にコーヒー飲んでましたよね」


「はい」


「仕事もしてなかった白瀬さんと、休みの日の私で」


「そうでしたね」


「最初は何とも思ってなかったのに」


「はい」


「今は午後三時になると、白瀬さんのこと考えます」


 依央は少しだけ驚いた。


「……私もです」


 朔が笑う。


「じゃあ、同じですね」


「そうですね」


     *


 食後。


 二人でデザートを食べる。


 朔が買ってきたプリン。


「美味しい」


「よかった」


「これ、どこで買ったんですか?」


「駅前です」


「今度一緒に行きません?」


「いいですね」


「じゃあ、今度」


「はい」


 また一つ。


 二人の予定が増える。


 それが依央には嬉しかった。


     *


 時計を見る。


 午後八時半。


「今日はどうします?」


 朔が尋ねる。


「どうするって?」


「帰ったほうがいいですか?」


「……」


 依央は少し考える。


「まだいてもいいですよ」


「本当ですか?」


「はい」


「じゃあ、もう少し」


 朔は嬉しそうに笑った。


 二人でテレビを見る。


 しばらくして、朔がソファに深く座り直す。


「ここ、落ち着きます」


「自分の部屋より?」


「……はい」


「それは困りますね」


「どうして?」


「帰る場所がなくなりますよ」


「ありますよ」


 朔は笑った。


「隣に」


 依央は何も言えなかった。


     *


 午後十時。


 朔が帰る準備をする。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


「デザートも美味しかったです」


「また買ってきてください」


「じゃあ、次は白瀬さんが選んでください」


「分かりました」


 玄関。


 朔が靴を履く。


「そうだ」


 朔が顔を上げる。


「来週からですよね」


「はい」


「新しい仕事」


「はい」


「初日は、緊張すると思います」


「たぶん」


「何かあったら、帰ってきてください」


「……ここに?」


「はい」


 朔が少し笑った。


「私のところにも、来てください」


「ありがとうございます」


「お互い様です」


 依央も笑う。


「じゃあ、おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 ドアが閉まる。


     *


 翌日。


 午後三時。


 依央はコーヒーを淹れていた。


 時計を見る。


 午後三時。


 スマートフォンを見る。


 メッセージはまだない。


 少し待つ。


 三時五分。


 三時十分。


「……今日は忙しいのかな」


 そう思ったところで、スマートフォンが震えた。


『遅くなりました』


『大丈夫です』


『今、コーヒー飲んでます?』


『はい』


『私もです』


 依央は笑った。


 そして、ふと思った。


 もし来週から仕事が始まったら。


 自分も午後三時に自由に連絡できなくなるかもしれない。


 そう考えると、少し寂しい。


 でも。


 だからこそ。


「約束にしてしまえばいいのかな」


 依央は呟いた。


     *


 その日の夜。


 朔が依央の部屋へ来た。


「今日、ちょっと相談があります」


「何ですか?」


「午後三時のことです」


「はい」


「来週から白瀬さんも仕事ですよね」


「そうですね」


「今までみたいに連絡できなくなると思うんです」


「私も、それを考えていました」


 朔が少し寂しそうに笑う。


「だから」


「はい」


「週に一回だけでも、午後三時に一緒にコーヒー飲みませんか?」


 依央は朔を見る。


「週に一回?」


「はい」


「仕事が休みの日に?」


「できれば」


 少しだけ考える。


 そして。


「……いいですね」


「本当ですか?」


「はい」


 朔が嬉しそうに笑う。


「じゃあ、約束」


「約束です」


 二人の間で、小さな約束が生まれた。


 工事が終わったとき。


 同居生活も終わったと思った。


 けれど。


 終わったのではなく。


 二人で新しい時間の過ごし方を見つけただけなのかもしれない。


     *


 その夜。


 依央は一人になってから、カレンダーを開いた。


 来週から仕事。


 そして、その先の休日。


 午後三時。


 小さく印をつける。


「……楽しみ」


 口にしてから、少し恥ずかしくなった。


 たった一時間。


 コーヒーを飲むだけ。


 それなのに。


 その時間を楽しみにしている。


 それはきっと。


 コーヒーが楽しみなのではない。


 そこに、朔がいることが楽しみなのだ。


 依央はそう気づきながらも、まだその気持ちに名前をつけなかった。


     *


 一方、朔も自分の部屋でカレンダーを見ていた。


 同じように、休日の午後三時に印をつける。


「……これなら、会えますね」


 小さく呟く。


 そして、ふと笑った。


 別々の部屋。


 別々の仕事。


 別々の生活。


 それでも。


 午後三時だけは、二人の時間になる。


 そんな約束が。


 思っていた以上に嬉しかった。


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