第八章 午後三時の約束 後編
日曜日の朝。
依央は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
ベッドから起き上がり、カレンダーを見る。
明日から、新しい仕事が始まる。
「……明日か」
少しだけ緊張する。
けれど、以前とは違った。
不安はある。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
依央は着替えて、リビングへ向かった。
*
朝食を終えた頃。
スマートフォンが鳴った。
朔からだった。
『今日、午後三時どうします?』
依央は少し笑った。
『もちろん会います』
すぐに返事が来る。
『よかった』
たったそれだけ。
それなのに、依央の気持ちは少し軽くなった。
*
午後二時五十分。
依央はコーヒーを淹れていた。
いつものように二つのマグカップを用意する。
豆を挽く。
湯を注ぐ。
そして時計を見る。
午後二時五十九分。
チャイムが鳴った。
「はい」
「私です」
「どうぞ」
ドアを開ける。
朔が笑って立っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「今日も早かったですね」
「白瀬さんも」
「私は準備してたので」
「私もです」
二人で笑う。
リビングへ向かう。
*
「午後三時」
時計が三時を指す。
朔がマグカップを持ち上げた。
「今週もお疲れさまでした」
「まだ日曜日ですよ」
「細かいことはいいんです」
「そうですね」
マグカップが軽く触れる。
「乾杯」
「乾杯」
コーヒーを飲む。
いつもの味。
いつもの時間。
けれど。
依央は少しだけ違うものを感じていた。
これからは自分も働く。
今までのように自由な時間はなくなる。
だからこそ、この時間が大切になる。
*
「明日ですね」
朔が言った。
「はい」
「緊張してます?」
「少し」
「眠れそうですか?」
「分かりません」
「じゃあ、今日は早く寝ましょう」
「久住さんは?」
「私も早く寝ます」
「本当ですか?」
「本当です」
「昨日もそう言って遅くまで起きてましたよね」
「……ばれました?」
「ばれます」
依央が笑う。
朔も笑う。
「じゃあ、今日はちゃんと寝ます」
「お願いします」
*
しばらくして。
朔が鞄から小さな箱を取り出した。
「これ」
「何ですか?」
「開けてください」
依央が箱を開ける。
中には小さなキーホルダーが入っていた。
「……これ」
「仕事用のバッグにつけられるやつです」
「どうして?」
「明日から新しい仕事だから」
依央はキーホルダーを手のひらに乗せる。
「お守りみたいなものです」
「……ありがとうございます」
「仕事、大変だと思います」
「はい」
「嫌なこともあるかもしれない」
「はい」
「でも」
朔がまっすぐ依央を見る。
「帰ってきてくださいね」
「……」
「ここにじゃなくても」
「はい」
「ちゃんと自分のところへ」
依央はキーホルダーを握った。
「分かりました」
「約束です」
「約束します」
*
午後三時半。
二人は近所へ出かけることにした。
目的地は駅前。
新しい仕事に必要なものを買うためだった。
「靴、これでいいと思います?」
「少し地味じゃないですか?」
「仕事用なので」
「じゃあ、こっちは?」
「それもいいですね」
二人で店を回る。
服を見て。
鞄を見て。
文房具を見る。
「これ、使いやすそう」
「買います?」
「迷います」
「じゃあ、私が選びます」
「責任重大ですよ」
「任せてください」
朔が選んだものを依央が手に取る。
「……これにします」
「本当?」
「はい」
「よかった」
何でもない買い物。
でも。
依央には楽しかった。
*
買い物を終えたあと。
二人は小さな居酒屋へ入った。
「今日は前祝いです」
朔が言う。
「何の?」
「新しい仕事」
「まだ始まってませんよ」
「だから前祝い」
「なるほど」
二人で笑う。
料理を注文する。
ビールを二つ。
「乾杯」
「乾杯」
グラスが触れる。
「明日、頑張ってください」
「はい」
「でも、頑張りすぎないでください」
「……分かりました」
「約束ですよ」
「二つ目の約束ですね」
「いくつでも作りましょう」
「……そうですね」
*
二杯目。
朔が少し酔ってきた。
「白瀬さん」
「はい?」
「新しい職場で、仲良い人できるかもしれませんね」
「そうですね」
「私より仲良くなったりして」
「……どうでしょう」
「嫌だな」
朔がぽつりと言う。
依央は少し驚いた。
「どうして?」
「なんとなく」
「久住さん」
「はい」
「大丈夫ですよ」
「……何が?」
「私は、久住さんとの時間を大事にしますから」
朔は黙った。
頬が少し赤くなる。
「……そういうこと言うんですね」
「変でした?」
「変じゃないです」
朔はグラスを見つめる。
「嬉しいです」
*
店を出る。
夜風が気持ちいい。
「ちょっと飲みすぎました」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「本当ですか?」
「本当です」
朔が笑う。
駅からマンションまで歩く。
いつもの道。
いつもの隣人。
でも。
もう以前とは違う。
*
マンションの前。
「じゃあ、ここで」
「はい」
「明日、頑張ってくださいね」
「久住さんも」
「私は普通に仕事です」
「それでも」
「……ありがとうございます」
朔が少しだけ頭を下げる。
そして、自分の部屋へ向かう。
依央も自分の部屋へ。
数歩歩いたところで。
「白瀬さん」
振り返る。
「はい?」
朔が立っている。
「明日」
「はい」
「仕事が終わったら、連絡してください」
「分かりました」
「待ってます」
「……はい」
朔は笑った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
*
部屋へ戻った依央は、買ったばかりのキーホルダーをバッグにつけた。
小さな音がする。
明日から、このバッグを持って仕事へ行く。
不安はまだある。
でも。
今日、朔が言ってくれた言葉を思い出す。
――帰ってきてくださいね。
依央は少し笑った。
「……大丈夫」
そう呟いた。
*
翌朝。
依央は新しい服に袖を通した。
バッグを持つ。
玄関を開ける。
ちょうど隣のドアも開いた。
「あ」
「おはようございます」
「おはようございます」
朔だった。
「今日からですね」
「はい」
「緊張してます?」
「少し」
「大丈夫」
朔が笑う。
「いってらっしゃい」
依央も笑った。
「行ってきます」
歩き出す。
少し進んだところで、依央は振り返った。
朔がまだ玄関前に立っている。
手を振っている。
依央も小さく手を振った。
そして前を向く。
*
午後三時。
依央は新しい職場の休憩室にいた。
時計を見る。
午後三時。
昨日までなら。
この時間には朔とコーヒーを飲んでいた。
今日は一人。
少し寂しい。
でも。
スマートフォンを見ると、メッセージが届いていた。
『午後三時ですね』
依央は笑った。
『はい。今、休憩です』
『初日どうですか?』
『思ったより大丈夫です』
『よかった』
『午後三時になると、少し安心します』
送信。
すぐに返事が来た。
『私も』
依央はスマートフォンを見つめた。
たった一言。
でも。
その一言だけで、午後三時が少し特別な時間になった。
離れていても。
一緒にいなくても。
同じ時間を思い出せる。
それだけで十分だった。
――今は。




