第九章 依央さん 中編
月曜日。
依央が玄関の鍵を閉めていると、隣のドアが開いた。
「おはようございます」
「おはようございます、依央さん」
呼ばれた瞬間、依央の手が止まる。
「……まだ慣れませんね」
「昨日、メッセージでも呼んだのに」
「文字で見るのと、直接呼ばれるのは違いますから」
朔は楽しそうに笑った。
「じゃあ、慣れるまで続けます」
「それはそれで困ります」
「どうしてです?」
「意識してしまうので」
そう言ってから、依央は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
朔も何も言わず、ただ嬉しそうに笑った。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃい、依央さん」
「……行ってきます」
二人はそれぞれの道へ向かった。
ほんの数日前までなら、こんな会話はなかった。
名前を呼ぶ。
それだけのことが、二人にとって少しずつ特別になっていた。
*
その日の仕事は忙しかった。
新しい職場にも慣れ始めたとはいえ、まだ覚えることは多い。
午前中から細かな作業が続き、気づけば昼休みを過ぎていた。
午後三時。
ようやく休憩に入った依央は、コーヒーを片手にスマートフォンを取り出した。
いつもの時間。
画面には、朔からのメッセージが届いていた。
『お疲れさまです。今日は少し遅くなりました』
依央は返信する。
『お疲れさまです。忙しいんですか?』
『少しだけ』
そこで会話は途切れた。
いつもなら、もう一言くらい続く。
依央は画面を見つめた。
何かあったのだろうか。
けれど、仕事中に何度も聞くのも気が引ける。
依央はスマートフォンを伏せた。
午後三時の休憩。
今日は、いつもより静かだった。
*
仕事を終えてマンションへ戻る。
エレベーターを降りると、廊下の先に朔がいた。
「依央さん」
「お疲れさまです」
朔はいつもより少し疲れた顔をしていた。
「今日は大変だったみたいですね」
「分かります?」
「なんとなく」
朔は苦笑した。
「顔に出てました?」
「少しだけ」
「じゃあ、見抜かれましたね」
「何かあったんですか?」
「仕事で、ちょっと揉めてしまって」
朔は鞄を持ち直した。
「担当している案件で、急に先方から変更が入ったんです。こちらで調整しないといけなくなって」
「それは大変ですね」
「明日までにまとめないといけなくて」
朔はそこで言葉を切った。
「……でも、帰ってきたら少し落ち着きました」
「どうして?」
「ここに帰ってきたから」
依央はその言葉に、何も返せなかった。
*
「よかったら」
依央が隣の自分の部屋を指した。
「少し休んでいきませんか?」
「いいんですか?」
「明日までなら、まだ時間がありますから」
朔は少し迷ってから頷いた。
「では、お言葉に甘えます」
二人で依央の部屋へ入る。
依央はキッチンへ向かった。
「コーヒーにします?」
「お願いします」
「砂糖は?」
「今日は少し多めで」
「珍しいですね」
「今日は甘いものが必要です」
「分かりました」
コーヒーを淹れる。
二つのマグカップをテーブルへ置いた。
朔は一口飲んで、ゆっくり息を吐いた。
「……落ち着きます」
「それならよかったです」
*
朔は持ってきた資料をテーブルに広げた。
「これ、少しだけ見てもらってもいいですか?」
「私でよければ」
依央は資料を覗き込む。
「この部分、先に整理したほうが分かりやすいかもしれません」
「なるほど」
「相手が変更したところと、こちらで対応するところを分けると……」
「……確かに」
朔はペンを走らせる。
しばらく二人で資料を確認した。
依央は専門的な判断には口を出さず、あくまで外から見た印象を伝える。
朔はそれを参考にしながら、少しずつ資料を整えていった。
「できました」
朔がパソコンを閉じる。
「助かりました」
「私は大したことしてませんよ」
「そんなことないです」
朔は椅子の背に身体を預けた。
「一人でやってたら、もっと時間かかってました」
「それなら、よかったです」
「……ありがとうございます」
朔は柔らかく笑った。
*
時計を見る。
午後八時を過ぎていた。
「夕飯、まだですよね?」
「はい」
「じゃあ、何か作りましょうか」
「疲れてません?」
「少しだけ」
「なら、簡単なものにしましょう」
冷蔵庫を開ける。
残っていた食材を確認し、二人で相談する。
結局、簡単なパスタを作ることにした。
「それ、切りますね」
「お願いします」
朔が野菜を切る。
依央がフライパンを温める。
肩が触れそうになるほど近いキッチン。
ふと、朔が笑った。
「こうしてると、やっぱり前みたいですね」
「そうですね」
「でも、前とは少し違います」
「……何が?」
「今は、こうして会うことを自分たちで決めてるから」
依央はフライパンを見つめたまま、少しだけ笑った。
「確かに」
*
食事を終えたあと。
朔が冷蔵庫を開けた。
「今日は飲みません?」
「少しなら」
「じゃあ、一杯だけ」
グラスを二つ。
軽く乾杯する。
「今日一日、お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
一口飲む。
先ほどまで張り詰めていた朔の表情が、少しずつ緩んでいく。
「……今日は、ここに来てよかったです」
「私も、来てくれてよかったです」
「依央さん」
「はい」
名前を呼ばれる。
もう、さっきほどの違和感はなかった。
「これから仕事が忙しくなっても」
「はい」
「こういう時間、なくしたくないです」
依央は少し考えた。
「私もです」
「午後三時の約束も?」
「もちろん」
朔が笑う。
「それなら安心しました」
*
しばらくして。
朔が時計を見る。
「そろそろ戻ります」
「もうそんな時間ですか」
「明日もありますから」
玄関まで見送る。
朔が靴を履いていると、ふと依央のバッグが目に入った。
そこには、以前もらったキーホルダーがついている。
「まだ付けてくれてるんですね」
「はい」
「嬉しいです」
「仕事に行くとき、いつも見えますから」
「……それなら、贈った甲斐がありました」
朔が立ち上がる。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアを開ける。
朔が廊下へ出る。
「依央さん」
「はい?」
「明日の午後三時も、連絡します」
「待ってます」
朔は満足そうに笑った。
「おやすみなさい」
「おやすみ、朔」
依央自身が言ってから、少しだけ目を丸くする。
今日は自然に口から出た。
朔も驚いたように振り返った。
「……今」
「何ですか?」
「ううん」
朔は嬉しそうに笑う。
「おやすみなさい、依央さん」
ドアが閉まった。
*
依央は玄関に一人残った。
今、自分は確かに「朔」と呼んだ。
前までは少し照れた。
でも今日は、自然だった。
名前を呼ぶことが特別ではなくなったわけではない。
むしろ。
特別だからこそ、少しずつ馴染んできたのかもしれない。
依央はリビングへ戻り、テーブルの上を片づける。
二つのグラス。
二つのマグカップ。
二人分の食事。
どれも、同居していた頃と似ている。
けれど今は違う。
同じ家にいるからではない。
会いたいと思った二人が、自分たちで時間を作っている。
そのことが、依央には大切だった。
*
隣の部屋。
朔も玄関を閉めたあと、しばらく動かなかった。
「……おやすみ、朔」
さっきの声を思い出す。
嬉しくて、思わず笑ってしまう。
スマートフォンを見る。
午後三時の約束。
明日も連絡する。
それだけの約束なのに。
今の朔には、それが一日の中で一番楽しみな時間になっていた。
そして二人はまだ知らない。
この小さな約束が、やがて二人の関係そのものを変えていくことを。




