第九章 依央さん 前編
新しい仕事が始まって、一週間。
白瀬依央にとっては、長いようで短い一週間だった。
朝は決まった時間に起き、簡単な朝食を済ませて家を出る。以前とは違う場所へ向かい、新しい人たちと、新しい仕事に取り組む。
覚えることは多い。それでも、今のところ大きな問題は起きていなかった。
以前のように、何もかも抱え込むこともしない。分からないことがあれば聞き、疲れたら休む。帰宅したら、仕事のことを考えすぎない。
少しずつ、自分なりのペースを作っていた。
そして、もう一つ変わらないものがある。
午後三時。
休憩時間になると、依央はスマートフォンを見る。そこには、ほとんど毎日のように朔からメッセージが届いていた。
『午後三時です』
『今日もお疲れさまです』
『ちゃんと休憩してくださいね』
依央は、そのメッセージを見るたびに少し笑う。
『久住さんも』
たった数行のやり取り。それだけなのに、新しい生活の中で大切なものになっていた。
*
金曜日。
仕事を終えた依央がマンションへ戻る。エレベーターを降り、廊下を歩いて、自分の部屋の前まで来たところで――。
「おかえりなさい」
隣から声がした。
「……久住さん」
朔が玄関の前に立っている。
「お疲れさまでした。今日は早かったですね」
「定時で帰れたので」
「よかった」
朔が笑う。
「今日は、うちでご飯食べません?」
「いいんですか?」
「もちろんです」
依央は少し迷うふりをしてから、頷いた。
「じゃあ、お邪魔します」
二人で朔の部屋へ入る。
以前、一緒に暮らしていた場所。今は朔一人の部屋だが、依央が来ると少しだけ空気が変わる。
「何を作りましょうか」
「冷蔵庫にあるもので、何とかしましょう」
「私、切りますね」
「お願いします」
二人でキッチンに立つ。
*
依央が野菜を切り、朔が鍋を火にかける。調味料を探していた依央が、棚の前で手を止めた。
「醤油、どこでしたっけ」
「右の奥です」
「これ?」
「それです」
「ありがとうございます」
短いやり取りが、妙に懐かしい。
「……こうしていると、前みたいですね」
朔が鍋をかき混ぜながら言った。
「そうですね」
「でも、今のほうがいいかもしれません」
依央は包丁を置かずに、隣を見た。
「どうして?」
「会いたいときに会えるので」
朔は何気なく言ったつもりだったのかもしれない。けれど、依央の手はほんの少しだけ止まった。
「……それは、そうですね」
それ以上は続けず、二人はまた料理に戻った。
*
夕食ができると、二人でテーブルを囲んだ。
「いただきます」
声が重なる。
一口食べた依央が、目を細めた。
「美味しいです」
「よかった。味見した甲斐がありました」
「味見、何回しました?」
「……覚えていません」
「多かったんですね」
「少しだけです」
「少しだけ、ですか」
依央が笑うと、朔もつられて笑った。
食事を進めながら、仕事の話をする。新しい職場のこと、最近あったこと。依央が話すのを、朔は急かさずに聞いていた。
「新しい仕事、慣れてきました?」
「少しずつ。思っていたより楽しいです」
「それならよかった」
「まだ分からないことも多いですけど」
「最初は仕方ないですよ。焦らなくて大丈夫です」
朔はそう言ってから、依央の顔を見た。
「前より、表情が柔らかくなりましたね」
「そうですか?」
「はい。……少し安心しました」
依央は箸を置いた。
「久住さんのおかげかもしれません」
朔の手が止まる。
「私の?」
「はい」
「どうしてですか」
依央はすぐには答えなかった。言葉にすると、思っていた以上に近いところまで踏み込んでしまいそうだった。
「帰る場所があるような気がするので」
朔は黙った。
やがて、視線を落としたまま小さく笑う。
「……それ、嬉しいです」
その声が思ったより近くに響いて、依央は返事をするのを忘れた。
*
食事を終えると、朔が冷蔵庫から瓶を取り出した。
「お酒、少し飲みます?」
「少しだけなら」
「では、少しだけ」
グラスを二つ用意し、朔が酒を注ぐ。
「今週も、お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
グラスが触れた。
一口飲む。
「……美味しいですね」
「よかった」
朔は自分のグラスを見ながら、少しだけ口元を緩めた。
二杯目を注ぐ頃には、食事のときよりも会話がゆっくりになっていた。
「新しい仕事、楽しいと言っていましたけど」
「はい」
「無理して、そう言っているわけではないですか?」
「違います。本当に楽しいです」
「なら、よかった」
「そんなに心配ですか?」
「……心配しますよ」
朔はグラスの縁を指でなぞった。
「依央さんが、また一人で抱え込まないか」
依央は顔を上げた。
「大丈夫です。今は、ちゃんと話せますから」
「誰に?」
問いかけたあとで、朔自身が少し驚いたように黙った。
依央も、すぐには答えなかった。
「……久住さんに、です」
朔の視線が揺れる。
「そうですか」
それだけ言って、グラスに口をつける。けれど、飲む前に一度、息を整えた。
「依央さんなら、大丈夫です」
依央の動きが止まった。
「……今」
朔も、ようやく気づいたようだった。
「あ」
「名前で呼びましたよね」
「……はい」
朔の頬が、酒のせいだけではなく赤くなる。
「すみません」
「どうして謝るんですか」
「急に呼んだので」
「嫌ではないです」
依央がそう言うと、朔はグラスを持ったまま目を瞬いた。
「本当ですか?」
「はい」
「……よかった」
ほっとしたように笑う。その表情を見て、依央の胸にも小さな熱が残った。
*
しばらくして、朔が皿を片づけようと立ち上がった。
「依央さん、それ、取ってもらえますか」
「はい」
依央が皿を渡す。
朔は受け取ったあと、少しだけ固まった。
「……どうしました?」
「いえ。今度は、ちゃんと呼べました」
「そうですね」
「まだ少し、変な感じがします」
「私もです」
「嫌ですか?」
「いいえ」
依央はグラスに残った酒を見た。
「ただ、慣れていないだけです」
「そのうち慣れますかね」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
朔が笑い、依央も笑った。
名字から名前へ。
たったそれだけの変化なのに、二人の間にあった空気が少しだけ違っている。
*
夜が深まり、朔は新しいグラスに少しだけ酒を注いだ。
「依央さん」
「はい」
呼ばれただけなのに、依央の背筋がわずかに伸びる。
朔はそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、グラスを見つめたまま続けた。
「……もう一度、呼んでもいいですか」
「もう呼んでいますけど」
「そうですね」
朔は困ったように笑った。
「では、もう一度」
依央は黙って頷く。
「依央さん」
「はい」
短い返事が、思ったより柔らかくこぼれた。
朔はしばらく何も言わなかった。やがて、照れを隠すように視線を逸らす。
「……いいですね」
「何がですか」
「名前で呼ぶのが」
「そんなにですか?」
「そんなに、です」
依央は笑いながらも、グラスに視線を落とした。
「じゃあ、これからそうしますか」
「はい」
「でも」
「はい?」
「私は、まだ久住さんと呼びますね」
朔が目を丸くする。
「私だけ名前で?」
「急には変えられないので」
「……少し、ずるい気がします」
「どうしてですか」
「私だけ、近くなったみたいで」
その言葉に、依央の指がグラスの表面で止まった。
朔も言ってから気づいたのか、慌てて付け足す。
「いえ、その……悪い意味ではなくて」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
依央は少しだけ笑った。
「そのうち、慣れるかもしれません」
「かもしれない、ですか」
「たぶん」
「また、たぶんなんですね」
二人の笑い声が、静かな部屋に広がった。
*
午後十一時。
朔が帰る準備をする。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。ごちそうさまでした」
「楽しかったです」
「私もです」
玄関まで見送る。
「また来週も、ご飯を食べましょう」
「はい」
「午後三時の約束も」
「もちろんです」
朔が靴を履き、ドアを開ける。
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
朔が一歩外へ出る。
そして、振り返った。
「……依央さん」
「はい?」
呼ばれたことに、今度はすぐ返事ができた。
「おやすみなさい」
さっきより、少しだけ優しい声だった。
依央は一瞬だけ黙り、それから小さく笑う。
「……おやすみなさい」
ドアが閉まる。
*
依央は玄関に一人残った。
胸の奥が、少しだけ温かい。
「依央さん……」
自分の名前を口にしてみる。
ただの呼び方のはずなのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
依央は、誰も見ていない玄関で小さく笑った。
*
隣の部屋へ戻った朔も、玄関で立ち止まっていた。
「……呼んじゃった」
恥ずかしさはある。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、もう一度呼びたかった。
朔はスマートフォンを手に取り、依央とのメッセージ画面を開く。
少し迷ってから、文字を入力した。
『依央さん』
送信すると、すぐに既読がついた。
『どうしました?』
朔は思わず笑う。
『呼んでみただけです』
少しして、返信が届いた。
『……変な人ですね』
そのあとに、もう一通。
『おやすみなさい、朔』
朔は目を見開いた。
「……」
自分の名前。
今度は、依央が呼んでくれた。
胸が高鳴る。
しばらく画面を見つめたあと、朔は小さく笑った。
「……嬉しい」
まだ二人の呼び方は、完全には変わっていない。
けれど、その夜。
二人の距離は、確かに一歩近づいた。




