第八章 午後三時の約束 中編
土曜日。
午後二時四十分。
依央は時計を見た。
いつもなら、何となく時間を過ごしている頃だ。
けれど今日は違う。
午後三時。
約束した時間。
依央はキッチンへ向かった。
棚から二つのマグカップを取り出す。
コーヒー豆を挽く。
湯を沸かす。
準備をしながら、何度も時計を見る。
「……まだ早いですね」
自分でもおかしくなって、少し笑った。
別に約束の時間ぴったりに飲まなくてもいい。
それなのに。
待ち遠しかった。
*
午後二時五十五分。
チャイムが鳴る。
「はい」
「私です」
「どうぞ」
ドアを開けると、朔が立っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「早かったですか?」
「ちょうどいいです」
「よかった」
朔が部屋へ入る。
そしてテーブルを見る。
「もう準備してくれたんですね」
「少し早かっただけです」
「嬉しいです」
二人で向かい合って座る。
時計の針が三時を指した。
「じゃあ」
朔がマグカップを持ち上げる。
「午後三時の約束」
「乾杯するものなんですか?」
「いいじゃないですか」
「……そうですね」
二人のマグカップが軽く触れた。
「乾杯」
「乾杯」
コーヒーを飲む。
ただそれだけ。
なのに、二人とも笑っていた。
*
「なんか、不思議ですね」
朔が言う。
「何がですか?」
「同居していたときは、午後三時になったら普通にコーヒー飲んでたのに」
「はい」
「今は、わざわざ約束してる」
「……そうですね」
「でも、私は今のほうが好きかもしれません」
「どうして?」
「自分から会いたいと思って、会いに来てるから」
依央は少しだけ目を伏せた。
「……私もです」
朔が嬉しそうに笑った。
*
しばらく話したあと。
依央はテーブルの端に置いてあった書類へ目を向けた。
「それ、新しい仕事の?」
「はい」
「来週ですよね」
「はい」
依央の声が少し小さくなる。
「実は、ちょっと緊張してます」
「そうですよね」
「久しぶりの仕事なので」
「怖い?」
「……少し」
依央は正直に答えた。
「また前みたいになったらどうしようって」
朔は何も言わず、依央を見る。
「仕事そのものが嫌なわけじゃないんです」
「はい」
「でも、無理してしまう自分が怖くて」
「……」
「辞めるときも、自分では限界まで気づけなかったので」
依央はマグカップを両手で包んだ。
「今度はちゃんと、自分のことを見ながら働きたいと思ってます」
「それなら大丈夫です」
「どうして?」
「今の白瀬さんは、前とは違うから」
「……」
「ちゃんと自分の気持ちを言えるようになったじゃないですか」
依央は顔を上げた。
「前は、そんなこと言ってくれなかったです」
「そうでした?」
「はい」
「……そうかもしれません」
「だから大丈夫」
朔は笑った。
「もし辛くなったら、私に言ってください」
「……ありがとうございます」
*
そのとき。
朔のスマートフォンが鳴った。
「すみません」
画面を見る。
仕事の連絡だった。
朔の表情が少し変わる。
「……どうしました?」
「明日の仕事のことで」
「大丈夫ですか?」
「ちょっと面倒なことになってて」
朔はメッセージを読む。
「担当してる企画、急に内容を変更することになったみたいです」
「今日休みなのに?」
「はい」
「大変ですね」
「しかも、私がまとめ直さないといけなくて」
朔がため息をついた。
「……帰ってからやります」
「今から?」
「はい」
立ち上がろうとする朔。
依央が口を開いた。
「久住さん」
「はい?」
「ここでやればいいですよ」
「え?」
「一人でやるより」
「でも……」
「私は邪魔しませんから」
「……いいんですか?」
「もちろん」
朔は少し迷った。
そして。
「お願いします」
*
朔がテーブルに資料を広げる。
依央は向かい側で自分の書類を見る。
会話はほとんどない。
それでも、気まずくなかった。
時々。
「これ、どう思います?」
朔が聞く。
「この部分を先にしたほうが分かりやすいと思います」
「なるほど」
また作業に戻る。
しばらくして。
「できました」
朔が息を吐く。
「お疲れさまです」
「ありがとうございます」
朔は背もたれに身体を預けた。
「一人だったら、たぶんもっと時間かかってました」
「そうですか?」
「はい」
朔は依央を見る。
「白瀬さんがいてくれてよかった」
依央は少し照れた。
「それならよかったです」
*
時計を見る。
午後四時半。
「一時間半も経ってますね」
「早いですね」
「午後三時の約束だったのに」
「もう終わりにします?」
依央が聞く。
朔は少し考えた。
「……もう少しいてもいいですか?」
「はい」
「よかった」
朔が笑う。
依央も笑った。
*
午後六時。
外が少し暗くなってきた。
「夕飯、どうします?」
「まだ何も考えてません」
「じゃあ」
朔が立ち上がる。
「一緒に作りません?」
「いいですね」
二人で冷蔵庫を開ける。
「これなら作れそう」
「じゃあ、それにしましょう」
自然に料理が始まる。
野菜を切る。
鍋を火にかける。
味見をする。
「ちょっと薄いです」
「じゃあ、少しだけ足します」
「どうです?」
「うん。ちょうどいい」
「よかった」
二人で笑う。
まるで同居していた頃のようだった。
けれど。
今は違う。
自分たちで「一緒にいること」を選んでいる。
*
夕飯のあと。
「今日は飲みます?」
朔が冷蔵庫を覗く。
「少しなら」
「じゃあ、少し」
二人でグラスを用意する。
「今日もお疲れさまでした」
「お疲れさまです」
乾杯。
一口飲む。
「……美味しい」
「ですね」
二杯目を飲みながら、今日一日のことを話す。
仕事。
新しい生活。
これからのこと。
「白瀬さん」
「はい?」
「新しい仕事が始まっても」
「はい」
「こういう時間、続けたいです」
依央は少しだけ笑った。
「私もです」
「じゃあ、また午後三時に」
「はい」
「約束」
「約束です」
*
夜。
朔が帰る時間になった。
「今日は長居しました」
「大丈夫ですよ」
「楽しかったです」
「私も」
玄関。
朔が靴を履く。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアが閉まる。
依央は静かになった部屋で、二つのグラスを見る。
今日も一日。
ただ過ごしたわけではない。
仕事の不安を話した。
朔の仕事を一緒に考えた。
一緒に夕飯を作った。
お酒を飲んだ。
そして、次の約束をした。
少しずつ。
でも確実に。
二人の生活は、一緒に暮らしていた頃とは違う形になり始めていた。
そして依央は、まだ知らない。
来週から始まる新しい仕事が。
二人の関係を、さらに大きく変えることになるとは。




