↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/36

第八章 午後三時の約束 中編


 土曜日。


 午後二時四十分。


 依央は時計を見た。


 いつもなら、何となく時間を過ごしている頃だ。


 けれど今日は違う。


 午後三時。


 約束した時間。


 依央はキッチンへ向かった。


 棚から二つのマグカップを取り出す。


 コーヒー豆を挽く。


 湯を沸かす。


 準備をしながら、何度も時計を見る。


「……まだ早いですね」


 自分でもおかしくなって、少し笑った。


 別に約束の時間ぴったりに飲まなくてもいい。


 それなのに。


 待ち遠しかった。


     *


 午後二時五十五分。


 チャイムが鳴る。


「はい」


「私です」


「どうぞ」


 ドアを開けると、朔が立っていた。


「こんにちは」


「こんにちは」


「早かったですか?」


「ちょうどいいです」


「よかった」


 朔が部屋へ入る。


 そしてテーブルを見る。


「もう準備してくれたんですね」


「少し早かっただけです」


「嬉しいです」


 二人で向かい合って座る。


 時計の針が三時を指した。


「じゃあ」


 朔がマグカップを持ち上げる。


「午後三時の約束」


「乾杯するものなんですか?」


「いいじゃないですか」


「……そうですね」


 二人のマグカップが軽く触れた。


「乾杯」


「乾杯」


 コーヒーを飲む。


 ただそれだけ。


 なのに、二人とも笑っていた。


     *


「なんか、不思議ですね」


 朔が言う。


「何がですか?」


「同居していたときは、午後三時になったら普通にコーヒー飲んでたのに」


「はい」


「今は、わざわざ約束してる」


「……そうですね」


「でも、私は今のほうが好きかもしれません」


「どうして?」


「自分から会いたいと思って、会いに来てるから」


 依央は少しだけ目を伏せた。


「……私もです」


 朔が嬉しそうに笑った。


     *


 しばらく話したあと。


 依央はテーブルの端に置いてあった書類へ目を向けた。


「それ、新しい仕事の?」


「はい」


「来週ですよね」


「はい」


 依央の声が少し小さくなる。


「実は、ちょっと緊張してます」


「そうですよね」


「久しぶりの仕事なので」


「怖い?」


「……少し」


 依央は正直に答えた。


「また前みたいになったらどうしようって」


 朔は何も言わず、依央を見る。


「仕事そのものが嫌なわけじゃないんです」


「はい」


「でも、無理してしまう自分が怖くて」


「……」


「辞めるときも、自分では限界まで気づけなかったので」


 依央はマグカップを両手で包んだ。


「今度はちゃんと、自分のことを見ながら働きたいと思ってます」


「それなら大丈夫です」


「どうして?」


「今の白瀬さんは、前とは違うから」


「……」


「ちゃんと自分の気持ちを言えるようになったじゃないですか」


 依央は顔を上げた。


「前は、そんなこと言ってくれなかったです」


「そうでした?」


「はい」


「……そうかもしれません」


「だから大丈夫」


 朔は笑った。


「もし辛くなったら、私に言ってください」


「……ありがとうございます」


     *


 そのとき。


 朔のスマートフォンが鳴った。


「すみません」


 画面を見る。


 仕事の連絡だった。


 朔の表情が少し変わる。


「……どうしました?」


「明日の仕事のことで」


「大丈夫ですか?」


「ちょっと面倒なことになってて」


 朔はメッセージを読む。


「担当してる企画、急に内容を変更することになったみたいです」


「今日休みなのに?」


「はい」


「大変ですね」


「しかも、私がまとめ直さないといけなくて」


 朔がため息をついた。


「……帰ってからやります」


「今から?」


「はい」


 立ち上がろうとする朔。


 依央が口を開いた。


「久住さん」


「はい?」


「ここでやればいいですよ」


「え?」


「一人でやるより」


「でも……」


「私は邪魔しませんから」


「……いいんですか?」


「もちろん」


 朔は少し迷った。


 そして。


「お願いします」


     *


 朔がテーブルに資料を広げる。


 依央は向かい側で自分の書類を見る。


 会話はほとんどない。


 それでも、気まずくなかった。


 時々。


「これ、どう思います?」


 朔が聞く。


「この部分を先にしたほうが分かりやすいと思います」


「なるほど」


 また作業に戻る。


 しばらくして。


「できました」


 朔が息を吐く。


「お疲れさまです」


「ありがとうございます」


 朔は背もたれに身体を預けた。


「一人だったら、たぶんもっと時間かかってました」


「そうですか?」


「はい」


 朔は依央を見る。


「白瀬さんがいてくれてよかった」


 依央は少し照れた。


「それならよかったです」


     *


 時計を見る。


 午後四時半。


「一時間半も経ってますね」


「早いですね」


「午後三時の約束だったのに」


「もう終わりにします?」


 依央が聞く。


 朔は少し考えた。


「……もう少しいてもいいですか?」


「はい」


「よかった」


 朔が笑う。


 依央も笑った。


     *


 午後六時。


 外が少し暗くなってきた。


「夕飯、どうします?」


「まだ何も考えてません」


「じゃあ」


 朔が立ち上がる。


「一緒に作りません?」


「いいですね」


 二人で冷蔵庫を開ける。


「これなら作れそう」


「じゃあ、それにしましょう」


 自然に料理が始まる。


 野菜を切る。


 鍋を火にかける。


 味見をする。


「ちょっと薄いです」


「じゃあ、少しだけ足します」


「どうです?」


「うん。ちょうどいい」


「よかった」


 二人で笑う。


 まるで同居していた頃のようだった。


 けれど。


 今は違う。


 自分たちで「一緒にいること」を選んでいる。


     *


 夕飯のあと。


「今日は飲みます?」


 朔が冷蔵庫を覗く。


「少しなら」


「じゃあ、少し」


 二人でグラスを用意する。


「今日もお疲れさまでした」


「お疲れさまです」


 乾杯。


 一口飲む。


「……美味しい」


「ですね」


 二杯目を飲みながら、今日一日のことを話す。


 仕事。


 新しい生活。


 これからのこと。


「白瀬さん」


「はい?」


「新しい仕事が始まっても」


「はい」


「こういう時間、続けたいです」


 依央は少しだけ笑った。


「私もです」


「じゃあ、また午後三時に」


「はい」


「約束」


「約束です」


     *


 夜。


 朔が帰る時間になった。


「今日は長居しました」


「大丈夫ですよ」


「楽しかったです」


「私も」


 玄関。


 朔が靴を履く。


「じゃあ、おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 ドアが閉まる。


 依央は静かになった部屋で、二つのグラスを見る。


 今日も一日。


 ただ過ごしたわけではない。


 仕事の不安を話した。


 朔の仕事を一緒に考えた。


 一緒に夕飯を作った。


 お酒を飲んだ。


 そして、次の約束をした。


 少しずつ。


 でも確実に。


 二人の生活は、一緒に暮らしていた頃とは違う形になり始めていた。


 そして依央は、まだ知らない。


 来週から始まる新しい仕事が。


 二人の関係を、さらに大きく変えることになるとは。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。